第陸拾肆話 縁結び
縫合寝殿の隣には、縁結びの稲荷神社が建っていた。かつては明神様の分霊が鎮座し、多くの参拝者が良縁の成就を願いに山を登った。城の城主が移転の計画を立て、お社の中の、神と為ります柱の芯が抜かれて以来、現在は神社の形こそあれ神無しの状態で放置されていた。
やがて縫合寝殿の聖域が、隣の稲荷神社を飲み込んでしまい、境内を含めて人が容易に参拝できぬ、
院長は、それでも良いと言う。むしろそれで良いと言う。この聖域を護っている限り、神社も、縫合寝殿も、朽ちることがないからだと。
近年、着手されるはずの山の開発も頓挫し、ただこの山には神が不在のお社が、寂しく軒を晒すのみとなった。
お社の左右に構える二対の
「……ハァ~。今度こそ、駒ちゃんを助けてあげられるって、思ったのに……」
目慈郎は一人、境内を竹箒で掃いていた。周囲に生える大きな御神木は、季節に合わせて葉を落としていく。落ち葉は集めて乾かして、竈の火付けに使用する。
「僕のしたこと、間違ってたのかな……主人様をあの部屋に、案内しないほうがよかったのかな……」
賑わっていた頃の名残が香る、立派な軒と青空を見上げて、ぼんやりと、休憩した。なぜに皆から愛されてきた神社がこのようになってしまったのか、目慈郎は知らない。人間の都合に、興味などなかった。
今は無人の
「このまま、駒ちゃんの意識が戻らなかったら、どうしよう。ずっと暗く冷たい部屋で、冷たい水に浮いたまま、もう二度と、誰ともお話しできなくなっちゃったら、どうしよう……どうして、いつも駒ちゃんだけ……」
杖が砂利を小突く音がして、目慈郎は振り向いた。院長と、その双子の弟翁が、歩いてくるところだった。
「おお、今日は目慈郎の当番だったか。えらいえらい」
「こんにちは、院長様。副院長様も」
目慈郎がぺこりとお辞儀した。
院長は社務所に、赤い結紐を補充するために、よくここを訪れている。駒が紛失してしまう結紐は、院長が拾って、患者の患部の縫合に使用していた。
無限に伸びてゆく
今や買いに来るのは、古銭を手にした駒一人だけだった。縁結びの意味もわからぬままに、好きな赤色を身に着けたいと買ってゆく、無欲な娘であった。
駒が訪れなくなった今、心なしかお社も、寂しげに見えた。双子の老狐が、狐目を細めてお社を眺め、体が膨れるほど息を吸って、深く深く吐いた。
「
「うん……。吉原にも、火伏せの秋葉様とか、お社があったの。駒ちゃんはよく拝んでた」
目慈郎もお社を眺めた。聖域に取り込まれていなければ、とうに朽ちていたであろう、当時のままの、美しい神社だった。
「ほっほっほ、そうかそうか。しかし……もはや、潮時かもしれぬ。
「そんな……駒ちゃんの魂は、どうなっちゃうの?」
「この聖域に、人の霊魂が永く留まることはできぬ。消滅してしまうか、人の気配に誘き寄せられる魑魅魍魎どもに、喰われてしまうか……そのどちらかだ」
「僕はもう、駒ちゃんと一緒にいられないってこと?」
「お前は化け猫になって生き永らえておるが、駒には、同じことができんのだ。こればかりは、仕方がない」
すると、もう一方の双子の翁が、白くもさもさの眉毛を真ん中に寄せた。
「なんとか、ならんもんかのう。あの子の淹れてくれる茶は、毎度とても美味であった」
双子の弟翁は、駒や患者を狙って侵入しようとする魑魅魍魎を、見張る役割も兼ねて縁側を訪れていた。他にも、この寝殿を気にかけた色々な存在が、縁側に遊びに来ては、そこに座って目を光らせていた。駒はそういった
本当は、弟子たちで担う当番制なのだが、どうにも寝殿内で勉強していると、外からの客人に気づきにくいようで、そんな時はいつも駒が話し相手を勤めていた。
その駒が、今度ばかりは危ないと――
カラカラカラと物音がして、境内の砂利に車輪の跡を残しながら、車椅子を押し進めて疑耳彦が現れた。
「目慈郎君、車椅子が直ったよー。車輪に石がいっぱい詰まってたけど、箸を突っ込んだら取れたよ」
疑耳彦は双子の白い老狐に気づいて、丁寧にお辞儀した。
院長は、車椅子なんて道具がここにあること事態、初耳だったので、どういうことかと疑耳彦に尋ねた。
「はい。今度の主人様は、駒ちゃんのことが大好きで、ここを去るときが来たら、ぜひ駒ちゃんに見送りに来てほしいそうですよ。駒ちゃん自身も、主人様を見送るつもりだったから、もしも意識が戻って、少しだけでも出歩ける状態まで回復したら、この椅子に乗せて主人様の見送りに、参加させてやりたいなぁと思いまして」
「そうは言うてもなぁ……まだ駒が目覚めんだろう。七日過ぎても目覚めぬようなら、そろそろ、考えねばなるまいの……」
蚕がうごめく白い顎鬚をさすりながら、院長は辛そうな面持ちだった。
疑耳彦が、後ろ手に肩をすくめて、にやっとする。
「じつは先ほど、駒ちゃんが返事をしました」
「うん? なんと、本当か!? そのような大事な話は、真っ先に儂に伝えに来なさい!」
「あ、はい! 申し訳ありません。嬉しくて、つい車椅子を直しに」
そして車椅子を直した後は、院長のもとではなく目慈郎のところへ来たのだから、まだまだ未熟者なのであった。
「しかし、どういうことだ。儂の見立てでは、もう――」
「はい。俺のこの耳ではっきりと聞きました。主人様が、あんまりにも毎日毎日駒ちゃんの様子を尋ねるもんだから、俺も毎日毎日、駒ちゃんの部屋に入っては様子を診てたんです。そのときに、もしかしたら駒ちゃんの意識が戻ってるかもなぁと思って、主人様が毎日のように駒ちゃんを気にかけていることを、水槽の中の彼女に、詳しく伝えてたんです。毎日毎日。俺、いろんなことを誰かに伝えたり、話したりするの好きなんで、ちっとも苦じゃありませんでした」
院長は、しばし目を丸くしていた。ただ毎日話しかけただけでは、患者の容体に変化はないはず。
それがたとえ、己を気にかけ、想いを寄せる相手からの伝言であったとしても。これまで院長の見立てを覆す患者は、誰一人としていなかった。
いなかったのだ。
院長は、風に吹かれてなびく衣の立てる音に、ふとお社を見上げた。
神無しとは思えぬ、威風堂々とした立派なお社。未だ伽藍洞となりたる
「おお……今一度……お戻りになられましたか、明神様……」
「なんと……お会いしとうございました、明神様」
お社に揃って
ここは、ほとんど妖怪と変わらぬほど神格を堕としたモノの集まり。この場に聖域を残して去っていった明神様は、稀に、かつての白狐の様子を見に戻るらしいことが、今日この日、判明した。
駒が社務所から赤い結紐を、古銭で買っていた頃に、お社に戻られていたのだと思われた。
「今度ばかりは、愛弟子の悪癖が役に立ったの」
「ほっほっほ、今度ばかりはな」
双子の白い老狐が、ころころと上品に笑った。
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