第陸拾話 今日から蛇がいない
男は朝から、それこそ布団の上で目が覚めた瞬間から、起き上がる間もなく再び考え始めた。
駒を成仏させる方法を。駒を励ます方法を。
この施設で暮らしている限り、何度でも体が崩れ、その都度皆の手を煩わせながら組み立てられていくのを、駒自身は気づいていないのではないかと思い至った。
(駒さんは俺に手料理が振る舞えないだけで、謝るような人だ。体が崩れるたびに大勢に縫ってもらってるなんて自覚したら、申し訳なさすぎて魂ごと消えてしまう。きっと今の駒さんは、自分の体がおかしくなっていることにすら、気づいていないんだ)
男は駒のことをよく知らない。人から駒の過去を聞いて、それを鵜呑みにしているだけ。本当のことを聞こうにも、今の駒には会うことができない。水槽から出られないほど弱っている彼女のもとへ、山ほど質問を抱えて会いになんて、行けなかった。
(もう花魁もいないのに、いったい何が彼女を、この場所に縫い付けているんだろう……。どうしたらいいんだ……俺は駒さんを見捨てて、人間の世界に戻っていくしか、ないんだろうか……)
男はここに来てからずっと視力を封じている包帯を、ポリポリと掻いた。肌にぴったりとくっついている布は、全然取れない。
(みんなで継ぎ接ぎして補修していると言う割には、駒さんの削ぎ落とされた鼻は、治療しないんだろうか……? 彼らは崩れていく体は組み立てるけど、駒さんがここに来る原因になった顔の傷の治療は、駒さんが望まない限り、やらないのか? 変な決まり事を守ってるんだな。女の人なんだから、自分の顔の傷を治してもらいたいに決まってるじゃないか。院長に内緒で全部治しちゃえば、駒さんも喜んで、成仏してくれるんじゃないかな)
だが院長が治めるこの医療施設では、患者本人が怪我や病気を自覚しない限り、治療しない方針らしい。
いったい、いつになれば駒は自分の顔の怪我を自覚できるんだろうか。そして顔の傷を治したいと、願ってくれるのだろうか。
(なんとなくだけど、俺が退院したって駒さんは自覚しないような気がする。それでまた次の患者さん相手に、看護師のように振る舞うんだろうなぁ。いったい、いつ、駒さんの顔の治療ができる番が来るんだろうか……)
どうにかしてあげたい。自分が、どうにかしてあげたい。それは、愛ゆえにであった。
「あああ~…… 一人で考えてても、なんにもわかんないんだから、何も浮かばないよな。駒さんについて、いろいろ知ってる目慈郎君に、もっと話を聞く必要が、あるよなぁ……」
しかし昨日の件で、男は目慈郎のことが少し怖くなっていた。男が何度懇願しても、目慈郎は瀕死の駒を、ただ眺めているだけだったのだから。駒のことが、好きだったのではなかったのだろうか? 駒の飯に命を救われ、駒の後を追い、そして院長を連れてきて駒を救ったのは、目慈郎だったと言っていたのに。
なぜあの時、目慈郎は駒を助けなかったのか。
なぜ、「ずっと一緒にいてあげて」なんて、男に言ったんだろうか。男には待っている者がいると、話したはずなのに。
(……このへんも、目慈郎君に直接聞くしかない。でもあの子はまた謹慎状態で、夕飯の時間になっても俺の部屋に来てくれなくなっちゃったしなぁ。一日や二日程度で、謹慎が解けたらいいんだけど……)
聞き慣れた足音が近づいてきて、なんとなくずっと寝転がっているのが気まずかった男は、起き上がって待機した。
部屋の戸が開かれて、疑耳彦が入ってきた。
「おはよう主人様。今日も歩行訓練を、あ、リハビリだっけ? 今日も頑張ろうね」
「あ、あのさ……今日のリハビリは、少しお休みさせてくれないか。目慈郎君のいる厨房に行きたいんだ。もっと駒さんの話を、彼から聞きたくて」
「ええ……?」
疑耳彦が渋るのも、男の想定内だった。昨日の今日で、あっさり受理される頼まれ事でないのは、百も承知であった。
「……なんとか、ならないかな? 疑耳彦君」
「う~~~ん、はっきり言うと、無理だよ。目慈郎はね、やらかした回数があまりにも多いんだ。院長様も困ってるんだよ。駒ちゃんの友達だからって理由で、破門にはなってないけれど、本当だったらとっくの昔にこの寝殿を追い出されてるよ。今回の件では院長様もかなり怒ってたから、俺と口嚇丸の時みたいに、主人様がお願いしたって許してもらえないかも」
「話だけ、話だけ目慈郎君から聞きたいんだ。駒さんを、どうにかできるチャンスかもしれない。あ、駒さんは今、どうしてるの?」
気になって尋ねると、疑耳彦が一瞬だけ沈黙した。
「……まあ、もう隠してても仕方ないから、教えてあげるよ。駒ちゃんねー、たぶん、主人様がここを立ち去るのを見送れないかもしれないんだ。今回の件で、お腹が、破けちゃってさ……なんとか縫い合わせたんだけど、今は重みでつぶれないように、水槽に浮かせて、眠らせてるんだ。駒ちゃん自身は、主人様を見送る気満々なんだけど、起こすとまた無理しかねないからさぁ……」
痛ましく、壮絶な状態であった。男は包帯の奥でじっと目をつむり、深く深く、息を吐いた。
「俺は前が見えないし、勝手に厨房に行くことはできないんだ。でも、君に無理を言ったら、君も院長に叱られちゃうしな……」
「主人様、あんたが優しいやつなのは充分知ってるよ。駒ちゃんだって、あんたが黙って去って行っても、恨んだりしないよ。今日も訓練、頑張ろう?」
「……とても訓練に集中できる自信がないよ。駒さんが、腹部の裂傷で苦しんでるのに、お見舞いにも行けないなんて」
「駒ちゃんは恨んでないってば。駒ちゃんのことだからさ、またすぐに立ち上がって、次の主人様を迎えようと、めちゃくちゃ張り切ってお世話するよ」
それが良くない堂々巡りであることを、男は知っていた。いつまでたっても、駒の治療の番が来ない。駒には、美しく、可憐で、輝いていてほしいという男のエゴが、満たされないままだった。
疑耳彦が、男の顔を覗き込む。
「主人様に、朗報だよ。もう大蛇二匹を背負わなくていいよ。そのかわり、夕飯の量がかなり増えるから、頑張って食べてね。しっかり食べないと、この寝殿から、元気に人間界へ降りることができないからね」
「え? もうあの蛇を背負わなくていいのかい? そっか。じつを言うと、めちゃくちゃ重たくて、辛かったけど、何日もずっと背負ってきたせいか、変に愛着が湧いてきたところだった。最後に、その蛇たちにもお礼が言いたいな。彼らのおかげで、大事な人との思い出や約束を思い出せたし、足腰を鍛えられた。一人で床を這ったり、歩いていたときも、背中に生き物がいるから励まされたところも、あったかもしれない。彼らは言葉がしゃべれないけどね」
「へえ、あんたからそんな言葉を聞けるたぁ思わなかったよ。どんな主人様も、蛇嫌いになっちまってたから」
「うん、まあ、何度も首が締まったし、怖くなかったと言えば、嘘になるかな……」
今にして思えば、穏やかな気性の蛇だったと思う。これが頻繁に体をギリギリに締められていたら、毎日のリハビリがストレス過多になり、男は発狂していたかもしれなかった。
この施設の皆の優しさで、正気が紙一重で保てている状態だったことを、改めて思い知る男であった。
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