第陸拾参話 駒に気持ちを伝えるには

 駒に会えないまま、良い案も思いつかないままに、男の歩行訓練は進み、寝殿内で出される日々の食事は、ようやっと食べきれるほどの大ボリュームとなり、蒲焼や、肉団子、焼き魚のような形の何かは、男をほんのりと太らせていった。


(作ってもらってアレなんだけど、同じ食材を使い回してるのかな? なんだか、舌触りや歯ざわりが、似てるんだけど……)


 お弟子さんたちは、料理名はざっくり教えてくれるけれど、材料までは、知らないの一点張り。せめて料理当番を引き受けている鼻緒や、目慈郎が来てくれたら、もっと詳しく聞けるのであろうが、あれから一度も男の部屋に来てくれない。


 疑耳彦曰く、目慈郎の謹慎は、男がここを去る前日には解けているとのこと。見送りには参加してくれるとのことだった。


 しかし、駒の容体がわからない。男は、もしも駒の体調が万全でないのならば、自分がここを去ることを黙っていてほしいと伝えた。無理して車椅子に運ばれて、また具合が悪くなってしまったら、男も去り際の後味が悪くなる。


「わかったよ。それじゃあ、今日もリハビリ、頑張ろうね」


 今日はこのまま、疑耳彦が訓練の付き添いであった。


 最初から最後まで、この少年には世話になりっぱなしで、そしてこの少年の明るい性格に、男はかなり救われていたのだった。


 何度も直進し、曲がり、それを何日と繰り返してきた廊下の道順を、男はすっかり覚えてしまっていた。両手を前に突き出した姿勢ではあったが、どこにも触れずに、トコトコと院長の部屋までたどり着いてしまった。


「すごいよ、主人様! 俺、今日何も言ってないよ。道、全部覚えちゃった主人様は、あんたが初めてだよ」


 そう言われて、男は嬉しくなった。


「ここの廊下は、歩きやすいからね。すぐに覚えちゃったよ」


 男の話し声が聞こえたらしい、院長の杖の音が、部屋の中から聞こえてきた。男は院長の部屋がどうなっているのかとても気になったが、包帯で両眼を封じられているので、全然わからない。


 扉が開いた。院長の「あいあい」が聞こえてくる。


「院長、今日も無事にたどり着きましたよ。一回も転んでませんし、どこにも手をつきませんでした」


「ほっほっほ。そうですか、それはようございました。今日はもう遅いですから、気をつけてお帰りくださいね」


「え? もうそんなに時間が経ったんですか?」


「はい。私の部屋に到着される頃には、一日の半分が過ぎておりますよ」


「え~? ……じゃあ、ここから俺の部屋に戻ったら、丸一日が過ぎませんか?」


「そうですね」


「いやいや、そうですね、じゃないですよ。冗談はやめてくださいよ~」


 男は本気にしていなかった。院長も忙しいだろうから、お話はここまでにして、男は部屋に戻ることにした。元来た道を、さっきと同じ要領で、ゆっくりと歩いてゆく。


 この寝殿内で過ぎる刻の流れは、人間界とは大きく異なっており、ぼんやり過ごすだけでも恐ろしい時間が経過する。男が全力で過ごした有意義な一日も、誰かにとっては……。


「疑耳彦くん、変なこと聞くんだけど、今は、どんな季節なの?」


「今は、春だよ」


「ええ? ……へえ、そうなんだ。なんだか、夏っぽかったり、秋だったり、いろんな空気の匂いがしたと思ったんだけど、やっぱり、あの薬品臭い部屋の中じゃあ、鼻なんてアテにならないなぁ」


「はは、そうかもしれないね」


「俺がここで意識が戻った時は春っぽかったけど、もしかして、そこからずっと春のままだったとか? ハハハ」


 男にもよくわからなくなっているらしい。季節が分からないということは、年月の経過もはっきりとしなくなっていることを意味していた。


「主人様の部屋には窓がないから、季節の流れが、ちょっとわかりにくかったかもしれないね。でも、ちゃんと季節は流れてたよ」


「ずいぶん長いこと入院してたんだなぁ~……今ごろ、俺の世界はどうなってるんだろうか……」


「こればかりは戻ってみないとね。主人様はいいヤツなんだから、きっと大丈夫だよ」


「そうかなぁ……そう思うしか、ないかぁ」


 男は自分の部屋に到着すると、布団の上に胡坐を掻いた。


「そうだ、駒さんの様子は、どんな感じなんだい? まだお風呂に浮いているのかな」


「あ……うーんと……もしかしたら、駒ちゃんには主人様の見送りは、無理かもしれない。あれから意識が戻らないんだ。目が覚めるまでには、もう少し時間がかかると思う。たぶん、主人様が元気になってここを出発する日よりも、もっと先になると思うんだ」


「そうなのか……。駒さんは、今までいろんな患者さんを、見送ってきたんだろうなぁ。駒さんのことだから、きっと俺のことも見送りたいと思ってただろうなぁ」


「思ってただろうね。でもこればっかりは、仕方ないことだから」


 どんなに頭をひねってアイディアを出しても、当の駒が目覚めないのでは、どうにもできない。手紙を書き残そうと思いついた日もあったが、包帯で視力を封印している男では、自力で文字が書けなかった。点字も習っていなかった。


「あ、そうだ。疑耳彦君、駒さん宛に俺からの手紙を、代筆してくれないかな。お礼を文字にして伝えたいんだ」


「告白も、手紙でするの?」


「う……形で残るものは、迷惑かなぁ」


 腕を組んで、本気で悩みだす男に、疑耳彦が苦笑を漏らした。


「すまないね、主人様。うちは、立つ鳥跡を濁さず形式でね、お手紙とか、柱に傷とか、前の主人様を匂わせる物は、残しておけないんだよね」


「え? スタッフのデスクにも、お礼の手紙とか置けない系なの?」


「スタ……ああ、俺たちのこと? うん、まあ、そんな感じ。そもそもここは、人間が来ちゃいけない聖域でね、できれば、思いのこもった小物や道具は、置いていかれないほうがいいんだ」


「聖域? なんだか、難しい場所なんだね。人間の病院でも、お医者さんにお礼のお菓子を渡そうとすると、断られちゃうんだよね。それと一緒か……」


「うん、たぶん、そんな感じかな。わかんないけど」


 ここに人間の思念を、強く残してはいけない。次の主人様に、以前の人の思いを悟られてはいけない。この聖域では、人から生まれた感情は穢れとしてこびりつき、残ってしまうのだ。それがどんなに純粋な思いであったとしても、妙な違和感となって辺りを漂い、次の主人様を警戒させてしまうのだった。


 人と違う彼らもまた、その思いに憧れて人間界に降りてしまい、弟子の何人かが二度と戻ってこなくなった経緯があった。そういった意味でも、ここでは人の思いが強く残る物は、置いてはいけない決まりがあるのだった。


「手紙もダメかー。それじゃあ、伝言ならお願いできるかな」


「へえ~、告白を、人づてにするの? 俺、人じゃないけど」


「う~~~ん……自分で言っててちょっと恥ずかしくなってきたな。こういうのは、お互いの反応を確認し合いながら、上手に言葉を選んでこそなんだよね」


「よくわかんないけど、俺たちは人間じゃないから、主人様が思うように言葉を選ぶ事は、できないと思うよ。駒ちゃんを怒らせちゃったりして~」


「えぇええ……それは困るなぁ」


 あれでもない、これでもない、あれもダメ、これも上手くいかない……最近の男は、こんなことばかりをお弟子さん達と、話し合っていた。


「さて主人様、夕飯係と交代するから、俺はもう行くね」


「お、そうか、引き止めて悪かったね。最近ご飯の量が多くて、食べるのが大変だよ」


「へへ、主人様、少し太ったよ」


「えー!?」


「ふふ、いいことなんだよ。だって今までの主人様、骨と皮だったもん。ここでしっかり食べて、元気に出発してね」


 骨と皮……それは初耳であった。


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