第十三章 新たな手掛かり

 少女の身体は魔族たちの献身のおかげで、全快に近い状態であったが、それでもあれほどの大怪我を被ったあとということもあり、俺たちは大事を取ってこの集落で一日お世話になることとなった。

 その旨をエリオール老に伝えると、彼は快く了承してくれたのだが、集落をむやみに出歩くことはしないようにしてほしいという。

 どうしてか、と訊ねると、エリオール老は、それがお主たちのためだ、と答えた。

 その時に聞いたのだが、なんでもこの集落に住まう者は、ごく一部を除いて、みな人間によって住処を追われた者たちばかりであるらしい。戦禍によって焼け出されたもの、人間に迫害を受けて土地を追い払われたものたちが、途方に暮れたすえに、もともと各所を放浪していた一族であるエリオール老たちをたよってやってきた。

 はじめのうちは五、六人程度であった魔族である難民も、時が経つにつれてそうした難民が増えていき、今ではこれほどの大所帯となっているというわけである。そのなかには、戦後の紛争から落ちのびた武闘派の荒くれ者もいるらしいが、受け入れてくれた恩もあってか、今では過去の粗相がうそのようにおとなしくなり、献身的にこの集落を守ってくれているというのだ。

 以上の経緯もあってか、ここの者たちは、人間にたいしてよほどなみならぬ憎悪を抱いており、どうかすると血祭りに上げかねまじきほどに、人間を眼の仇にしているという話だ。

 ――こうした問題はとても悲しく思う。我々は共存できるはずなのに……出来ていたはずなのに。こんなことになるなんて、私は今の世の姿が悲しくて仕方がない。だが、これも世界ではままあることだ。これも神の試練なのかもしれない。

 エリオール老は鍋に入ったスープをそれぞれに配りながらそう語った。

 スープを受け取ったイルとミーネはエリオール老をはさむようにして腰をおろして、さっそくスープに口をつけている。俺と少女も、テーブル越しにエリオール老たちと向かい合うかたちで座って、ご相伴にあずかった。

 ほのかに土の匂いがまじったスープは、まるで海水をなめたような甘みのある塩味で、具には、申し訳ない程度の魚のような身がはいっている。そこの湖でとったのだろうか。お世辞にもうまいとはいえないが、それでも空腹にはとても暖かく、五臓六腑に染みいるようである。

 ――すまないな。もっと盛大にもてなしたかったのだが、なにぶん貧しいものでな。こんなしゃばしゃばなスープしか出せんのだ。恥ずかしい限りだよ。

「いやいや、こうしてスープをいただけるだけでも幸いです。どうもありがとうございます」

 ――しかし、そうはいってもせっかくの客人をこんな粗末なスープでしか歓待できんのは心苦しいのだ。我々一族の歓迎は、もっと華やかで豪勢なものということを知ってもらいたかったのだがね。

 エリオール老はスープに眼を落して、器の縁を親指で撫でながら、

 ――やはり、これほど大所帯となるとなにかと大変でね。ことに食糧についてはとくに頭の痛い問題なのだ。孫にすら満足に飯も食わせてやれない。自分たちで賄おうにも、放浪している身ゆえ、腰をすえて田畑を作るなんてことは私たちにはできないしな。かといって、彼らを見捨てるなんてことは一族の誇りにかけても出来かねる。ああ、どうしたものか。

 ――ならエリオール様、俺とミーネで人間から食い物を奪ってくるよ! そうすればみんな困らなくて済むだろ?

 イルが身を乗りだしてそういうと、エリオール老はイルの額をぴしゃりと平手で軽く打って、

 ――ばか者。他者から物をうばうなど恥知らずも甚だしい。そういうことは二度と口にしてはならん。それに、食い物を奪われた人間はどうなる? 今度は彼らが食う物に困るではないか。いいか? 自分の幸福のために、誰かの物を奪うなど、心のない動物のやることだ。我々は誇り高い一族、そのような行いは決して犯してはならないのだ。

 と、厳しいながらも穏やかな調子で諭す。

 額を打たれたイルは面白くなさそうに額を撫でて、

 ――でも、人間だって俺たちのものをいろいろ奪ったりしてくるじゃないか。どうして俺たちばかりが我慢しなきゃならないんだ。黙って我慢してやり返さないなんてただの臆病者だ。

 と、ふてくされて反論した。

 ――たとえそうでも、だ。ここでやり返しても、また同じことが起こるだけだ。やってはやり返して、またやってはやり返して、そんなことを繰り返していても不毛な争いにしかならん。ただやみくもに多くの血と涙が流れるだけだ。

 ――でもそんな。……

 エリオール老の言葉に、しどもどとするイルに見かねてか、ミーネがよこから口を出した。

 ――お兄ちゃん、もういいでしょう。今はこんな話やめようよ。お客さんもいるんだし。……

 ミーネは頬を赤くして、ちらちらと俺たちの様子を横目で見ている。

 ――ちぇっ!

 イルは軽く舌打ちをすると、それっきり口を利かなくなった。ミーネはむくれた兄の姿に見かねて申し訳なさそうに、こちらへ向かってぺこぺこと頭をさげた。

 その姿を見た俺は、どうにも苦い思いが胸の中に広がるのを感じずにはいられなかった。やはり、人間である俺たちがこの場にいるべきでないのだろうか。

 ――うちのイルがすまないね。誤解しないでほしいのだが、この子は本当はもっと優しい子なんだ。ただ、なにぶんまわりに影響されやすいものでね。

「ええ、はあ」

「あの、お話のところ悪いんだけれど、シンへの行き方についてお聞きしても?」

 少女がそばからくちばしをはさむと、すこし驚いたようにエリオール老は目を見張った。

 ――はて、シン? この山の麓にある街のことか?

 反問するエリオール老の言葉を、俺が少女に耳打ちで伝えると、

「ええ、そう。この場所からどういう風に行けばいいのか私たちにはさっぱりだから。あなた方のほうがこの辺りに詳しいかと思って。ほら、山道はちょっとの油断も命とりでしょう? なにもわからないまま、山の中をさまようなんて危険だし」

 ――そうだな。たしかに我々はこのあたりの土地には明るいほうだろう。よかったら途中まで案内をしてやってもいいんだが……シンになにか用事があるのか?

「ああ、これは俺の用事なんですよ、エリオールさん」

 俺がよこから会話をひきとると、エリオール老はちょっと驚いたように俺の顔を見直した。

「実をいいいますと、俺は十年ほど前から記憶を失っておりまして、自分が誰なのかもわからないまま、今まで少ない手がかりをあてに各地を巡っていたんです。これまでは一向に収穫がなかったのですが、今回の件で……」

 ――ほお、記憶がよみがえったのかな。

「ええ、といってもまだほんの一部ですがね。その記憶の一部の中にある光景の一つにそのシンがあったんです。だから、そこで俺の記憶の手がかりを得ようと考えましてね。やっと得られた有力な手掛かりですので、どうしてもシンにいきたいんですよ。俺はまだ自分が誰だったのかを思い出せてはいないんですが、それでも何か大切なものを思い出せた気がしたんです。俺はなんとしても思い出したい。大切なものが……ステラが俺にとってどういうものだったのか、もっとはっきりと思い出したい……」

 ――そうか……そうだったのか。お主もまた難儀な運命の糸に絡めとられているな。

 エリオール老は感慨深げに嘆息し、

 ――しかしお主、本当に記憶を取りもどしてしまってもいいのか?

「はあ、といいますと?」

 ――記憶を失うということは、有り体にいえば壮大な現実逃避の結果だ。深刻な頭部の重傷を負わぬ限りな。お主の記憶を喪失した原因がこの重傷でないのするなら、記憶を取りもどすということは、お主にとって眼を背けたいほどの現実と向き合わねばならないということ。それは覚悟しているのかな。

「眼を背けたいほどの現実……」

 考えてもみなかった。

 俺は今のいままで、ただ生ける屍のように、過去の痕跡である例の地図をなぞって歩いていただけで、それが俺のうえにどういったものをもたらすのかなど、つゆともしらずに。……

 俺はその指摘に激しい動揺をもよおさずにはいられなかった。

 おもえばあの森で見せられたおぞましい幻にも、ステラが現れていた。それはとりもなおさず、記憶喪失の根幹もっともたるといえるのではないか。なぜといって、あの時見せられた幻は少女曰く、記憶のもっとも醜い部分を顕在化する魔法なのだ、そこにはなにかしら重苦しい現実がともなっていることは想像に易い。

 そういう負の遺産がついて回るステラの記憶を取りもどすということは、すなわち、トラウマじみたおぞましい記憶を掘り起こすことにほかならない。

「そうかもしれませんね。思い出さぬ方がいいかもしれません。……正直、今の話をきいてやめたい、逃げ出したいと思ってしまっているのだから、多分、あなたの言っていることは正しいのでしょうね。しかし、もう後には引けない……いや、引きたくないんです。やはりステラが俺にとってどういう人なのか、ステラはどこで育ち、どこで出会い、どうして袂をわかったのか、思い出さねば気がすまんのです。それに俺にはこれといった目的もありませんから」

 俺はそう語ったが、動機はなにもそれだけではない。

 途中まで出かかった記憶の採掘をやめてしまうというのは、いいだした話を中絶してしまうよりも腑に落ちないものだ。ステラのことはむろん気掛かりではあるが、すべての記憶を取りもどして、どうにかすっきりしたいという思いも当然あるのだ。

 こうなってしまった以上、さきほど少女が語ったように、つるから離れた矢はもう飛んでいくしかなく、俺も行きつく先まで突き進むしかない。

 ――そうか、ならばもう何もいうまい。明日の早朝に、山の麓まで送ろう。

「何から何までありがとうございます」

 俺はエリオール老に感謝を述べ、少女にエリオール老の言葉を伝えると、どういうわけか安堵の色をうかべて、ほっと息をついた。

 この少女のため息に、いったいどういう心情が含まれていたのか。少女の見せた安堵の色のうらには、どのような思いが淀んでいたのか。ああ、この少女の思いをついぞ知ることはなかったのだ。

 それはさておき、この日は時間も時間であったし、身体も綿のように疲れていたこともあり、すぐに寝床へ入ることとなった。しかしこの小屋に寝床といって、少女がいま横たえているところしかなく、何かを敷いて寝れるような足場もない。世話になる身として、少女はまだともかく俺まで場所をつぶすのは悪いと思い、エリオール老へ外で寝ると申し出たところ、

 ――我々の種族は夜行性ゆえ、今から外で寝るとなると皆の眼についてしまう。悪いがそれは了承しかねるから、その娘っ子と一緒に寝てくれ。

 と、エリオール老は心苦しそうに頭をさげるので、さすがに無理を言って通すのも悪いと思い、それは叶わなかった。

 俺は、少女と寝るというのもなんだか気が引けたため、結局、部屋の片隅にあるよくわからない置物と一緒に座って寝ることにした。

 壁も床も堅いことこの上なく、寝心地もへったくれもないが、先の疲労も助けてか剣を抱いて眼をつぶって数分もせぬうちに、あっという間にまどろみに落ちた。それからどれほど時間が経ったか、ふいに誰かに身体をゆすられる感じがしてふと目が覚めた。俺の身体を揺らしていたのはエリオール老である。

 ――そろそろ朝方だ。周りの者ももう寝入っているから、ここから出るなら今のうちだ。

 寝心地が悪かったせいか疲労が抜けきっていないと見えて、全身が石のように重く感じる。それでも無理やり身体を奮い立たせると、節々から骨の喚く鈍い音が身体のすみずみを打つのだった。頭の中は薄皮をかぶったように意識がぼんやりとして明瞭としない。

 寝床の方へ眼を向けると、身支度を整え終えた少女がちょうど立ち上がるところだった。少女は俺とは違ってよく眠れたらしく、だいぶ顔色が良くなっており、この分だと、傷も完全に癒えていることだろう。

 さて、俺たち三人が小屋の外へ出ると、さきほどエリオール老がいっていたように、みなはすでに寝静まっているようで、地底湖は音一つなく閑寂としており、地底湖の上に空いた穴から、薄ぼんやりとした藍染めの空が沈々と地底湖に注がれている。

 エリオール老は口に人差し指を当てて、音を出さぬようにと俺たちに示すと、ぬき足さし足といったしのび足で歩きだした。俺たちも後にならってエリオール老についていく。

 地底湖を迂回するように不規則に乱立した小屋小屋を抜けると、ここへ来たときに出てきた洞穴と向い合せに位置するところへやってきた。そこには、向かいにある洞穴と同じような穴がぽっかりと開いているのだ。

 ――ここを抜ければ、この山の向こうへ出られる。向かい側の洞穴ほど長くはないが、洞穴の環境は変わらぬ。夜目の才覚がある我々であろうと、洞穴のなかではまったく目が利かんのだ。だからお主はよりいっそう用心するように。

 エリオール老は俺にそう告げると、懐からカンテラを取り出し、指先でカンテラをなすって火をつけた。

 そして、エリオール老を先頭に少女と俺がつづいて、洞穴へと足を踏みいって進みはじめたその時、うしろからだしぬけに、

 ――おい、老いぼれ! そいつらを逃がすつもりか!

 と野太い魔族の声が耳を震わせた。野太い音が洞穴の壁にぶち当たりながら、二転三転と転がって、洞穴の闇を震わせて響きわたる。

 俺はぎょっとしてばっと後ろを振り返ると、そこには二メートルほどはあるであろうワイルドベアほどの屈強なる大男が洞穴を塞いでいた。身体の作りもさることながら、目鼻立ちから髪型まで、何を取っても頑健という言葉が似あうほどの大男である。しかのみならず、身体の至るところを走るおびただしい古傷が、襤褸切れの服の合間からのぞいていて、それがいっそうこの男に厳然たる雰囲気をあたえているのだ。

 ――いきなり大きな声を出すな、ラルフ。洞穴が怯えるではないか。

 エリオール老はぴたりとたちどまり、振り向きもせずに彼を諌める。

 ――何がおびえるものか。おびえているとするのなら老いぼれにだろうよ。お前を腹に入れるこの洞穴に同情するくらいさ。とんだ怖いもの知らずってな。……けッ、こんなくだらねえ軽口をたたきに来たんじゃねえ。おい、老いぼれ、そいつらをここから逃がすってんなら、いくら老いぼれでも俺は黙っちゃいねえぞ。あの時はみなの手前だったから引き下がったが、今回はそうはいかねえ。みすみす人間を見逃すなんてことがあっちゃいけねえからな。そいつらはここの存在を知ってしまった。消さなきゃならない。あんたもわかるだろう。死人は口も死ってな。

 ――それをいうなら死人にくちなし、だ。新しい諺を生み出すんじゃない。ラルフ、お主のいうことはもっともだ。だが、この者には恩義がある。恩義を仇で返すのは我が種族では比類なき恥であるのだ。だからたとえどんなものでも、恩を返さねばならぬ。

 ――恩を返すったって、それもそいつらが勝手に招いたことだろう。魔力を勝手に暴走させて、勝手に恩を着せてきただけじゃねえか。それは恩着せがましいってやつだろう。そんなやつに恩を返す必要なんてねえ。それに、人間は信用ならねえんだ。いまでもこの辺りを嗅ぎまわってる奴らがいる。またああしたことが起こらねえなんて保証はねえ。不安の芽はすこしでも摘んでおくべきじゃねえか。

 ラルフといわれる大男が、俺をきっとするどく睨んだ。その瞳に打たれた俺は、名状しがたい冷たい戦慄が背筋をつらぬいて走るのをおぼえた。その瞳には全身から絞り出したようなドス黒い憎悪が、地獄の業火さながらに、めらめらと燃えている。ともすると、何かを口にすればすぐにでも躍りかかってきそうな勢いである。

 ――やれやれ、武闘派というのはこれだからいかん。いいか、暴力的な解ではなにも片付かんのだ。どこかしらに必ず因縁は残る。手っ取り早く、一番楽な答えだからこそ、そこへ甘んじてはいけないのだ。ここでお主がこの者を仮に殺したとしよう、そうすれば新たに復讐者が生まれて、我々が狙われるはめになる。次から次へと殺したってまた同じだ。積み重なるのは骸と拭いようのない大罪のみ。いいことなど一つもない。それがわからないお主ではあるまい。

 エリオール老の言葉に、ラルフはぐっと言葉につまって押し黙る。

 ――お主の言いたいことはわかる、お主の抱えている憎しみもわかる。かくいう私も同じなのだから。しかし、そればかりでは世はますます地獄におちいっていく。これ以上、この世を地獄にしてはいけない。

 エリオール老はここでさっとこちらを振りむいたのだが、その刹那、少女へなにやら気づかわしい目配せをしているのを、俺は見逃さなかった。しかし目配せにたいして少女がどういう表情をしていたのか、少女は背を向いていたため、俺にはわからなかった。

 ――悪いな老いぼれ……お前のいうことはわかるが、やっぱり俺は我慢ならねえや。こいつら人間が憎くてたまらねえんだ。

 ラルフはおもむろに右手を持ち上げると、バチバチと閃光が右手の指先から弾けだした。甲高い炸裂音が、洞穴のなかにけたたましい反響を伝えている。

 ラルフの指先のにつのった閃光は、しだいに綱のようにするすると編み込まれ一筋の光の束となり、やがて一本の雷槍を練りあげた。雷槍の矛先からはじりじりと細かい光電がもれ出て、空気を電波のようにふるわせている。光電に麻痺した空気が俺の肌をちくちくと刺してくるのがわかる。ラルフの眼にはあきらかなる殺意の色がまたたいている。

 ラルフと俺はおっつかっつに動き出すがはやいか、その直後、

「もうやめろ!」

 と、鋭い声で耳を打つものがあった。それは少女である。あまりの厳しい剣幕に、俺とラルフの両者はおもわず動きを止めた。

 少女は刺し殺さんばかりの異様な恐ろしい眼つきで、俺を、ラルフを睨んだ。

 すると突然、どういうわけかラルフがわなわなと震えだしたのだ。俺はおもわずぎょっとしてラルフの顔を見直した。それというのも、彼の形相はあまり異様なもので、口をぱくぱくさせて、眦が裂けんほどに眼をみはっているのだ。瞳は小刻みにゆれうごき、細かい血管がいくつか走っている。そのうえ、膝をがくがくとさせ、歯をカチカチ鳴らしている。

 少女に射すくめられたワイルドベアは、まるで子供が幽霊でも見たかような様相でたじろいでいる。傍から見るとなんともへんてこな構図である。

 おびえるワイルドベアは、しきりに何かをいおうと口をぱくぱくさせるものの、のど仏をぐりぐりさせるだけで、声が出てこない。

 ――な、なん、な、なんで、お、おお、お、おま、お前が。

 ようやっと出てきた言葉もひどくどもっていて、どうにも聞き取りづらい。翻訳の才覚はこうしたどもりも的確に訳してくれるようだが、そうした正確性はこの場合ではお荷物だ。

 とうぜん、かれの言葉がわかろうはずもない少女は、無言のままじっとラルフを睨みつけ、

「さっさと去ね。邪魔だてするなら容赦はしない」

 と、少女が低声ですごむと、ラルフはうぅっと呻いて、朽ち木を倒すようにその場に倒れて気絶した。

 なんとも拍子抜けな顛末に、俺が唖然としていると、少女は踵を返して、

「先を急ごう。またこういうことがあっては面倒だし。さ、さ、おじいさん行きましょう」

 と、エリオール老の肩を二、三度軽くたたいて先をうながした。

「おい、あのラルフとかいう男、あのままでいいのか?」

 俺が少女たちの背に疑問を投げかけると、

 ――構わんよ。あいつは心はミジンコだが、身体は無駄に頑丈だからな。風邪をひいたりはするまい。

 俺が懸念しているのはそういうことではなく、放っておいたらまた追ってくるのでは、ということなのだが、この際追及は止しておいた。この時、あとほんの少しでもラルフが抱いた少女への畏怖に関心を持てていたなら、少女の心情を汲み取ることもできただろうに。いずくんぞ知らん、その時の俺は先を急ぐあまりこの重大な一件をおざなりにしてしまったのだ。

 それはさておき、洞穴のなかは例にもれず、たえがたい高温と湿度に満ち満ちていて、きめの細かい闇に溶けこみ、肌や髪にじっとりとまとわりついてくるようだった。俺たちは一言も口にせぬまま、闇を引き裂くカンテラに浮きだされた老人の背をつてに、吹きでる汗をぬぐいながらひたすら足を進めた。はあはあと、だれともない息伝いと、カツカツという足音、ときおりどこかで雫が岩を穿つ音が、洞窟にこまやかにこだまし、耳鳴りのように耳を圧してくる。

 しばらくして、暗がりの奥にぷつりと穴をあけたような光が見えた。はたしてそれは洞窟の出口である。

 洞窟を出ると、豁然として景色がひらけると同時に、眼の奥が光に焼かれ、俺はとっさに目をほそめてしばたたかせた。しだいに光に慣れてきて、細めていた眼をゆっくり開くと、そこには広大な森林が広がっていて、俺はおもわず眼をうたがった。シュタットの方面から来たときは緑など岩間に生えた草程度しか見当たらなかったのに、こちら側はむしろ岩肌を探す方がむつかしいほどに緑におおわれている。

 ――さあ、こっちだ。

 俺たちはエリオール老に連れられ、道というにも心許ない小道を進んでいった。

 湿気のこもった腐葉土の饐えた臭いが足元からこみあげてきて、なにやらわからぬ果実の腐敗した臭気が目や鼻を容赦なく突いてくる。どこからともなく聞こえてくる、なにやらがさえずるような猜疑にみちた森の密談が、俺たちのうえに、たえまなくそそがれる。森はいつでも闖入者の存在を許しはしないのだ。

 森の陰口に追われるように、森を突っ切っていくうちに、両脇に迫っていた木立がふいにひらけて、大きな一本道にでた。どうやらシンへと続く街道のようで、道の奥のほうに矢印看板が立っているのが見える。

 ――大分予定よりおそくなってしまった。ほれ、朝も更けてしまったよ。とんだ朝更かしだ。

 街道のさきには、藍染めの空が朝陽のした火にあぶられじわじわと燃えあがっている。

 エリオール老は眠そうな眼をしょぼつかせて、

 ――はっはっは、孫たちに怒られる前に、早く帰らねばな。私が集落を抜け出したのでは、示しがつかんからな。

「ここまでありがとうございます」

 俺は頭をさげて礼をのべた。

 ――構わんさ。お互い様だ。

「ところで、あの集落はいつまであそこに? やはり魔力泉を鎮めるまでは滞在される予定なのですか?」

 ――むろんだ。私たちはそのためにあそこへ起居しているのだから。

「悪いことはいいません。あの場からすぐに退避したほうがいい。あなた方はカイツ商会に目をつけられている。このままではただではすまない。

 ――はっはっは、人間であるお主が、私たちを心配してくれるというのか? 不思議な話だな。

「そんなことありませんよ。こうして言葉を交わして立派な交友関係がここに生まれた。人も魔族も関係ないでしょう? あなたもそうおっしゃったじゃありませんか」

 ――ああ、言ったよ。言ったとも。だからこそさ。お主の口からそれをきくのは、やはり不思議なものだ。

 エリオール老は眼をすぅーとほそめて俺を見ると、

 ――いや……多くはもう語るまい。我々のことは気にするな。こう見えても私もそれなりに腕は立つほうさ。さあ、行くといい。君の記憶が無事戻ることを祈っているよ。私はもう眠いから、帰るよ。またどこかで会えることを楽しみにしている。その時は、お主の物語をきっと聞かせておくれ。

 エリオール老はそう告げると、忽然として音もなく姿を消した。これはたとえではなく、文字通り、本当に姿が消えたのである。

「行っちゃったね。というか転移が使えるのなら一人ずつ運んでくれたらよかったのに。ケチな人」

 残り香すら残さぬまま、跡形もなく消えた老人の残影を見極めんとするように、少女は口端にほろ苦い微笑を刻んで、静かにつぶやいた。

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