第伍拾玖話 何かできないものか

 男がここを去らねばならない理由が、もう一つ増えてしまった。二人の女性のために、男は完治してこの建物の部屋を空けなければならない。


 当然の結果というか、今日の夕飯に目慈郎は同席しなかった。代わりに、また知らないお弟子さんが来て、勝手がわからないのか男の膝に食べ物をよくこぼした。何度も謝るその子に、男はぼんやりした顔で、


「あー、べつに、熱くないから、気にしなくていいよ……」


 と、繰り返すだけだった。



「しゃっす! お願いします!」


「あ、はい……」


 今日も豪快に体を拭かれた。足の包帯が血を吸ってしまっているそうで、全身の包帯を換えてもらった。その際も、豪快に引き結ばれて、男は危うく全身の首という首が鬱血するところであった。


(ああ、ようやく体拭きが終わった……ほんの少しだけど、俺も冷静になってきた気がするぞ)


 でも、何をどう思案すればいいのか、はっきりとしない。頭も心も、もやもやとして、鈍くなっていて、涙が出そうで、でも出なくて。誰に何を相談していいかも、うまくまとめられなくて。


(駒さんが、自分を患者と認めない限り、治療が受けられないなんて……俺が、直接駒さんと話ができればいいんだけど、あの状態の駒さんじゃ会話ができそうにないしな……)


 ドタバタと、荒々しい足音が響いてきた。この音は、口嚇丸だ。


 部屋の扉が、乱暴に開かれた。


「おい! お前いい加減にしろよ! 今度は何やらかしたんだよ! みんなめちゃくちゃ暗い顔でうなだれてんだぞ!」


 本当のことを話せば、口嚇丸が怒って男に食ってかかるだろうから、誰も何も言わなかったらしい。だから口嚇丸は、直接男のもとに来たのだった。


 内緒にしていても、余計に口嚇丸が激昂するだけな気がした男は、自分の頭の中を整理するためにも、正直に、全て話した。でも目慈郎の名前だけは、はぐらかしておいた。口嚇丸と喧嘩になったら、たぶん体の小さな目慈郎が負けてしまう気がしたから。


 口嚇丸が怒気を孕んだため息をついた。


「そんで? あんたはどうするんだよ。駒の治療は院長でも進められないのに、そんな厄介な女にかまってて、いつまでもここに居座るつもりかよ。お前を待ってる女は、どうなるんだよ」


「もちろん、会いに行くよ。でも、このまま君たちと、あっさりバイバイするのが、すごく気持ち悪いんだ。俺は駒さんのおかげで、ここまで回復できたって言うのに……」


「キモイおっさんだな。お前が駒に気があるのは知ってたけど、あんな状態の駒を見てもまだ惚れてるんだから、相当だよな」


 口嚇丸が、布団の横にどっしりと胡坐あぐらを掻いた。


「一つ、いいこと教えてやるよ。この寝殿はな、元気になって去ってった患者達の記憶には、残らないんだ」


「なんだって? つまり、君たちのこと忘れちゃうってこと?」


「当たり前だろ。お前ら人間の常識的に考えて、ここでの生活は、ありえないことだらけだったはずだ。俺たちからしたら、ちゃんと勉強して、正しい要領で施術に及んでるけど、人間にとっちゃ俺たちのやり方はかなりヤバイんだろ? じゃあ、ヤバイやり方で体をいじくられてた記憶なんて、ないほうがいいじゃんか。人間はヤバイ記憶は忘れようとしたり、思い出さなくなるんだとよ。あんただって、いつかは俺たちのこと、忘れちまうんだよ」


「それのどこがいいことなんだよ。俺は、君たちのことを忘れたくないよ。嫌な思い出だったなんて、ちっとも思ってないからね」


 口嚇丸が、ちょっと面食らった。今や全てを乗り越えてきた男にとっては、治療中の暇な時間や、辛かったリハビリ全ての時間が、有意義なものに変換されているようだった。


「そ、そうかよ。でも、忘れたほうがいいこともあるんだぞ? ここで思い残したことや、駒の今後、どれもこれも、あんたが気にしたってしょうがない事だろ? 駒は元の体が朽ちてて、もう魂だけの存在なんだよ。で、どういうわけだか成仏せずに、ここで働き続けてるだけ。ばっさり言えば、ただの人形なんだよ。そんなの、あんたがずっと覚えてたってどうにもならないじゃん」


 どうにもならない。力になれない。このまま何もかも忘れて、人間の世界で自分を待つ女性のもとに、一目散に駆けていっても良いのだ、と…… 口嚇丸なりに男を心配しているのが、伝わってきた。


「君は本当に、優しい子だね」


「はー?」


「はぐらかさずに、バッサリとあっさりと、はっきりと、現実を教えてくれるね。確かに、あとは帰るだけのおっさんの俺に、誰にも治療できない地縛霊みたいな駒さんをどうにかするなんて、できないのかもしれない」


「だろ? 元気になった患者は、とっとと退院だ。後の事は、俺たちに任せとけよ。あんたは患者なんだから、退院が遅れてる他の患者を気にして、一緒に入院を長引かせるなんてこと、すんじゃねーよ。待ってる人がいるんだろ?」


 このまま駒の境遇などを見捨てて、自分の生きる道だけを見つめて、人間として、人間らしく、人間と生きていく、その道を、口嚇丸は促していた。


 そのほうが、きっと人間として正しい道なのだと、男も思う。半ば幽霊のような女性に同情し、ここで時間を浪費しては、浦島太郎のように年老いてしまい、自分を待たせている相手をも傷つけてしまう。


(だけど、俺は……駒さんを愛しているんだ)


 体が冷えきり、息も絶え絶えになっている駒は、誰かに助けを求めるどころか、満足に動くことができないでいる自分自身を責め、謝罪までしてきたのだ。意識が朦朧としていたといえど、彼女の献身には畏怖の念すら抱く。


 人の役に立つことでしか、認められなかったのかもしれない。いつしか彼女には、それしかなくなったのかもしれない。


 綺麗でいたいとか、楽しいことがしたいとか、そういったものが、欠落していったのかもしれない。


 幽霊になってしまった彼女には、もうその感情を取り戻す機会は無いのかもしれない。


(それでも俺は、駒さんを放って置けない。彼女と会いたい、彼女ともう一度話がしたい、もう一度……感謝じゃなくて、ありがとうじゃなくて、俺のためじゃなくて、駒さん自身に、休んでいいんだよって、着飾ったっていいんだよって、休みの日は何がしたいかって、旅行に行けるならどこに行きたいかって、そういったものが、俺は聞きたい!)


 いい歳したおっさんが若い子に、患者と看護師の関係を超えた質問を連発するのはセクハラに値する。世間一般の常識で測るならば、男がやろうとしていることは、非常に気持ちが悪い。


 男自身も、自覚していた。だが、その羞恥心を踏みつけてでも、駒を前に進めさせたかった。


(どうしたらいい……。江戸時代生まれで、とっくの昔に亡くなっていて、俺とは生まれも育ちも、価値観も、年齢も違う若い女性を、現代を生きるおっさんの俺が、どうやって励ましてあげればいいんだ。……駒さんを今のような性格にしてしまった花魁って女は、駒さんに役割を与えることで、駒さんに居場所を作ってやってたんだな。身寄りも居場所もない駒さんには、それがとっても嬉しかったんだ。今でも、そんな生き方を繰り返すほどに……。じゃあ目慈郎君の言う通り、駒さんと花魁の仲は悪くなかったんだな)


 ならば、駒を説得するのは非常に難しかった。駒が望んで、こんな生活を繰り返しているのだから。


(俺に何ができる……俺がいつまでもここにいたら、駒さんが治療を受ける順番が来ないし、駒さんを説得しないと、院長は駒さんを治療しないし、その駒さんは大重傷で、水槽から出られないし……)


 いったいどうすればいいのやら。悩み苦悩する男のほっぺたを、バシンと口嚇丸が挟んだ。


「痛った! なにするんだよ!」


「ごちゃごちゃ考えてるツラしてるから、ひっぱたいてやったんだよ。患者をどうするかは、俺達の仕事だ。あんたは何もかも忘れて、自分が幸せになる事だけ考えてればいいんだよ。それが人間だろ?」


「口嚇丸君……確かに君の言う通りかもしれないけど、俺は……俺は駒さんを、愛してしまったんだ。何もかも忘れる事なんて、できない」


 面と向かって二股を白状されて、口嚇丸のこめかみに青筋が浮き立った。


「はあ~? ……だあああ! もう! それじゃあ、あんたが完全回復するまでに、せいぜい無い知恵絞って、駒のために何ができるか悩みまくるんだな!」


 口嚇丸が立ち上がった。


「言っておくがな、駒の顔が見たいとか、目隠しを外したいとか、絶対に言うんじゃねーぞ。それだけは許可できない。駒の顔や、俺たちの姿を見た患者どもが、軒並み心肺停止になったんだ。いくら駒に恋していようが、あんただって例外じゃない。駒のツラも見られねぇあんたに、駒が救えるとは思えねーな!」


「う……厳しいねぇ」


「厳しくもなるだろ。せっかくここまで回復したんだ、あんたにはそのまま、元気で去っていってほしいんだよ。あんたの完全復帰が、俺と疑耳彦の成績につながるんだからな」


「あ、そうだったね。俺のせいで、君と疑耳彦君は、患者の監督不行き届きの冤罪がかかってたんだったね。そうだったそうだった。じゃあ、なおさらリハビリをがんばらないと」


 リハビリを頑張れば、治りが速くなり、男がここを立ち去るまでの日数が短くなる。駒のために何かできないかと作戦を考える時間が、短くなる。


(俺にできる事は……俺にできる事は、何かないのか……)


 荒々しく立ち去る足音も耳に入らないほど、男は一人、苦悩していた。


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