第陸拾壱話 院長の部屋に到着

 男は拳を天井に掲げて張り切っていた。


「よし、蛇もいないことだし、今日こそは院長の部屋まで行くぞー! それで、ゴールしたら、目慈郎君のことをお願いしてみるよ」


「へえ? だ、大丈夫かなぁ」


「やってみるよ。あ、君のことは巻き込まないからね。これはあくまで、俺のむちゃぶりだから、院長が君を責めたら、全部俺が勝手にやったことだって言ってくれ。事実だしな」


 院長に用事がある。院長に会いたい。男の頭の中は、そればかりになった。きっと丸一日かかる。きっと、なかなかたどり着かずに、道中不安になる。それでも、ペースを爆上げして、院長の部屋まで行きたい!


 今日の男はゴールを強く願い、疑耳彦と一緒に部屋を出発した。


「駒さんも頑張ってる。俺も一度ぐらいはゴールしないと、情けないよ」


 廊下に出てすぐ、疑耳彦からペースの上げ過ぎだと注意された。男は無理をしていたわけではなかったが、蛇がいないというだけで足取りが飛ぶように軽い。道順も途中までは暗記しているから、すたすたと歩けた。だいたい、この辺で曲がる、だいたい、この辺までまっすぐ進む、そのアタリが、ことごとく命中した。


「蛇がいないだけで、こんなに体が軽いなんて……ここから先は、俺は一回も歩いたことがない道だよ。もうこんなに遠くまで歩いたんだ。なんだか、信じられないな」


「すごいよ主人様! 本当に今日中に院長様の部屋に行けそうだね」


「ああ、必ず行くよ。目慈郎君と駒さんに会えないまま、ここを去るなんて、あまりにも悲しいから」


「え~? まさか、ここでできることを精一杯やるの? 自分もリハビリで大変なのに? ……ハハッ、こんな主人様、見たことないや」


 疑耳彦は嬉しそうに笑っていた。しかし、その楽しげな気配もすぐに消えてしまう。


「主人様が俺たちに優しくしてくれるのは嬉しいけど、くれぐれも、その包帯を取りたいだなんて、目慈郎に頼まないでくれよ。俺達と駒ちゃんの姿は、主人様の正気をはるか彼方に吹き飛ばしちまうらしいから。俺、嫌だよ、せっかく元気になった主人様が、ショックでぽっくり逝っちゃうの」


「こうして間近で話していると、とてもそんなふうには思えないんだけどな。友達の顔が見れないのが、残念でならないよ」


 男の脳内では、どのお弟子さんも、みんな可愛くて元気いっぱいだった。特に親しいお弟子さんたちは、凛々しく利発そうな、きびきびとした青年ばかり。彼らの性根に触れてゆくうちに、形成された美しさだった。


「主人様、駒ちゃんは既に亡くなっている人だから、主人様が背負ってあげなくていいんだよ。どうか気負わないでくれや、ね。せっかく元気になったのに、俺たちと駒ちゃんのことで、あんたが無事にここを出られなくなったら、そっちの方が俺たちも駒ちゃんも悲しいんだからね」


「それは、わかってるよ……ちゃんと、わきまえてる」


「お、言ったね? 俺、しっかり覚えとくからね」


 疑耳彦だけでなく、この寝殿にいるお弟子さんのほとんどが、男の奇行を懸念していた。



 蛇がいないというだけで、足取りが軽くなったのは良いのだが、歩いている間に、院長になんて言おうか、とか、なかなか説得に応じてくれなかったら、どうやって押そうか、とか、そんなことばかり考えていたら、蛇を背負っていたときとはまた違った足の重たさが生じた。


 今までずっと、満足に歩けなかった男だからわかる。もうじき、自分は、一人でも歩くことができる。走ることも、できるようになるだろう。また元の生活に戻れる。自分の体の事だから、なんとなくわかる。


 だからこそ、時間がなかった。元気になったのに、通常通り動けるようになったのに、駒が心配だからと言って、男が屋敷に居座り続けるのは、誰も望まないことだ。駒さえも。


 皆から嫌がられながら、この施設に居座るだなんて、男も嫌だった。男がここに長居したら、駒の治療の番が回ってこないのだし。


(昨日の駒さんはどう考えても重傷の患者だったが、ずっと俺の世話を焼いてくれてたから、今度は俺が駒さんの看病をする……って言ってもなぁ、目隠しした状態でバイトなんかできるか。だからと言って俺が包帯の目隠しを外して、周囲を目撃すると、あまりの光景にショック死するらしいからなぁ)


 あれこれ考えてるのに、少しも良い案が浮かばない。院長が方針を変えてくれるしかないと思ったが、もうすぐ退院する予定の患者から、何百年もやり方を変えていない頑固な院長を説得できるとは、思えなかった。


 思えなかったけど、どんなに望みが薄くても、男は院長の元へ行きたい。ただのゴールではなく、明確に用事がある男は、足取りは重かったけれど、着実に、院長の部屋への距離を詰めていった。


「すごいじゃん、主人様。院長様の部屋の扉が見えてきたよ」


 男はハッとなった。


 疑耳彦に手を引いてもらい、扉の前へ。男は咳払いして、喉の調子を整えた。


「すいません、院長はいますか」


 扉向こうで、杖を手に取る音が鳴った。杖の先が、硬い床板を小突く音が近づいてくる。


 扉が開いた。


「あいあい、主人様ですかな。よくぞここまで、辿り着かれましたな」


 院長は、全身を包帯に巻かれた男を見上げた。数ヶ月前までは、男の体は丈夫な赤い糸で縫合され尽くしており、男が点滴で眠っている間に、大勢で少しずつ抜糸していた。男の体を、ざっと視診する。どこにも不自然な隆起はなく、蛇で押さえつけていなくとも臓物も垂れ下がってきてはいない。何かの目標に向かって、ここまで歩いてくる意思の強さも戻ってきた。これなら、元通りの生活に戻れるだろう。


 安堵と同時に、院長は困ったため息をついた。


「院長、あの――」


「主人様がお話したい内容は、なんとなく察しております。駒と、目慈郎のことでしょう?」


「おお、お話が早い。まさに二人について、相談に来たんです」


「二人のことは、さぞ気がかりでありましょう。ですが、こればかりは主人様にはどうにもできないことです。あなたはここを元気に去っていく、それだけがあなたのすべきことであり、それを見届けることが我々と駒の役目なのです」


「せめて駒さんの鼻だけでも、治すことはできないんですか? 顔の傷を全部治すのが無理でも、せめて、鼻だけでも……あ、整形外科医と、あなた方の外科医は、治せるものが違うんですか?」


「いいえ、大概の症状は、我々で処置できますが……」


 言いよどむ院長に、横から疑耳彦が助け舟を出した。


「主人様、以前に鼻緒ちゃんがね、駒ちゃんの鼻を勝手に治しちゃったことがあったんだ。これで駒ちゃんも気が済んで、先に進んでくれると思ったから。鼻緒ちゃんは院長様から怒られるのを覚悟で、擬鼻を作ってあげたんだよ。でも、駒ちゃん自身に治りたいって気持ちがなかったせいで、作ってあげても、すぐ取れちゃったんだよね。顔の傷だってそうだよ、体を組み立てて縫合するついでに、顔の傷も縫ってあげたんだけど、患者の自覚がない彼女の顔は、いつの間にか元通りの傷だらけに戻ってるんだ」


「……」


「院長様は、意地悪で治さないわけじゃないんだよ。ここでは、患者さんの気持ち次第で回復したり、逆に一生治らなかったりするんだ。治らない人は、大概自ら命を絶ってしまうけれど、駒ちゃんはなんでか、この寝殿の小間使いとして、毎日頑張ってくれてるんだ。誰も、何も指示しなくてもね」


「ここでの患者の気持ちは、そこまで大事なものだったのか。病は気からって言うもんな」


 体の具合が悪くても、医者に行こうと思わなければ、病院に向かわないのと一緒なのだろうか、と男は思った。しかし、病院に連れてこられても、絶対に自分を患者だと認めない駒にも原因があるような気がした。


「どうして駒さんは、頑なに自分の顔を治そうと思わないんだろう。自分で傷をつけたのなら、以前の自分の顔と違ってしまっているのは、気づいているだろうに、なんで治してくれないんだ?」


「こればかりは、儂らでは何とも……」


 彼らでは、人間の心の機微まではわからない。同じ人間の男でも、時代も性別も価値観も何もかもが違う、過酷な生い立ちの女性の気持ちなど、微塵もわからないのだった。


「でも、きっと目慈郎君なら……」


 男は院長に、目慈郎と話したい旨を伝えた。人間と長く暮らしてきた目慈郎ならば、同じ人間でなくても、駒のことをよく知っているはずだと。


 当然、院長は渋った。何度も規定違反を犯す困った弟子を、退院間近の患者に接近させるなんて、危険であると。


 男と院長の、少々の押し問答が始まった。


 こんなにも一人の医療従事者に執着する患者は見たことがなくて、院長は、この男の頭の奥はどうにもならないことになっているのだと気が付いて、あっけに取られた。


「ハア。今の主人様を放っておいても、誰かに頼んだり、はたまたお一人で厨房まで這って進んでしまいそうだ。わかりました、でも許可を出すのは、一度だけですよ。この疑耳彦を連れて、厨房に入ってください。目慈郎は昨日からずっと、鼻緒と厨房にいますので」


「あ、二人で厨房に?」


「ええ、鼻緒のほうから、目慈郎の手伝いがしたいと申し出てきたんです。目慈郎には罰として、厨房の掃除を一人で任せていたのですが、鼻緒が付いていれば、もうすぐ終わるでしょう」


 度重なる目慈郎の問題行動は、友人たちにも心配をかけているらしい。目慈郎に、その自覚があるのかどうかはわからないが、男は目慈郎も気の毒になってきた。


(きっと目慈郎君は、駒さんが幸せになるまで、問題行動をやめないんじゃないかな)


 その行動が、何かに対する償いのようにも感じ、男は今すぐにでも厨房に行きたくなった。


「じゃあ、行こうかぁ、主人様」


「あ、厨房まで遠いよね」


「そんなことないよ。もう主人様は、行きたいところに行けるから」


 どういう意味かわからなかったが、男は厨房めざして長い長い道のりを歩いていった…………にもかかわらず、すぐそこの部屋に到着したような感覚で、厨房にたどり着いてしまったのだった。


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