第伍拾捌話 治療ができない患者の説明

「院長ですね!? 駒さんを助けてください! 血が出てるんです! 俺じゃ何がどうなってるのかわからないんです、助けてください!」


 自重で潰れた内臓から、多量の血液が溢れだし、破れた腹からは脂肪に覆われた黄色い肋骨が隆起していた。頭部はあらぬ角度に曲がり、長い髪は半分以上も排水溝に流れ落ちてしまっていた。


 目玉も一個、床に転がっている。視神経がちぎれてしまっていた。


 床に座りこんでいる男は、小腸に周囲を覆われていた。包帯で視力を封じられている男では、内臓に囲まれている自身の状況が、わかっていないようだった。


 院長は、そっと目をそらし、後ろに控えている弟子たちに声をかけた。


「駒を、水槽に戻しなさい」


 水槽と聞いて、男がピクリと反応した。


「水槽って、どういうことですか? なんでそんなところに、駒さんは――」


 弟子の何名かに手を引かれて、男はよろよろと立たされ、部屋を出た。となりの部屋で、椅子のような物に座らされる。


「院長、水槽ってどういうことなんですか? 駒さんは今、休憩中のはずじゃ――」


「はい、肉体を液体に浮かせて安静にしていないと、今の駒では、新しい体の重さに耐えることができません。本来であれば、主人様のように、布団でおとなしく寝てもらい、体が自重で潰れないように、包帯でぐるぐるに巻いて圧縮し、凝固剤や固定剤を点滴に混ぜて、少しずつ体を固めていかなければならないのです」


「俺の、ように……?」


「しかし駒は、どういうわけだか、何かのはずみで動きだしてしまうのです。魂のみとなっている駒では、新たな体との繋がりが薄く、魂が体に定着する前に、今まで通りに歩きだして、家事をして、無理をして、また崩れ落ちてしまうのです。もう何百年と、それを繰り返しています」


 男は、院長の前で立ち上がってみせた。


「俺はもう大丈夫です。自力で起立できますよ、ほら。ですから、駒さんの治療に移ってください。この施設は、患者を一人しか受け入れないんですよね? なら、俺がここを去れば、次は駒さんが治療を受けられますよね?」


「……残念ながら、駒が治療を望まぬ限り、我々にはどうすることもできないのです」


 男は、言われている意味がよくわからず、首を傾げた。


「の、望む、望まないって……俺は気がついたら包帯に巻かれて、布団で寝てましたけど、それまでは意識がなくて、助かりたいとも考えてなかったですよ」


「いいえ、主人様はこの寝殿の門を、ご自分の意思でくぐりました。それはあなた自身に、死にたくない、生きたいという強い意志があったからなのです」


「そ、それなら、この施設に入っている駒さんだって、門をくぐったんじゃないんですか? 駒さんは、駒さんだって、体を治してほしくて、ここに来たんじゃないんですか!?」


「駒は自らの意思で門をくぐってはおりません。屋敷の外で魑魅魍魎に食われているところを、私が発見してこの寝殿内に連れ帰ったのです」


 怪我をして流血までしている駒が、助かりたいと思わないだなんて、男は納得できなかった。院長と話していても、よけいにわけがわからなくなるばかりで、男は駒のいる部屋の方角に、顔を向けた。


「駒さん、治りたいよね? 元の体に、戻りたいよね? だって、そんなに血が出てちゃ、絶対痛いじゃないか。治してもらおうよ。ここにいるお医者さんたちは、みんな腕がいいよ」


 優しく語りかける男だが、駒の返事はなかった。きっと声も出せないほど弱っているのだと察した男は、それ以上話しかけるのを、やめた。


(知らなかった……駒さんが、ここの患者だったなんて。俺は今まで、彼女の手厚い看護に感動ばかりしていて、彼女の献身を心の支えにまでしていた。まさに命の恩人だ、俺の全てだった、それなのに俺は、彼女の具合が悪いことに、全く気がつかなかった。甘えきっていたんだ)


 具合の悪い駒に、体を拭かせてにやにやしていた当時の自分を、引っぱたいてやりたかった。


「駒さんの為にも、俺は早くここを退院します。そして、空いたベッドで次に治療を受ける人を、彼女にしてください。どうか、院長、お願いします!」


 深々と頭を下げる男に、院長は白い眉毛を困ったように寄せた。


「お約束は、できかねます。自らを患者と受け入れること、これを駒自身が望まない限り、勝手に治療することは、できません」


 もう男には、意味がわからなかった。


 ずっと体に巻き付いている大蛇二匹の重みがピークに達し、男は疑耳彦に手を引かれて、自室へと戻っていった。


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