第十四章 シンへ行く
シンというのはマスロープス山の麓にある街で、ちょうどフォースイとよばれる城塞都市のあいだに位置するところにある。
シンは、マスロープス山の麓にあるだけあって、下山してきた冒険者たちの憩いの地として知られているが、それよりほかに、わざわざこのようなへんぴなところへ訪れるものはそうそうおらず、そのためかこれといった音を聞かないひなびた土地であった。
かくいう俺も、過去にここを訪れた折りには、たいそう退屈な思いに駆られたものだ。なぜといって見渡すかぎり深緑の海で、格別飯や酒がうまいわけでも、置いてある武具が優れているわけでもなく、どれもそれなりでぱっとしないからである。ところがステラはというと、この静かな街をたいへん気に入っていた。
もし住むのであれば、こういうのどかで閑寂としたなにもない場所がいいと、しきりにステラが口にしていた記憶がある。
それはさておき、こういう何もないところではあるが、どのような人物にも何かしら一つは光る物があるように、この街にも一つだけ光る物があったのだ。それがこの街の伝統工芸である木彫りだ。
シンはもともと山に囲まれているだけあって木材には事欠くことがなく、森林から伐採した木材を加工して各所へ売りさばくことを生業にしていた。その一環で生まれたのが、まさしくその伝統工芸たる木彫りなのである。もとは、採材であまった木材をどう利用してやろうかという魂胆のもとに生まれた物であったらしいが、それが徐々に熱を帯び、やがて彼らのなかに眠る職人気質を揺り起こして火をつけたのだ。はては、林業そっちのけで木彫りにのめりこむ者まで現れだしたという。世間になにぶん疎いこの街では、世にあまねく娯楽からもほど遠いシンでは、人を夢中にさせるような遊びもないため、こうした木彫りのようなむずかしい手芸でも、息抜きがてらの遊びとして興が乗ったようだ。
近年では、木彫りだけに飽きたらず、アクセサリーといった装飾品にも手を付けているようで、ちらほらと他の街でもシンの工芸品を目にすることがある。とはいえ、まだまだ駆け出しであるからして、名を轟かすには至っていないけれど、この調子ならばじきに頭角を現すことだろう。
今でこそ勢いづいているシンであるが、以前は戦後の紛争による憂き目にあい、廃墟も同然と化したと聞く。
シン周辺というのはその昔、魔王が割拠していた地域に近かったため、なにかと諍いが絶えなかった。
それでも魔王が存命のうちは、魔王という理性の
荒くれの武闘派たちがどっとシンや、それらを取り巻く小さな人里を、はては周囲の森林をも総なめにしていった。さいわい、城塞都市フォースイに王都兵軍がたまたま遠征にきていたため、彼らの活躍によって住民の多くは避難できたが、もし王都兵軍が遠征に来ていなかったら、被害は凄惨を極めたことだろう。
けれども、甚大な被害が出たことにはかわりなく、シンはもちろんのこと、森も、森に住まう小民族の里も、なにもかもが無残な燎原となり果て、そこに住まう人々は焼け出されることになった。近年では復旧は進んだため大多数の者は故郷へ戻ることができたものの、ごく一部のものはいまだフォースイの暗いスラムの隅で震えているのが現状である。
それはさておき、焼け出されたシンの住民だが、これまた強かなもので、食い扶持である森が焼きはらわれてしまったものの、その焼き払われたところを利用して、今度は農業に専念しているらしく、ここのところ野菜の収穫も徐々にのびてきて、食うに困らないぐらいにはなっているらしい。また、魔法を利用した造林なんかにも着手しているようで、緑も大分と息を吹きかえしたようだ。この一面に見える森の海もその影響であるという。魔法兵器というのはこういう応用もできるというのは、まこと驚きである。
魔法による造林ののちに、伝統工芸である木彫りや林業の調子もまたもとに戻りつつあった。そして、復興のためさきほど述べた装飾品のたぐいといった工芸品の製作にも尽力している。その甲斐あってかシンの景気はしだいによくなり、紛争前よりかえって栄えているというのだ。こういうことを焼けぶとりするというのだろうか。
「今にシンは世間に名をはせるこったろうな。して旦那、シンにはいったいどういう用事で? たしかに景気がよくなったっちゃあよくなったが、それでもあんまり見るところはないぜ? あんなところへ行くなんざはよっぽどの工芸好きぐらいなもんだ」
幌付き馬車の御者である商人が、こちらをちらりと振り返ってそういった。
「用という用はないんだが……昔、シンに足を運んだことがあってね、ちょっとそれで気になることがあったんだ。いやぁ、しかし助かったよ。歩けど歩けどまったく着く気配がないから途方に暮れていたんだ。こうして馬車に乗せてくれなかったら野垂れ死にしてたかもな」
「なぁに、困ったときはお互い様ですぜ、旦那。しっかしこのあたりも大分様変わりしちまったもんだからな。なにしろ紛争であっちこっちが滅茶苦茶になっちまったろ……そんでもって、この造林ときちゃあいよいよお手上げさあ。土地勘もへったくれもありゃしねえ。ま、そういってもこのあたりは土地勘があったところで迷いやすくていけねえからな。俺だって今でも迷うことがあるくらいだからなぁ。こういうことはよくあることですぜ」
商人はこちらを振りかえってにかっと笑いかげた。
俺は馬車が土を蹴るたびにカタカタと震える積み上げられた箱たちを眺めながら、先ほどまでのことを回想する。
この馬車に出会わねば、今頃俺たちはどうなっていただろうかと考えただけでぞっとする。まったくもって僥倖に恵まれたといわざるを得ない。
エリオール老と別れたあと、さっそく俺たちはあの看板を確認することにした。看板といっても標識みたいなものであったが、果然、その看板にはシンへの道が示されていたのだ。
俺たちは看板をたよりに街道を歩いていったが、やがて、ふた股の道にぶち当たった。そして、俺たちはここで大いに困惑することになる。なぜなら、このふた股にはその先を示す看板がどこにも見当たらなかったからだ。
景色から判断しようにも、見渡すかぎりがところ狭しと乱立する木々ばかりでまったくあてにならない。どちらへ進めばよいものか二人してしばらく思い惑ったが、立ち止まっていてもらちが明かぬため、とりあえずどちらか片方へ行ってみようということになった。もし、道が違う用であればまたここへ引き返してきたのちに、もう片方の道を行けばいい。けれど、この考えは非常に安直で愚かだったと、すぐに思い知らされることになる。
ふた股の道を右へいき、しばらく歩いていくと、しだいに森が濃くなることに気が付いた。あれほど晴れやかだった空も無数の木の葉にくもって、燦燦とした陽の光は木の葉のさえずりからちらちらともれてくるばかりである。
足下に広がる道もだんだんと頼りなくなっていき、ついには道と呼ぶにもあやしい獣道のようなものにかわった。ここまでくると、さすがにこの道は違うことは瞭然で、俺たちはすぐに踵をかえして元の道へ帰ることにした。あとにして思うと、ここまで来る前にさっさと見切りをつけて、引き返しておけばよかったのだが、こういうことは得てして手遅れになってから気が付くものなのである。
踵を返して元の道をたどる俺たちだが、歩けど歩けど、一向にあのふた股へ出ることができない。ふた股を右に折れてから、それほど遠くまで歩いたつもりはなくだいたい五百メートルそこそこぐらいである。にも関わらず、どれだけ歩いてもあのふた股へたどり着けないのだ。
まわりを見ても似たような森の光景で、俺たちが今どこに立っているのかすらもわからない。どこからともなく聞こえる鳥や虫の鳴き声に方向感覚を狂わされ、あたりをただよう獣の生臭さと饐えた土の臭いに悪酔いしたような気分になってくる。
道は道で、さきほど歩いた時には目につかなかった、森のなかへ通ずるような道がふいにあらわれたり、うねうねと蛇のようにうねってみたりと、俺たちをさんざん惑わせるのだ。あまつさえ、あたりを見渡しても一面は似たような森の中なうえ、これではもうおしまいである。俺たちは進んでいるのか戻っているのかさえもわからない森の迷宮に迷い込んでしまったのだ。
どこからか聞こえる獣の不気味な鳴き声が、愚かな森の迷宮の来訪者をあざ笑うように、俺たちのうえに落ちてくる。悪路を蹴っている足が鉄をまとったように重くなり、いやにじめっとした濁ったような空気が肺の中によどんで、ずっしりとした息苦しさがのしかかってくる感じだった。
二人の間に会話はなかった。いや、元来から会話はないのだが、この時はいつにもまして無口であった。聞こえてくるのは森にうずまく獣や虫の密談、二人の口から切れ切れにこぼれる切ない息遣いに、ごつごつと荒い道を蹴る音のみである。
コンパスやら地図やらがあればよかったのだけれど、こうしたものはとかく肝心な時にかぎって手元にないものだ。
まぬけなことに俺は、コンパスや地図といった冒険には必須であるアイテムを、こともあろうにシュタットの宿屋に置いたまま出てきてしまったのだ!
シュタットの宿を出たおりには、このようなことになるとは思っていなかったのだから、そうしたうっかりが無理もないことをここに弁明させてほしい。どうせ二、三日で帰れることだろうとたかを括っていたのだ、まさかこんな見当違いがあるだなんてだれが思うだろうか。
いよいよ進退窮まった俺たちは、なすすべなどあろうはずもなく、近くの木に寄りかかって疲れた足を投げ出して崩れおちた。
「ありえない。なんで地図やコンパスをもってこなかったわけ? これじゃあ街へつくまえに魔物のエサになるのがおちだよ。ああ、シンの木彫りを見る前にして、木彫りで弔われることになるなんてとんだ皮肉」
「まだダメと決まったわけじゃないだろう。日が傾けば、その傾いた方角を目指せばいいんだ」
「日が傾いたらって、こんな鬱蒼な森のなかで日の傾きが正確にわかると思うの? それとも木をよじ登るつもり? こんな何メートル有るかもわからない木を。それに日が傾いてからすぐに街へつける確証はあるの? 森の中で野宿だなんて私は御免だよ。魔物の気配もそこかしこにあるし危険すぎる」
「じゃあひとまずに歩いてみるか?」
「そんなことしたらもっと深くに迷うことになるかもしれないでしょう」
「じゃあどうしろって……」
「しっ! 静かに」
ふいに少女が俺の言葉をさえぎる。
「な、なんだ? どうかしたのか?」
「いいから黙ってて!」
少女は言下にピシャリと制すと、気づかわしげにあたりを見回したが、その時だった。
ふと森の向こうから、ガタガタとなにやらが土を轢く音が聞こえてくるではないか。それにともなってコツコツと乾いた馬の足音が、森のなかを木霊として響いてくる。
初めのうちは耳を傾けねば聞こえぬほど小さなものであったが、時が経つにつれ、それがどんどんと大きくなってきて、やがて鬨の声のごとく俺たちに押し寄せてくるのだ。そうしてくるうち、しだいにおぼろげであった音がはっきりしてきた。
俺たち二人はぎょっとして弾かれたように互いの顔を見る。
間違いない、この音は馬車のものだ。
これ幸いと、こけつまろびつ音の方へ向かって委細構わず森のなかを突っ切ったところ、はたしてこの馬車引きの商人と出くわしたというわけである。
わき道から突如飛びだしてきた俺たちに、商人はいたくびっくりしたようで、ひっと低い悲鳴をあげて手綱を目いっぱい引っ張りあげて馬車を止めると、
「馬鹿野郎ッ! 仲よく心中するならよそでやれってんだ!」
と、冷や汗でびっしょりになった額をぬぐいながら罵声を浴びたが、それでも俺たちが慇懃に詫びをいれて、森へ迷い込んだいきさつを説明すると、
「そういうことですかい、いきなり叫んで悪かったな。もしよかったら、俺も今からシンへ荷物を卸しに向かうところだからよ、旦那たちも一緒に乗っていくかい?」
と、乗り合いを提案してくれたのである。これを否む理由などあろうはずもなく、俺たちは荷馬車へ乗せてもらうことになって今に至るというわけだ。
ちなみにあとで商人に聞いたところ、なんとあの看板は間違っているものらしく、あれを頼りに進んでしまうと街どころか森のなかへまっしぐらなのだそうだ。この街道もわけあって整備の途中で放置されている事情も重なって、間違いに気が付きにくいということらしい。実際、これが原因で森へ迷い込む者が少なからずいるという。看板も誰かが直せばよいものを、みな億劫がって直さないというのだ。あの看板のせいで迷子になった身としては、たまったものではない。とはいえ、コンパスやら地図やらの必需品を持たずにここへ出てくる俺たちにも、非はあるのだけれど。
それはさておき、荷馬車に乗せてもらった俺たちは、うず高く積まれた荷箱と一緒に揺られながら、さきほど述べたシンの情勢についてを商人から聞いた。例によって少女がシンの工芸品に強い関心を示したのはいうまでもない。
「シンのアクセサリーってどんな感じなのですか? 今手元にありますか? ぜひこの目で見てみたいのです。何しろ木彫りのアクセサリーってあまりお目にかかったことがないものですから」
少女が膝を乗り出して訊ねると、
「お嬢ちゃんはシンの工芸品にご執心かい? お目が高いこったな。だがわりぃな、これからそれを取りに行くところだから、ここにはねぇんだ。ま、向こうへ着いたらいやってほど目につくから、そうがっかりなさんな」
「そうですか」
興奮に熱っぽくなった少女の眼が、にわかに失望の色がうかぶ。それがあまり明け透けなものだったので、なんだか少し可笑しかった。
「にしても、最近じゃここの手作り品がいたく人気でよぉ、なんでもこれは金になるってんで、うちのお得意さんももっぱら最近こればっかりよ。まったく、俺みたいなおっさんにゃ、近ごろの若造が何考えてるか全くわかりゃしねえ」
「同感ですね。かくいう俺もそういう工芸品はてんででして。やはりこういうものは女性の嗜みなのでしょうねぇ」
俺が商人の言葉に同調をしめすと、
「あら、そんなこと!」
少女は愕然とした顔をして、俺と商人の二人を見比べると、
「アクセサリーは男女問わず、品位を保つために嗜まれるものですよ。それを……自分たちの理解が及ばないからといって女性だけのものと決めつけて、理解を怠ろうなどと……まったく、恥知らずもいいところです」
「はあ……」
少女の勢いにおされ呆気に取られた俺たち二人は、どちらともなく間の抜けた声をあげるのだが、それがいけなかった。少女のアクセサリーにたいする偏執狂なる熱意に油を注いでしまい、結局、街につくまでのあいだ、執拗な講義を迫られるはめになったのである。
閑話休題、馬車で揺られること一、二時間、てっぺんにあった太陽が少し傾き始めた頃おいに、ようやく森の先から建屋が顔を出した。それはなにやらの木造の塔のようなものらしく、隆々と天へ天へと伸びていく。やがて、進んでいくうちに、どうもその塔は教会であることがわかった。
天を摩する塔の中央には色彩に富んだ円形のステンドグラスがはめ込まれており、そのすぐ下には木彫りの女神が、燦然たる陽光を仰いではかなげに両手を捧げているのが見える。さらに道を進んでいくと、塔をはさむようにして小尖塔がにょきりと顔を出し、小尖塔にもこれまた木彫りで作られた天使らしき幼子が、ラッパを吹きながら、女神を取りまくようにしてそえれられている。
それを見た俺は、ふいにある記憶が脳裏をつらぬいて走るのを感じた。
その記憶というのも、例によって薄霧がかかったように判然とはしないものであった。
質素な木造の教会のかたすみ。……
おりから差す朝陽がステンドグラスの色彩を吸うて、色とりどりの光を協会のなかへ投げかけるなかで、ひっそりと手を束ねてお祈りをする女性。その女性がステラであることはいうまでもない。
ステラはお祈りを終えると、おもむろに祭壇の前までいき、両手をついてぬかづいた。
眼の醒めるような色彩富んだきれいな朝陽が添えられたステラの横顔は、呼吸をつめるほど、ぞっとするほど、あでやかで美しかった。どこか神の遣いであるかのような神聖な佇まいではあったものの、それが必ずしも近寄りがたい厳粛とした雰囲気というわけではなく、どこにでもいるような、器量の良い下町の親しみやすい女のような感じだった。しかし、そのかけ離れた二面性が、ステラになんともいえない陰影の美を与え、奥ゆかしい風情を醸し、いたく俺の眼を惹きつけるのだった。
ステラは俺の視線に気が付いたようで、おもてを上げてこちらを振り返ると、おくれ髪をそっと耳にかけながら、
彼女はなにかを口走ったが、その声は記憶の霧にぼやけて心耳に届いてこない。
彼女はいったいなんといったかな。……
そこでふと俺の幻想がやぶられたのは、ふいに馬車が動きをとめたからだ。はっとしてあたりを見回すと、シンの検問所のすぐ目の前まできていた。
「旦那、ここまでくりゃ大丈夫でしょう。そこで検問を受けりゃ街入りできますぜ。では俺も検問やら検品やらの面倒があるんで、ここで」
「あ、ああ、どうもありがとう」
俺たちは馬車から降り、商人へあらためて礼をすると、すぐに検問所へむかった。
検問所には、国軍から派遣されてきたであろう国軍腕章をした兵士が、気だるそうに頬杖をついて座っている。俺が街に入りたい旨をつたえると、兵士は二、三の質問を慇懃無礼に投げたのち、記入用紙を俺の前へと無造作に放って、記入するよう命じた。
俺は今までどおり適当な通り名――ジャック・フェリックスと書き入れたが、少女の項目をどう書くか、いささか戸惑っていると、
「ちょっとかして」
と横から少女が俺の持っていたペンをもぎとると、俺を後ろへと押しやってから、記入用紙にさっとペンを走らせて兵士に突き出した。
兵士は記入された紙と俺たちとを不遜な眼つきで見比べてから、軽いため息のもと大儀そうに承認印を捺した。その時に、俺はさりげなく記入用紙の少女の欄へさっと眼を走らせたが、一瞬だったためなんと書いてあるか読み取ることができなかった。
さて、街入りした俺たちはまず宿屋を探した。ちなみに金についてだが、あのマスロープスの鉄砲水で倒れていた奴らからいくらか金をくすねておいたため、さいわい金に事欠くことはなかった。(なけなしの回復薬をつかって命だけは助けてやったのだ、これぐらいは許されるだろう。)
さすが木を生業にする街だけあって、シンはなにからなにまで見事なまでに木でできた街であった。今、歩いている石畳の道をのぞいては、家といわず、ポストといわず、噴水といわず、街灯といわず、なにからなにまで木でできている。ツンと鼻を突き抜けるようなひんやりとした、それでいてほんのり甘い木材の独特な香りが、このシンをやさしく覆っている。まるで巨大な大木のなかに街一つをそのまま持ってきたような感じだ。
ここまで聞くとなにをそんな大げさな、と思うだろうが、この街にひとたび足を運んでもらえば、この感想がさほど大げさなものではないと信じてもらえるだろう。大げさも小げさもなく、本当にどこを見ても木しかないのである。これでは木彫りに取り憑かれるのも、さもあらんことであろう。
木材の淡く優しい匂いに酔うた心地で、ぶらぶらと街を歩いてしばらくすると、思いがけなく宿屋へたどり着いた。宿屋は、木造であることはいうまでもないが、カバードポーチのつい二階建ての丸太組みされたログハウスであった。ポーチの片隅にはこれまた木造のロッキングチェアと丸テーブルがおかれている。清掃が行き届いていると見えて、趣のある古き良き体裁を保っていながらも、古すぎるという印象を与えないのがなんとも素晴らしい。
俺たちはポーチへ上がって中へ入ると、フロントにいた髪に霜を置いた少々厳めしい初老の男に話しかけ、宿泊の手続きをすませた。
手続きの合間にどのくらい滞在するのかと訊かれたが、特に決まっていないと答えると、厳めしい男――宿屋のオーナーは、うちは滅多に客が来ないから、好きなだけいるといい、と屈託のない笑顔でいった。
「この街じゃ外来の客など滅多とないので、こうして客人を迎えられるのは嬉しいことなんですよ」
「そうなんですか、でもそれじゃあ生計を立てるのは難しいんじゃ?」
「ああ、いえ。本業は別にありますから問題ありませんよ。こっちは趣味でやっているので」
「本業は別に……?」
「ええ、本業は木彫りですよ。ほら、そこにいくつかあるでしょう」
オーナーが指をさした先をみると、なるほど壁に掛けられた棚に木像たちがきちんと並んでいる。木像は掌ほどの大きさで、野鳥や熊、人間など、さまざまな生き物を模しているのだが、そのどれも出来栄えは素晴らしく、本物と見まごうほど精巧に彫られている。あの野鳥の像など、翼を広げて風になびく羽根の様や、まっすぐと振り下ろされる鋭いくちばしなどからは、みずみずしい躍動が感じられ、膠塗りされて鋭く光る獰猛な眼つきなんかを見ていると、今にも動き出して獲物をかっさらうのでは思われるほどである。
「これは素晴らしい出来ですね。まるで本物だ」
「ありがとうございます。ですが、私なんてまだまだですよ」
「これでまだまだだなんて、俺はこんな精密に彫られた木彫りなんて見たことありませんよ。そんなご謙遜なさらずに」
「いえ、謙遜なんかじゃないんですよ。この街にはいるんですよ、木彫り師の天才が。その方に比べれば、私などやはりまだまだです」
「天才の木彫り師……」
「その方はどちらにいらっしゃるんですか?」
そう口を出したのは、棚のそばで木像を見ていた少女である。
「はあ。それが私にも詳しいことはわからんのですよ」
「それはどうしてですの? だってこの街の方なんですよね?」
「ええ、まあ」
「この街もそれほど大きいわけでもありませんし、天才と称されるほどの有名な方でしたら、誰でも知ってそうなものですけれど」
「はい、そうなんですけれど。本当に私は知らないんです。というより、この街のほとんどが彼の行方を知らないでしょう。なにせ、彼はこの街には住んでいらっしゃらないのですから」
「それはなぜですか?」
俺は思わず口をはさまずにはいられなかった。オーナーは言葉を継いで、
「過去にこの街が焼け払われたことはご存じですよね。焼け残ったものといえば、あの大きな教会ぐらいのものだったのですが、それ以外で唯一残っていたのがその木彫り師の住処なんですよ。というのも彼はもともと気難しい方で、街の外れのそのまた外れの郊外に住んでおりましたゆえ、結果、魔族の眼を忍ぶことになって助かったんです。しかし、その場所というのも森の奥ばったところにありまして、そんなところに建てていたものですから、街を建て直す際、みな彼の存在を忘れられてしまったのですな。冷たいと思われるかもしれませんが、みな、復興でいっぱいいっぱいでしたから仕方がないのです。それに彼はもともと他者とのかかわりを極端に嫌うところがありましたから、誰も気にかけなかったというのもあるでしょう。そういうこともあって、彼を爪はじきにしたまま街が建て直され、おまけに魔法による造林までされたせいで、彼の行方はいよいよわからずじまいとなってしまったのです。生きているのか死んでいるのかさえわからない」
「そうだったのですか。ぜひどんな作品を作ったのか見てみたかったのですけれど」
少女が悄然として嘆くと、
「彼の生死はわかりませんが、彼の作品は今でも見ることが出来ますよ。いえ、おそらくもうあなた方はお目にかけているはずかと思います。この街で真っ先に目につくでしょうから」
「あっ!」
俺が小さく叫ぶのと、
「それってまさか、あの教会の?」
少女が驚いて言葉をもらしたのはほぼ同時だった。
「ええ、そうですそうです。すごいものでしょう。あれほど大きな像を生き写し同然に彫りあげるのですから。あれが焼き払われなくて本当によかったですよ。あれはこの街の誇りですのでね。ですが、彼からすればそれもまた皮肉に感じるのでしょうね」
オーナーはにこやかにそう答えたのだが、ほんの一瞬だけ、オーナの顔によぎった不穏な翳りを俺は見逃さなかった。
「皮肉……?」
少女がそう訊くと、オーナーはあわてて、
「ああ、いえ、ね……」
そう答えて軽くしわぶくと、
「あれほど素晴らしい女神を掘り起こした木彫り師に、なぜあのような悲運をお与えしたのだろうと思いましてね、本当に神は酷なことをなさる……」
「悲運……?」
少女がぽつりとこぼすと、オーナーはこくりと小さく頷き、喉になにかつっかえたような声で、
「この街では紛争前にも一度魔族に襲われているのです。それも戦時中、魔王の歯止めがあったにも関わらず、街に火の手が上がりました。その場所というのが彼の家の間近のこと。そしてやはり標的にされたのも彼――の身内である、彼の娘さんでした。とても悲しいことです。同じ娘を持つ父として、心底同情します」
オーナーの顔にまたも暗い翳りが走る。
だが、これは俺としてもこの話には何かしらはっとさせられる思いであった。その事件にはなにやら心当たりがあるのだ。
「その魔族は、彼の娘を盾にしてこの街を侵略しようと試みたのでしょう。その悪逆非道な魔族は取り囲んだ衛兵たちを次々に殺してまわり、ついには森へ火を放ちました。燃え上がる火の手、転がる衛兵の骸、魔族の手に握られた血の滴る凶刃、そして、魔族の胸に囚われた彼の娘……。ああ、なんておぞましい! さいわい、たまたま街に訪れていたある勇敢な若者によって、なんとか魔族を討ち倒し、この街の平和は守られました。ですが、それは尊い犠牲の上のことです。囚われた娘は……亡くなられました。その子の亡骸を取り上げた兵士がいうに、娘さんは無残にもおびただしい傷を負っていたそうです。皮膚や肉は割かれ、骨は断たれ、生命の輝きを奪われた瞳は黒くにごり、血の気を失った唇は死の色にそそけていたと聞きました」
俺はこの話を聞き、胸にわだかまるなにかしら異様な思いからある確信に至った。
俺はこの件について何かを知っているにちがいない。いや、そればかりではなく、深いかかわりを持っている。だから、この話を聞いたとたん、胸が異様にあやしく騒ぎ立てるのだ。
「すみません。その木彫り師さんですが、名前はなんというかご存じでしょうか?」
俺はカウンターから身を乗りだして、オーナーへ詰めよった。
オーナーはちょっと驚いたように一瞬身を引いたが、すぐに姿勢を正すと、
「もちろん存じておりますよ。この街の者なら誰で知っておりますとも。彼の名はアントンです」
その名を聞いた時、俺の胸がいっそうあやしく乱れ、腹の底がずっしりと鉄球でも呑んだかのように重くなるのであった。
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