第陸拾弐話 患者という立場

「あら、主人様! びっくりしたわ~、こんなところまで歩いてきたのは、あなたが初めてよ~」


 冷たくなった大蛇二匹を三枚におろしていた血まみれの指を、手ぬぐいで拭きながら、鼻緒が土間から駆けつけてきた。


「何か御用? 今、お台所がひっちゃかめっちゃかになってるから、入らないほうがいいわ。ちなみに、今夜の晩御飯は蒲焼かばやきよ~。主人様が元気におうちに帰るためだもの、精力つけてかなきゃね」


「鼻緒ちゃん、目慈郎はいる?」


 疑耳彦に尋ねられて、ぎょっとする鼻緒の気配が、男にも伝わってきた。わざと明るく振舞ってくれていたのかと、鼻緒の気遣いが胸に染みた男だったが、鼻緒にも昨日の大事件が伝わっていることに、多大なる気まずさを覚えた。


 鼻緒が気を取り直したように、明るく微笑んだ。


「ええ、いるけど、ごめんなさいね、目慈郎ちゃんは今、主人様と会話することを院長から禁じられているの。今日は一日、アタシと台所のお掃除よ。お掃除しながら、ご飯まで作っちゃってるの。すごいでしょ~?」


 手ぬぐい一枚だけでは血が拭いきれず、二枚目を手に取る鼻緒に、疑耳彦が事情を説明した。院長から許可は取っているのだと、端的に伝えてゆく。


「あら、そうだったの。わかったわ~、目慈郎ちゃんには今、蒲焼に振りかける山椒の実を採って来てもらっているから、戻ったら教えるわね」


 話している間に、厨房の勝手口の扉が、静かに開いた。


「あら、ちょうどいいところに。目慈郎ちゃん、主人様があなたにお話があるんですって。院長様からも許可を取ってあるそうよ」


「え……?」


「お料理の下拵したごしらえは、アタシに任せておいて。目慈郎ちゃんは、疑耳彦君と一緒に、どこか空いた部屋で主人様とお話ししてきてちょうだいよ」


「いいの? 鼻緒ちゃん」


「いいのよ~。この主人様のことだもの、どうせ駒ちゃん絡みよ! うふふ~」


 鼻の通った鼻緒には、何でもお見通しなのであった。先ほど院長の部屋の前で聞いた疑耳彦の話では、鼻緒も何度か決まりを破って、駒の鼻を勝手に治した過去があるとのこと。しかし駒に治る気がないため、治してもまた元通りの負傷した顔に戻ってしまうのだと。同僚の鼻が、治した途端にもげてしまうのを見たとき、鼻緒はどう思ったのだろうか。男には、鼻緒が始終協力的なのが、その答えのように感じた。


 男は頭を下げた。


「ありがとう、鼻緒ちゃん。それじゃあ、目慈郎君を借りていくよ」


 目慈郎と男は、疑耳彦の案内で、適当な空き部屋へと導いてもらった。


「ここは本当にただの空き部屋だ。たぶん、何かをしまうために作ったんだろうけど、けっきょく誰も使わないまま、掃除だけされてる状態だ。なんの道具も置かれてないから、足をぶつける心配もないよ」


「都合の良い部屋が近くて、助かるよ」


 内緒話にうってつけの小部屋であった。三人は部屋の適当な場所で、胡坐あぐらを掻いた。


「で、主人様は、僕に何の用なの。昨日のことで、文句を言いに来たとか?」


 目慈郎の沈んだ声に、男は慌てた。


「いや、違うんだ。駒さんが、どうして自分の顔を治そうとしないのか、君なら知ってるんじゃないかと思って。駒さんの顔は、駒さん自身が治りたいって思わないと、治せないんだって聞いたんだ」


「……うん。知ってるけど、知ってるだけで、どうして駒ちゃんがそういう考えに至ったのかは、わからないんだ。やっぱり僕が人間じゃなくて、猫だからだと思う」


「わからなくても、わかる範囲だけ俺に教えてくれないかな。俺は人間だから、駒さんの気持ちが、もしかしたらわかるかもしれないんだ」


 慌てながら言葉を選んでゆく男の様子を、じーっと観察する目慈郎。


「……全然わかるふうに思えないんだけど、わかったよ、じゃあ、教えてあげるね。駒ちゃんがどうして自分の顔を治さないのかを」


「助かるよ」


「駒ちゃんはね、自分から望んであの顔になったんだ。顔の半分を広く負傷した花魁のために、花魁よりも傷だらけの顔になった。あの山男が、絶対に花魁を選ぶように。そして、やっぱり花魁より駒ちゃんがいいって、ならないように。山男が心変わりせず、最後まで花魁と添い遂げてくれるように……。そのために駒ちゃんは、自分自身を山の中で一番ひどい顔に、変えちゃったんだよ。それで、その顔で居続けることに意味を、見出しちゃってるんだよ」


「そんな……誰かのために、今も傷だらけの顔でいるのかい!? 赤の他人のために、ずっと醜い顔で居続けてるって言うのかい!?」


 だからそう言ってるじゃん、と小さく目慈郎がぼやいた。


「理解できないよね。駒ちゃんは、誰かの役に立たないと、誰ともつながれない世界で生きてきたから、自分を粉微塵に犠牲にすることを、何とも思わなくなっちゃったんだと思うよ。僕が考えられる駒ちゃんの気持ちは、これで精一杯。駒ちゃんが本当はどう思ってるのかまでは、わからない」


「……」


「どうするの? 主人様。駒ちゃんのために、主人様は何かしてくれるの? 僕は、あなたなら駒ちゃんを変えてくれるんじゃないかって、思ってたんだ。だって今まで、こんなにも駒ちゃんへの気持ちをあふれさせて、ニヤニヤしてる気持ち悪い主人様は、あなた以外見たことがなかったから」


「気持ち悪いって……それ、褒めてるのかい?」


「どっちかって言うと、貶してるよ。本命の女が家で待ってるくせに、寝殿の駒ちゃんよその侍女に気を移したり、本命の女を何年も待たせてる罪悪感があるくせに、近所の女の境遇に同情して、退院を渋ったりね」


「……そう言われてみると、確かに、俺は、気持ち悪い患者だね」


 と言いつつ、既に開き直っている男に、目慈郎は呆れながらも、未だに希望を捨てきれないでいた。


「主人様、駒ちゃんは今、美人じゃないよ。継ぎ接ぎした箇所は隆起してるし、鼻は取れたまんまだし。主人様がその目で駒ちゃんを見たら、漏らすと思う。それでも……美人じゃなくても、胸が大きくなくても、この世に肉体が存在しなくても、主人様は、駒ちゃんを好きでいてくれる? 駒ちゃんのことを、綺麗だって思ってくれるの?」


「ああ、駒さんは綺麗だ。間違いないよ。この目で見れないのが、残念でならない」


 力強く断言する、その姿は、紛うことなき変態だった。何度女に騙されようとも、女に夢を見、女の美しさに敬意を表し、その性格の悪さすら、女であることを理由に憎みきれずに年月とともに許し、どの女も遠い過去の青春の一ページとして昇華してしまう、途方もなく、どうしようもない「バカ」という存在に、目慈郎と疑耳彦は、無言で目配せした。


「なあ主人様、駒ちゃんに、最後だけでも会う? 見送りに来てもらう?」


「え? でも、駒さんはまだ立てないんだろ? お風呂で体を浮かせてないと、自分の重みで転倒するそうじゃないか」


「お風呂って……うん、まあ、そうなんだけど」


 なんでか男が現代風に言い換えるため、ちょっとした暗号を解読した気分になる疑耳彦だった。


「最近この山にさぁ、不法投棄で車椅子が捨てられたんだよね。それに駒ちゃんを乗せてくよ。最後だし、もう駒ちゃんに告白したら? この寝殿は、一度出たらもう二度と入れないからさ、最後に駒ちゃんと話したらどうかな」


 二人の青年に気遣われて、いよいよ男は、自分には何もできることがないのだと、思い知らされた。最後の最後まで、駒に来てもらうという、尽くされる側の立場から動けない患者のまま去ってゆく、このふがいなさに、男は胡坐の膝に悔し涙をいくつも落とした。


「俺に……できる事は、もう本当に残ってないんだなぁ。最後に元気で、さよならを言うことしか、そんなことでしか駒さんにお礼できないんだなぁ……」


「……」「……」


 男が泣き止むまで、目慈郎と疑耳彦は、じっとうつむいて座っていた。


 これまで数多の患者が駒に惚れこんだことはあれど、駒の境遇を探り、駒の部屋まで入り込み、駒の正体を知って尚、駒のために涙を流す、こんな患者は初めてだった。


「俺たちさ、あんたが元気に家に帰ってくれるのを、楽しみにしてるよ」


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