第十五章 絵の中の女の子

 木彫り師の名を聞いた俺たちは談もそこそこに、オーナーが案内してくれた部屋へとむかった。

 部屋は八畳ほどの質素なもので、テーブルやイス、ひらき窓、簡素なベットがひとつと、最低限のものしかおかれていない。それでも殺風景に感じさせないのは、丁寧にむらなく膠塗りされた艶やかな壁に掛けられた、額縁にある一枚の絵のおかげであろう。

 黒いフレームに縁取られた絵には、夜の湖畔にかけられた桟橋に、腰かける一人の女の子が点出されている。女の子は十二、三歳ぐらいだろうか、少女よりも少し幼い気がする。女の子のぶら下がった足先は月光が注がれる湖畔の水面にそえられ、もう片方の足は夜空の先へと、しなやかにピンと伸びている。宙にのびた白い足の指の先から、月明かりを吸った水しぶきが星屑を振りまいたようにきらきらと舞っている。女は口に左手を添えて慎ましやかに、微笑んでいた。しかし、なかでもとりわけ俺の眼を引いたのは、彼女の右手に握られたある工芸品であった。桟橋に手をついた右手の隙間から、なにやら光る物がちらりと覗いているのである。

 この部屋の雰囲気に合った奥ゆかしく、質素で美しい絵である。が、この絵を見た俺はどういうわけか、なんとも言えない奇妙な感覚に打たれた。

 絵を見ているだけで、湖水の冷たさや、水しぶきの音、女の子の笑い声が、頭の奥で再現されるのだ。むろん、俺がこの絵を見たのは初めてだし、この風景にもなんら見覚えはない。以前からこの場所を知っていたような、いいようのない懐古の念に駆られるのだ。

 なぜこれにこれほど心を奪われるのかはわからない。けれどこの工芸品を見ていると、なにやら胸の奥を掻きむしられるような妖しい胸の乱れを感じる。しかし、それにはなにも懐かしみだけの微笑ましい感情だけではなく、そこに拭いきれない嫌悪感も含まれているのだけれど。……

 おそらく、これこそ記憶を取りもどす手がかりとなることだけは確かである。

 俺は左見右見と絵を見回したが、この光り物がいったい何なのか、ついぞわかりかねた。

 もしかしたら、少女ならこれを知っているかもしれない。そう思って部屋を飛びだして、少女の部屋のドアを何度か叩いたが、どうにも返事がない。

 もう寝ているのだろうか。あれほど歩き回ったのだから無理もない。

 俺は悄然とながら一旦部屋に引っ返してベットへ身を投げ、大の字に寝転がった。眼をつぶり気を紛らわせようと試みるも、どうもあの絵のことが気になってしまう。 ひとたび気になってくると、それはどんどんと胸のうちで大きくなっていき、それによって焦燥にも似た思いに駆られ、ひどく頭を悩ませるのだった。

 とうとうたまりかねてまた部屋を飛び出した俺は、どたどたと階下へと降りて、掃除をしているオーナーを捕まえると、

「あの、すみません。すこしお尋ねしたことがありまして」

「はあ、どうなされましたか?」

 オーナは穏やかに答え、掃除の手をとめる。

「あの部屋に飾ってある絵のことなんですがね」

「ああ、あの絵……」

「あの絵は一体だれがどこで描いたものなんでしょう?」

 オーナーは少し困惑したような色をうかべて、

「誰が描いたものなのかは分かりかねますが、場所はわかります」

「ほ、本当ですか? そ、それはどこでしょうか?」

 オーナーは俺の勢いがあまり異様なものだったため、呆気に取られてちょっとたじろぐも、すぐに気を取り直して、

「あれはローラン湖です」

「ローラン湖?」

「ええ、それはもう美しい湖でしてねぇ。暖かい季節になりますと、湖のほとりでよくバーベキューなんかやったもんです」

「はあ、それはどちらに?」

 俺は言下に急きこむと、

「ああ、いやぁ……」

 オーナーはわずかに口ごもって、それからもの憂い眼でふと俺を見ると、

「あの湖は、もうないんですよ。なくなったのです」

「なくなった……?」

「ええ、あの紛争と一緒に消えてなくなってしまったんですよ。昔は街の中央、教会のほとりにあった湖なんですが、魔族の襲来で湖の水が全て干上がってしまいましてね。今では埋め立てられてしまい、もう跡形もありません。悲しいことです」

 俺はにわかに愕然とした。やはりそう簡単に手がかりなど見つかるはずがないのだ。わかってはいたものの、俺の胸のうちは暗澹とした失望でおしつぶされんばかりである。

「私も幼少のころ、あの湖に家族とおもむいてキャンプなどをよくやったものです。思い出深い地である場所がなくなるというのは、かくも寂しいものだということを、あの湖がなくなってから身に沁みてよくわかりました」

「そうですか」

 こうして一縷の手がかりは見つかるものの、それをたぐり寄せようとするば、どこかでいつもぷっつり切れてしまう。

 アントンさんの事件に、あの絵の女が持っていた工芸品。……

 俺の胸のうちにつきまとう、このなんともいえない嫌なじれったさもいよいよ深刻になってくる。

 何かをしなくてはいけない、しかしその何かが一向に分かってこない。わけも分からない焦燥感に身を焼かれる思いのまま、俺はオーナーに礼をいって部屋へふらふらと引き下がった。

 壁にかかった額縁の絵をなるだけ目に入れないようにしてベットへ倒れこんで、ぐっと眼を閉じた。

 教会の片隅で鮮やかな陽の光を一身に受けるステラの姿が、茫然として瞼のうらに描かれる。ステラがこちらを振り向いて、何かを口にする。

 ……。

 やはりだめだ。

 どう頑張っても、記憶の霧に映し出されたステラの口から言葉が出てこない。いや、声自体はぼんやりとするのだが、それが意味ある言葉として形をなさないのだ。唇の動きもステラの声も霧がかかったようにぼやけている。

 ステラはこの時、なんといったのだろう。

 そういえば、前にもこのようなことがあった気がする。一体なんだったろうか。

 あれだったか? これだったか? 俺は心のなかを歩きまわり、あれこれとつたない記憶の断片を拾いあげては違うと投げ、を繰りかえす。ところどころ抜けおちて点綴としている記憶を探し歩くなか、ふいに俺の脳裏にあるものが急浮上し、はっとする。

 思い出した。あれは記憶でなく夢の出来事であった。夢というのは言うまでもなく、少女と出会ってからよく見るようになった例のあの夢のことである。

 夢の内容など書きとめでもしなければ忘れてしまうものだが(いや、今こうして書き留めてはいるけれど見返す甲斐性など俺にはないが)、この夢だけは鮮烈と脳に焼きつけられている。

 ステラはあの夢でなんといったのだろう。

 この言葉にはなにかしら暗示めいたものがあることには違いないが、これが今思い起こそうと試みている記憶となにか関係があるだろうか。もしかしたらまったく違う内容かもしれないし、あるいは密接に関わっているかもしれない。どちらも彼女が口にした言葉がわからないという状況が符合しているだけに、無関係と否定しさることはできないのだ。

 ああ、何もかもがわからない。

 せめてしっかりとした手がかりさえ掴めれば。……

 慣れない記憶の彷徨のせいなのか、また、ベットが心地よいのか、ふと強い眠気が俺の思考に覆いかぶさるのを感じた。まとまろうとしていた考えが立ちどころに霧散し、意識の焦点が合わなくなり、遠くなったり近くなったりする。

 今日はさんざん歩きまわったこともあり、身体は綿のように疲れているのだ。そして、あっという間に睡魔に乗っ取られた俺は、抵抗をあきらめて眠りに身を任せるのだった。

 ふと目が覚めると、あたりは暗くなっていて、部屋の窓辺には、夜の街を照らすほの白い街灯がぼんやりと佇んでいる。寝ている間にすっかり夜になってしまったようだ。

 俺はベットからゆっくり身体を起こして窓の外を覗いてみた。

 宿屋の前にある道は、夜でもそれなりに往来があるようで、歳を食った老夫婦や、頭を抱えた気難しそうな中年の男、犬を引いて散歩する女性などが宿屋の前を通り過ぎていく。

 しばらく寝ぼけ眼でぼうっと窓の外を眺めていると、階段をのぼる足音が聞こえてきた。

 何度かドアを叩く音がして俺がどうぞと返事をすると、ゆっくりと扉が開く。立っていたのはオーナーである。

「お夕食の用意が出来ましたよ。お連れ様はもういらしていますので、あなたもどうぞ」

 と、うやうやしく一礼して去っていく。

 あの娘もいるということはもう帰ってきているということか。

 ひとまず顔を洗ってから部屋を出て階段を下りていくと、階段のそばでオーナーが待っており、俺を食堂まで案内してそのまま食堂の奥にある厨房へとさがっていった。

 十二畳ほどのすこし窮屈な食堂には、少女以外に誰もおらず闃として閑寂としていて、調理場のカチャカチャと気忙しく料理をこしらえる音ばかりが聞こえてくる。

 俺は少女の前へと腰掛けると、

「お前、今日部屋を留守にしていたようだが、どこかへ出かけていたのか?」

「ええ」

「それなら出かける前に行ってくれ。ちょっと心配しただろう」

「あらそう、それは失礼」

 少女は顔を少し逸らし、けんもほろろに答える。というのは大体おりこみ済みだが、いつもに増してどこかいらいらとした様子なのはなぜだろう。

 なんとなく気まずい間が流れて、なんだかバツが悪い気がした俺はなにか会話を切り出そうと、ぎこちない空咳をいれて、

「どこへいっていたんだ? もしかしてアクセサリーショップか?」

 少女はギロリと俺を横目でにらむと、

「別になんだっていいでしょ。なんでいちいちあんたにそんなことを報告しなきゃいけないわけ?」

「いや、そういうんじゃないんだ。ただ少し気になっただけで……」

「ならほっといてよ。私はもう子供じゃないし、それにあんたとはただ行動を共にしているだけで、仲間なんかじゃないんだ。一緒にいるからって勘違いしないで」

 少女の憤りを含んだ声音が耳にキンキンと突き刺さる。何か気に障ることでもしてしまったのだろうかと、俺は胸の内が冷や水を食らったようにヒヤリと冷たくなる感じになった。

「悪かったよ」

 一瞬間の重い沈黙、その直後に沈黙を破るようにしてオーナーが料理を運んできた。オーナーは知らぬげに黙々と俺たちの前へ料理を並べていき、うやうやしくまた一礼して下がっていく。

 すると、少女は気色ばんだ様子ながらも、ふと眼をつぶり両手を胸にあてて何かに祈るような仕草をみせた。実は、少女は食事をする際、必ずこういう礼儀作法を挟むのである。

 しかし少女のこのお祈りのような仕草ははじめて目にする。おそらくこれが食事をする際のただしい礼儀作法なのだろう。俺は礼儀や作法などには明るい方ではないから、このお祈りがどういうものなのかはわからないのだ。

 今までこうして席について飯にありつく機会がなかったために、これを目にすることがなかったのだろうが、俺はその少女の所作に、おやと内心で声をあげずにはいられなかった。

 少女は料理に祈りをささげる際に、胸のあたりを軽くぎゅっと握りこんだのだが、握りこんだ拍子に何やら丸っこいものが服の内側から浮きぼりになっていたのだ。これを見るに、どうやら少女は服の内側にネックレスらしきものをつけているらしい。

 しかしとてもそれを言及できるような雰囲気でもないし、俺自身そうする気にも到底なれようはずもない。くわえて昼間に少女の部屋へ訪ねた経緯が、ふと脳裏に持ち上がったこともあって、それきりそのことは忘れてしまった。

「一つ聞きたいことがあるんだけどいいか?」

「なに?」

 取りつく島もない返事をする少女に、少し胸が痛みながらも、

「部屋に飾ってある絵のことで気になることがあってな」

「……絵? 驚いた。あんたにそんな絵を嗜む情操があるなんて」

 俺は少女の皮肉を黙殺して、

「お前の部屋にも飾ってあるだろう? あの絵」

「絵なんて飾ってないよ。彫り物ならいくつかあったけれど。どれも素敵な逸品だった」

 あとからオーナーにきいたところ、あの絵はなんの因果か俺の部屋にしか飾られていないのであった。

 俺の使っている部屋以外は、みなオーナー自作の彫刻絵やら木彫りやらが置かれているが、俺の部屋分だけがどうもまだ自作を確保できていなかったようで、代わりにあの絵を飾っていたというのだ。

「そうなのか、まあとにかくその絵でどうしても気になることがあるんだよ。その絵に描かれた女の手になにかの工芸品みたいなもの持っているんだが、これがなんなのかどうしても知りたくて……。ほら、お前は工芸品とかアクセサリーとかに詳しいだろ? 何かわかるんじゃないかと思ってさ」

「へえ」

 少女はなるべく関心を持たぬ風を装おうとするが、工芸品と言葉をきいた彼女の眼には隠しきれない好奇の輝きが差している。

「わかった。あとで見せて」

 と、少女はそれだけ言うとまたそっぽを向いて、料理をちゃっちゃと口のなかへ片付けてさっさと食堂から出ていった。

 俺は去っていった少女の席を見つめながら、まるで吹き荒れる嵐のなかを遭難するような、八方塞がりの災難に見舞われている心地になった。

 女の感情は海模様と同じであると、とある船乗りの冒険者がうそぶいていたのをどこやらの酒場で小耳にはさんだことがあるが、あながち間違いではないと俺も思う。

 穏やかな海原にやさしい波風だったと思いきや、とたんに髪を振り乱すように大きく海原をうねらせて、雷鳴の激しい罵声に暴風雨の滂沱たる涙に乱れ乱れて、そう思うと今度は、ぴたりと時間が止まったかのような静謐が前触れなく落ちてくる。

 こんな風にころころと様相をかえるさまがどうにも神経質な女そっくりで、かみさんに振り回されるたびにそういう海の姿を思い出すとその冒険者はいっていたが、今の俺がまさにそれだった。

 少女の激しい感情の起伏が嵐となって、俺の小さき心でかたちづくられた小船を煽り倒す。上下左右にしきりなく煽られ、前後不覚におちいり、上下の区別もつかぬわけもわからないまま転覆する。

 少女はなぜあれほど苛立っていたのか。もしや出先でなにか嫌な思いでもしたのではないか。考えられる理由としてはそれしかないけれど、あの眼つきに態度は明らかに俺に対して向けられたものに思える。されど俺にはそういう心当たりがないのだ。やはり出先でいやな人にでも遭遇したにちがいない。……

 おもえばステラにだってそういう節があったではないか。といっても断片的でしか記憶にないけれど。

 その折にはよく言われたものだ。あなたは女心がまったくわかっていない、と。どうにも俺は人の感情、わけても女性の感情の機微に疎いきらいがあるようだ。

 それはさておき、食事を済ませて部屋へ戻ると、入れ違いに隣の部屋からドアの開く音がした。廊下をパタパタと音を立ててやってきたのは、言うまでもなく少女である。

 少女は部屋に入るや、流れ込むようにして絵の前まで向かっていくと、

「それで、絵っていうのはこれ?」

 少女は好奇に濡れた眼で、絵を指差した。

「ああ、そうだ。この女の右手の……ほら、この木製の工芸品! これがなにかわかるか?」

 少女はふぅんと鼻を鳴らし、絵にいる女の右手をあちこちと見回すと、やがて少し驚いたように眉をひそめた。俺は固唾をのんで少女の動向を見守る。

 少女は眼を見張りながら絵のほうへぐっと顔を寄せ、絵のなかの工芸品あたりをそっと指でなぞった。するととつぜん、少女があっと小さく呻いた。少女は二歩、三歩、と蹌踉として後退りし、指でなぞった工芸品を穴が空くほど凝視している。

「どうした? なにかわかったのか?」

 と、俺が少女へ詰めよると、

「え、あ、いや」

 少女はじっとりとした額の汗をぬぐってぎこちなく空咳をし、

「ごめんなさい。この工芸品については私もさっぱり……。でもこれを描いた人が誰なのかはわかったかもしれない」

「本当か?」

「うん、たぶん……でも確証があるわけじゃないよ? ほら、今日、私一人で出かけたでしょう? その時に偶然街中である画家が風景画を描いていたんだけれど、その絵のタッチにすごく似ている気がする。といっても絵を覗き見た程度だから、それほどしっかり絵を見たわけじゃないし、もしかしたら思い過ごしかも……」

「いや、手がかりがないよりはよっぽどマシだ! ありがとう。とりあえず、明日その人に会って聞きに行こう」

「え……ええ」

 少女はどこか暗い眼で、まだぼんやりと絵を眺めている。

「どうかしたのか? まだほかに気になることでも?」

 少女ははっとしたように俺の顔を見ると、

「え? ううん、なんでもない」

 と答え、じゃあまた明日と少女は言い残して部屋を出ていった。

 夕食のときの態度といい、今の少女の様子といい、なんだかいつもと違うように思えた。しかしどこが違っているかと思いかえしてみても、いまいち判然としないのである。なにせいつもの少女の様子、というのがわかるほど、まだ一緒に過ごしたわけでもなく、知りあってせいぜい一週間程度と日が浅い。そのうえ、これまですごした環境があまり特殊であったため、わずかばかりも少女の性質を掴み切れないのだ。(俺が女ごころの機微に疎いという気質にも原因があるだろうけれど)

 さて、少女が部屋をあとにして特にすることがなくなった俺は、手早く用意されてあった部屋着へと着替えると、部屋を消灯してさっさとベットへ潜りこんだ。

 眼を瞑ってベットに寝転がるも昼間に睡眠をとったせいか、妙に神経が冴えて寝付けない。ベットの端から端へ輾転反側していると、昨日や今日の出来事が幻燈のごとく瞼のうらにまざまざと映し出される。

 渓谷をのたくるおぞましい鉄砲水、魔族が集う美しい地底湖、魔力で造林された鬱陶しい森林、鬱蒼とした森林に幽邃と佇む奥ゆかしいシンの街並み、それからオーナーの語ったアントンさんの事件や、記憶の断片に浮かびあがった教会にステラが口にした言葉の謎と、頭の中で缶詰にされたさまざまな出来事や謎が、出来の悪い活動写真のようにぐるぐると脳裏を眩めいている。

 目まぐるしく駆けめぐる記憶の投影に思考は翻弄され、そのたびに疑問や謎が持ちあがっては沈んでを繰りかえす。神経はやがてすっかり冴えきってしまい、一向に眠れる気がしなかった。

 俺には考えねばならないことが山ほどあるにもかかわらず、なにから手をつけてよいやらさっぱりなのだ。

 前にも話したとおり、記憶の断片でもっとも鮮明に残っている物がこのシンである。しかしなぜそれがシンなのだろうか。

 このようなへんぴでひなびた土地は、むしろ記憶の片隅にも残っているほうが稀ともいえるほどに、シンはなにもない。強く印象付ける物や人もおらず、どこにでもある片田舎である。それでも俺のなかで鮮明に焼きつけられた光景がこの土地のものだったのだ。

 この記憶の断片が、このシンという街が、俺の過去のうえにどういう関係をもってくるのだろう。

 この土地で俺は――俺たちは何かをしたのにちがいないが、そのなにかがまったくわかってこない。記憶の端にものぼらない。それでも何かがあったことにはちがいないのだ。実のところ、この街に入ってからというもの、胸にあやしく乱れる妙な陰りのようなものを感じていた。はじめはそれがどういう違和感であったか理解できなかったが、オーナーから聞かされたアントンさんの不憫を経て、徐々にではあるが、わかってきたのである。

 この街は、俺たちにとって何かがあり、何かがあった場所なのだということが!

 でもそれに触れれば触れるほど、決して開けてはならぬブラックボックスのふたに手を掛けるような、なんともいいようのない罪悪感を覚えるのだ。その反面、釈然としない違和感の正体をなんとしても突き止めたいという浅ましい好奇心が俺を突き動かすのである。

 ああ、この街でなにがあったというのだ。そして、ステラはどこへ行ってしまったのだろうか。

 シンでの出来事が原因で別れたのだろうか。はたまた、別の要因で別れたのだろうか。

 しかしどれほど苦悩し、憂慮しようが答えが見つかるはずもなく、輾転反側もしだいにはなはだしくなってくる。とうとう窓から日輪の萌動が見えてきたかというところで、俺はやっとうとうととまどろんだ。

 目が覚めると、萌していた朝陽はするどい光となって窓から差していた。陽の光は膠が塗られた艶やかな床を反射して、天井にまで伸びている。

 寝不足で重い頭をもたげてベットから身体を起こすと、ちょうどドアを叩く音がした。

「はい、どなた?」

 ドアを開けて出てきたのはオーナーである。

「昨夜はよく眠れましたか?」

 オーナーは微笑みながら俺に問いかける。

「ああ、いえ、すこし考え事をしていまして、なかなか……あはは」

 俺は追従笑いをうかべてそう返すと、オーナーはわずかに寂しそう笑って、

「そうでしたか、申し訳ありません。昨日、あのような話をしたのがいけなかったのですね。御心に障ってしまわれたようで」

「いえいえ、そうじゃないんです。昨日のお話もいささか無関係というわけではないんですが、なんといいますか、これは私自身の問題でしてね。どうかお気になさらずに」

「はあ、そうでしょうか。それはそうと、お客様。朝食の準備が整いましてございますので、お連れ様と一緒に食堂へお越しください。では……」

「あ、ちょ、ちょっと待ってください」

 俺はオーナーが一礼して去ろうとするのを、あわてて引きとめて、

「昨日なんですが、うちの連れがどこへ出かけたのかご存じありませんか?」

 少女に隠れてこそこそと身の回りを嗅ぎまわるようなことをするのは、いくらか気がとがめたが、それでもやはり気になって仕方がないのだ。なぜこうも少女の動向について気になるのかは、自分でもよくわからなかった。

 俺の質問に、オーナーはいくらか驚いたように眼を見張ったが、すぐに平静を取りもどして、

「おや、ご存じではなかったのですか? おかしいですね、あなた様にもお伝えしたからとお連れ様はおっしゃっておりましたが……いや、申し訳ありません。まだお子様でありますのに」

「ああ、いえ、それは構わないのですが、それで、オーナーはあの娘がどこへ行ったかご存じない?」

 オーナーはちょっとためらったのち、きまりが悪そうに、

「はあ、そうですね。恥ずかしながら……それほど深く立ち入りませんでしたので。あ、ただ、出かける前にお連れ様が、少し遅くなるかもしれないから軽く食べられるものを持たせてほしい、とおっしゃっていましたので、どこか遠くへ行かれるおつもりだったのではないでしょうか?」

「遠くへ?」

「はい。とは申しましても、結局日が暮れ始めてからほどなく帰ってこられましたので、それほど長く出ていかれたわけではなかったようですけれど。ああ、でももしかしたらピクニックにでも出られたのかもしれませんね。この街は何もないですが、なにぶんむだに広いので、キャンプやらピクニックをするにはうってつけなんですよ。それに持っていかれたお食事も召し上がられてましたし。きっとそうですよ」

「はあ。すると一人で黙ってピクニックをするために、わざわざ俺に内緒で出かけられた、と?」

 オーナーは少し困ったような顔をして頷いてから、

「そうですよ。女性もあれぐらいの年頃になりますと、とかく家出しがちではありませんか。その一環ではありませんか? うちの愚女などはしょっちゅう家出をして、ローラン湖の桟橋で丸まって拗ねていたものです」

 オーナーは絵を指さして、

「ちょうどその絵のように。……もっとも、その絵ほど藹々あいあいとはしておりませんでしたけれどね」

 と、偲ぶような眼をしていった。

「ああ、すみません。このような昔話を持ち出してしまって。いや、歳をとるとどうして昔のことばかり振り返ってしまうようになっていけませんね」

 オーナーはぺこりと一礼してから後ろ足に部屋を出ると、では失礼いたしますと言い残してそっとドアを閉めた。

 オーナーがドアを閉めるのを見送ったあと、俺はしばらく窓際のアームチェアに腰かけてぼうっと外を眺めていた。

 朝霧に明けたシンの街は闃として人影もなく、あたかも誰も住んでいないかのようなもの寂しさを街に落としている。まゆずみ色の空に大儀そうに持ち上がるおりからの曙光が、街並みをはかなげに浮き立たせている。

 朝日にくらむ霞がかった街並みを横目にやりながら、少しばかりもの思いに耽っていた。が、やがて重い腰をあげて服を着替えた。

 部屋をあとにした俺は、少女を起こすため隣の部屋まで行き、ドアを数回ノックする。

 ドアの向こうからは何も聞こえてこない。ためしにもう一度ノックし、今度は声掛けもしたが、まったくなしのつぶてで俺はいたく対応に窮した。

 このまま勝手にドアを開けてよいものか。女性の部屋へ無断で立ち入るのは、どうにも憚られる気がするし、ことに少女はこのようなデリカシーにひどく潔癖な難しい年代である。さらに近ごろの少女は山のお天気ほどに掴みどころがないため、ここでしくじろうものなら応対これ窮すること請け合いだ。

 どうしたものかと思い惑うていると、ふいにドアがわずかに開いた。ドアの隙間から少女の白い顔がにょきりと伸びてきたので、俺はぎょっとしておもわず数歩ばかりうしろへたじろいだ。

「そんなに何度も呼ばなくたって聞こえてるよ」

 少女が憎ましい眼で俺を見るので、なんだかすこし腹が立って、

「聞こえてるなら返事ぐらいしてくれよ、返事さえくれりゃこんなにしつこくしなかったのに」

 と、切り返した。

「女は身支度に時間がかかるものなの。ほんとにデリカシーないね」

「はいはい、悪かったよ」

「それで、こんな朝早くになんの用? もう出発するつもり? まだだれもこんな時間に起きちゃいないと思うけれど」

「お前は起きてるじゃないか」

「女の朝は早いの」

「そうかよ。それより朝食の準備が出来たみたいだぞ。オーナーがさっき呼びに来た」

「あらそう、ずいぶん早い朝食だね。まだ陽ものぼったばっかりなのに。ま、いいや。ここのご飯はおいしいし。じゃあ先にいってて。私も身支度がすんだら行くから」

 少女はドアの隙間から手を出して叱叱しっしっとばかりに俺を冷たくあしらうと、ばたりとドアを閉めてしまった。

 これはどうしたものだろう。昨日はあれほど冷めていた少女の態度も、今日はうってかわって普通である。いや、それどころかむしろどこか溌剌としたところさえある。

 あの歳ぐらいの娘なら持っているであろう特有の、成熟を萌している己へのエゴイスティックともいえる自信と、それを覆い隠そうとする気恥ずかしさを帯びた、どこかちぐはぐで噛み合わない、それでいてあどけない陰陽をはらんだ溌剌さが、先ほどの少女に垣間見れたのである。

 本来の姿がどのようなものか、依然測りかねている俺であるが、これを機にますます少女の本心を見えなくなったのは言うまでもない。

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斜陽勇者の冒険譚 さるの本領 @saru_no_honryo

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