第十二章 記憶の欠片

 老人――エリオール老は、湖に水を汲みに行ってくるといって席を外したため、この質素な小屋に残されたのは俺と少女のみとなった。きまりの悪い沈黙が小屋の中に落ちこむ。

「身体は大丈夫か? 痛いところはないか?」

 俺は沈黙に耐えかねて、口を切った。

 少女は何も答えず、柳のごとくじっとうつむいている。

 聞きたいことは山ほどあるけれど、どう切り出したらいいものか見当がつかなかった。

 単刀直入に問うべきか、それとも直接的な言葉を避けて聞きだすべきか。また、聞くにしても何から質問すればよいのだろう。

 大親父やアレン氏との関係、あるいはあの時唱えた呪文の正体、あの自殺同然の目的とは一体なんだったのか。疑念は次々に浮かび上がるが、いずれも俺が希望する事実を伴っているとは到底思えず、聞くことが非常にためらわれたのだ。

 そしてなにより、俺の脳裏に焼き付いている、鉄砲水の濁流に呑まれんとするさなかにみせたあの少女の表情。……

 訊きたいという思いと、訊きたくないという思いが、胸の中ではげしく渦巻いては内訌している。もっといえば、この場からすぐにでも逃げ出したいという、情けない欲求にさえ駆られているのである。知ろうすることがこれほどまで怖いものなのかと、俺は思った。

 なぜこれほど少女の懐に踏み入ることに、怖れを抱いているのかは俺自身わからなかったが、あえて言うならば、少女との間にある一縷の儚くも美しい関係が覆されるのではないかという、不安からくるものである風に思われる。

 そういう肝心なところでいつも踏み切れぬ意志薄弱な己に、心の底からふがいなさと腹立たしさを覚えるのだった。

 俺は見るともなしに横目で少女を見た。

 少女の顔は、どんよりとした暗雲に閉ざされたマスロープス山のごとく、暗い翳りをおびていた。それが全ての答えを暗示しているような気がして、俺はいっそう心を重くした。

「やっぱり助けたんだ……」

 少女は消え入りそうな声で呟いた。少女の声にどこか懐かしみを感じる一方で、異様なもの悲しさに胸を打たれるのはなぜだろう。

「まあな。なりゆきだ」

「……私が何をしたかわかっているの?」

「ああ、お前がよくわからない唄を歌い出したってことくらいはな。もっともあまり唄声ではなかったけどな。まだオークのいびきのほうがマシかもしれない」

 うまい返しをしようと試みたが、どうやら俺に諧謔的なセンスはまるでないようだ。

 まったくセンスのない言葉に、俺は内心で落胆を禁じえなかった。少女もちょっとむっとして顔をしかめ、首をひねっている。

 俺は昔からこの手の口説き文句が苦手で、よくからかわれたものである。

 そこへエリオール老が水瓶をもって小屋へ入ってきた。

 ――具合はどうかね?

 エリオール老はテーブルに水瓶を置いて少女に訊ねるも、少女は答えない。どうして答えないのかと考えたところで、あの鍾乳洞で交わしたエリオールとの会話を思い出した。

 こうして実際に目の当たりにすると、なんとも珍妙な気分である。自分は彼らの言葉を理解できるのに、才覚を持ち合わせていない人間である少女には、彼らの言葉がわからないのだ。

「すみません。どうやらこの娘はそちらの言葉がわからないみたいで」

 ――ほう。

 エリオール老は興味深そうに息を吐くと、

 ――そうか……そういうことだったか。

 と、なにやらわからぬことをこぼして考え込むようにうつむいた。が、やがて、エリオール老は顔を上げて、

 ――ああ、いや、すまないな。お主があまりに自然に話すものだからな。

 と、朗らかに笑って言葉を継いだ。

 ――では少々やっかいだが、お主、私の言葉をこの方に通訳してくれんか。

 エリオール老はとちらりと少女を見た。

「ええ、わかりました」

 エリオール老はテーブルに伏せてあった木製のコップへ水を注いで、少女へと手渡した。受け取った少女は二、三回口をつけると、小さく息を吐いてコップを床に置く。

 エリオール老はそれを見守ってから静かに切り出した。

 ――あの封印を解いたのはあなただね?

 彼の言葉をそのまま伝える(ここからは便宜上、俺の仲介は特別なことがなければ省略することにする)と、少女は小さくうなずいた。

 ――封印が解かれたら、どうなるかはわかっていただろう。なぜ解いた?

 エリオール老はまっすぐと少女の眼を見て問いかける。その声はあくまで優しい調子であり、少女を難詰するような厳しいものではなかった。

 しかし、少女はこれには答えず、ただ地蔵のようにじっと動かずにうつむいている。

 エリオール老は悄然とした色をうかべてため息を吐くと、

 ――あなたはあの子たちが死んでも構わなかったというのかい?

 と、なおも子を宥める親のような穏やかな調子で訊ねる。

 これには少女は首を振って否定した。

 ――なら、なぜあのような皆を巻き込むような真似までした? あの子たちがいうには、あなたがあの場の魔力を酷く乱れさせたと言っていた。封印を解いた上、そのようなことをすれば、あなただってただではすまない。もしこの者の咄嗟な判断がなければ死んでいたんだ。いや、あなただけではない。もしかしたらここにいる者すべて。……

「そんなことはわかってる!」

 俺がエリオール老の言葉を伝え終えるかどうかのところで、少女がたまりかねたように金切り声をあげた。

「これはいけないことだ、こんなことは絶対にしてはいけない。そんなことはずっとわかってた。でも……私は仇を討たなきゃいけないんだ。どうしても、どうあっても、必ず討たなくてはいけない」

 少女は呻くようにいいながら、拳をぐっと握りこんでふるふると震わせていた。あまり力強く拳を握っているせいか、皮膚が白く変色している。

 エリオール老は玲瓏とした輝かしい金色の双眸を、憐みとも悲しみともつかぬもの憂い影に曇らせて、少女を見つめている。

 やがて、彼は痛ましげなため息をつくと、

 ――ここに……あなたの仇はもういないよ。

 と、言った。

 俺は愕然として目を見張り、エリオール老の顔を見直した。

「ちょ、ちょっと待ってください。なぜあなたが彼女の仇が誰であるかを知っているのですか?」

 俺は通訳することも忘れてあわてて訊ねるも、エリオール老は俺の言葉には意を介さず、無言のまま横眼で翻訳をうながした。

 俺は少女にエリオール老の言葉を伝えたが、意外にも少女に反応はない。少女はマスロープスの山頂に垂れ下がる暗雲のような暗い眼の色で、エリオール老の眼をじっと見つめている。

 ――いやそもそも、仇なんてどこにもいないのかもしれない。なぜならそれは歴史が招いた悲運の末の事、時代の奔流が演じさせた悲劇なのだ。だから追うだけ無駄であるし、きっとあなたはそれを見つけることはできない。今のままではね。だから悪いことは言わない、仇を追うのはもう止めなさい。しかし、こういってもあなたはきっと納得されないでしょうな。……

 エリオール老の言葉を、少女は蒼白い顔でじっと黙って聞いていた。

 エリオール老はおもむろに立ち上がって、ゆらゆらと小屋の外へと足を向けた。やがて、扉へ手を掛けると、くるりとこちらを振り返って、

 ――とにかく無事で何よりだ。その者にしっかりとお礼をするようにな。彼は命の恩人なのだから。

 エリオール老の言葉を少女へ伝えながら、彼のうしろ姿を見送っていると、うなだれて小さくなっていた少女がだしぬけにぶるっと身体を震わせたかと思うと、声を呑んで泣き出したのである。

 少女がしゃくりあげるたびに、顔をおおった両手の隙間から珠のような涙がぽろぽろと零れ落ちる。

 だしぬけな少女の慟哭に俺が唖然とした。少女は普段からあまり感情を外面に出さぬゆえ、また少女の身のうえにのしかかる過酷な境涯ゆえ、俺は心のどこかで、少女はどこか感情の一部が欠損しているのではないか、と思っていたのである。

 愕然たる俺を尻目に、少女の感情の激流は甚だしくなるいっぽうであった。

 少女の絶え入るばかりの儚い嗚咽が、鬱屈した重苦しい部屋のなかを満たしていく。

 魂を絞るような少女の慟哭に、俺は胸の内を激しく掻きむしられるような、肺をおし拉がれたような、胸の痛みと妙な息苦しさに苛まれる。

 嫋やかな肩をなんども、なんども震わせ、指の間から珠のようにこぼれ落ちる少女の涙に、俺は心に走る名状しがたい鈍い痛みを抑えることができない。

 なぜ、少女の歔欷にこれほど俺の心はかき乱されるのだろうか。なにが俺の胸をざわつかせるのだろう。

 おもえばどうして俺はこの娘に入れ込んでいるのか。

 これまでの旅路のなかでも、こうした憐れな女や子供にはいくども対面したことはある。けれど、彼らの涙ぐましい境遇に同情こそすれ、思い入れるようなことはなかったのだ。

 流浪の身である俺としては、いちいちそのようなことで骨を折っていては身が持たないし、なるべく直視しないように努めていた。旅のなかで出会ったものはあくまで過ぎ去る景色と同じようなものであり、それはさながら時間が流れる摂理に等しいものなのだ。過行く風景に心を傾ける事はあれど、その風景に身を置くようなことは決してないし、流れ者として、あってはならないのである。畢竟、風景はたんなる風景にすぎないのだ。

 にもかかわらず、この少女に対してはどうにもそういう気にはなれなかった。どうにかして親身になってやりたい、助けになってやりたい。心の奥底から湧然たる抗いようのない欲求が俺を突き動かすのだった。この抗いがたい得も言われぬ欲求の正体が一体何なのかは俺にはわからなかった。

 それはさておき、どうにかして少女を慰めてやらねばならないのだろうが、例によって俺はにめっぽう弱く、その周章狼狽っぷりときたらかなりひどかったのだが、俺の面目を立てるためにも、しいて言葉を尽くすまい。

 そうしてあたふたしているうちに、少女の感情の奔流もやがて収まってきたのか、泣きじゃくりの声もしだいに弱くなってきた。俺はなんだか肩の荷が下りたような気がしてほっと息を吐くと、少女がぽつりと、

「あんた、デリカシーって知らないの?」

 少女は蚊の鳴くような声でこぼして、顔をさっとあげた。両眼は泣きはらして赤くなっているが、涙はもう止まっている。

「え?」

 俺はよくわからず訊きかえすと、少女は呆れたように首をすくめて、

「まあ、あんたにそれを求めるなんて贅沢ってもんか」

 と詰ると、それにしても、と少女は言葉を継いで、

[……あんた、魔族の言葉がわかるんだね」

「ああ、どうやらそうらしいな。どうせなら犬や猫とも話してみたいんだがな」

 少女は俺の軽口には取り合わず、傍らに置いたコップに手を付けると、何回か口をつけた。俺も特にそれを気に留めず、

「それで、ここには仇がいないって話だが、本当だと思うか?」

 と、少女へ訊ねた。少女は、わからない、と一言だけ答えると、またコップをすすった。

「……探してみるか? もしかしたら見つかるかもしれない」

「無駄だと思うよ」

 少女は言下に打ち消した。

「嘘は言ってないよ、あの人。ここには、私の仇はもういないんだろう。そして、多分もうどこにもいない」

「なんでそんなことが言い切れるんだ。あの人はお前の仇のことなんて知らないだろ? でまかせかもしれない」

「あの人がでまかせをいうような人に見える?」

 俺は少女の問いに答えず押し黙った。俺としても、でまかせでないほうがいいと思ったことは否定しない。

 少なからず世話になった者たちのなかから仇を引っ張り出して殺すなぞ、どうにも目覚めが悪いし、恩をあだで返すようなものである。このまま後腐れなく立ち去れるならそれに越したことはないのだ。

 俺はそこで仇の話題を切り上げ、

「それはそうと、お前、あのアレンとどういう繋がりを持っていたんだ」

「どういうって?」

「だって、お前の合図であいつらが出てきただろう? お前、やつらと何を示し合っていた」

「ああ」

 少女は思い出したように声をあげ、俺の顔をじっと見つめ、

「あんただよ」

 と、ひとこと呟いた。

「俺? 俺って、どういうことだ」

「だから、最初からあんたを狙ってたんだよ。あいつら」

「はあ?」

 俺がぎょっとして頓狂な声をあげると、少女は憮然とした色をうかべて、

「カイツ商会のやつらは、あんたのその剣が欲しかったんだよ。理由はいうまでもなく魔力兵器開発のため。だから、ああして誘い込んで殺そうとしたんだ。普通にあの場であんたを殺しても良かったみたいだけど、何人死人が出るかわからないし、そもそも殺せないかもしれないとふんだあのクソ親父は、私に話を持ち掛けてきたってわけ。本当に卑怯な男。まあ、今頃は冷や汗だらだらだろうけれどね」

 少女の最後の一句には、どこかふくむところのある皮肉めいた響きがあった。

「じゃあ、お前は俺を助けようとしてくれたのか?」

「違う……けど結果は違わないか」

 少女は低い声で呟くように答えた。

「はあ。だが感心しないな。あのカイツの奴らはともかくとして、あのイルとミーネたちが危ないじゃないか。俺が助けなかったら間違いなく死んでいたんだぞ、それにお前もな」

「あの子たちに関しては、防護魔法を掛けてあったからあんたがどうこうしなくても死んでなかったよ。でなかったら、あの子たちも無傷じゃすまないよ。まあ、あの人らもうすうす気づいていたみたいだけれどね」

 少女曰く、ミーネには姿くらましの時に後ろから、イルは頬を張った時に魔法を掛けていたらしい。抜け目のないものである。

 だが俺はまだ胃の腑に落ちぬことがあった。それは少女の一貫した不可解な行動にある。

 なぜ、わざわざ危険を冒してまで封印を解いて魔力の流れを乱したのだろう。カイツの奴らを一掃するためにしても、あまりに危険すぎると思われる。エリオール老の談では、少女はその危険に気がついていたようであるし、この一手はとても有効であるとは思えない。それで自分が死んでしまっては元も子もないのだ。

 仮に、この魔族の集落を壊滅させるためだとしても、あの子供二人に手の込んだ防護魔法を掛けておく意味が分からない。魔族の集落に徹底的な破壊をもたらそうというのなら、ことさら子供を守る必要はない。しかし、これについては良心が痛んだと言われればそれまでではあるが。

 すると、少女もまた俺の命を狙っていた? そうならば、わざわざカイツの奴らを一掃する意味はまるでなく、一緒になって俺に躍りかかって殺せばよかったはずである。

 なんども去来する、雲のような掴みどころのない疑念について、俺はしばらく思案にふけっていたが、次の少女の言葉によって、風に吹かれる雲のごとく俺の脳裏から忽然とちぎれ消えてしまった。

「ひとつ、聞きたいことがあるのだけれど」

「なんだ?」

「あんた、あの時、どうやってあんな魔力の奔流を止めたの? 普通の人間にはまず無理だと思うんだけれど」

「あれは……実は俺でもわからないんだ。無我夢中だった、どうにかしないとって頭がいっぱいで、そう思って剣を抜いたら、こう……いままでにないぐらいの力が溢れてくるようで……まあ、火事場の馬鹿力って奴かな?」

「火事場の馬鹿力って、そんな簡単なものじゃないよ。普通の、というよりほとんどの者は、魔力に対して無力なんだ。魔力が生み出した物質を破壊ないし干渉できるのは同じ魔力で形成されている物だけだから。それはその剣とて同じこと。たしかにその剣はすごい能力を持っている、とはいえ、あのような膨大な魔力の暴走を抑えきるなんてできっこない」

「……何が言いたい?」

 すると、ふいに少女がこちらへ身体をねじむけ、俺の鼻先までぐいと顔を寄せ、

「あんた、記憶が戻ったでしょ?」

 と、低い声でささやいた。

 俺は愕然として目を見張って、

「お前、どうしてそれを?」

「やっぱり」

 少女は、そのまま居住まいをただすと、まともから俺の顔を捉えた。

 怒りとも興奮ともつかない、異様な光がほとばしった紅い双眸に釘付けにされた俺は、その眼から逃れようにも、その眼に吸い寄せられんばかりで、視線をいっさい逸らすことができなくなった。

「あんたが剣を抜いた刹那に見せたあのまばゆい光、あれは……みんなが口々に噂する、勇者の閃光そのものだった」

「ちょっとまってくれ! なんでそうなる? たしかに記憶はまだおぼろげではあるが戻ってきている。けれど、俺は勇者なんかじゃない。記憶のなかじゃ俺はただの冒険者だったんだぜ? それがなんだって勇者に……」

「でも、あんなことが出来るのは勇者を抜いて他にはいない。勇者の振るう剣は魔族の魔法をも切り裂く、そんなふうに言われている。あんたのそれがそうでないなら、いったいなんだというの?」

 俺は少女の問いに対して、反証できるほどの材料を持ち合わせていなかった。それどころか、なんだか本当に自分がそうなのではないか、とさえ思えてくる。が、それを頑なに認めたくない自分もいるのはなぜだろう。普通であれば勇者かもしれないという状況はだれもがうらやむことであり、嬉々とするはずのものであるが、どうしてか俺は勇者という肩書きに恐れすら感じるのである。

「本当にわからないんだ。でも、俺が何者なのか、というのはまだはっきりとしないんだ。あの時だって、本当に咄嗟なことだったんだ。うそじゃない。でも、確かに、俺の脳裏に同じようなことをした光景がよぎった……ただ、それがお前の言う勇者の閃光とやらかどうかは、わからない」

「そう」

 少女はなにかしら物暗き思いに眼を沈め、考え込むように少し顔を伏せた。

 今まで出来る限り眼をそむけてきたが、白状すると、俺が勇者であると思われる節はこれまでにも多々あった。

 気が付いた頃からずっと手元にあった奇妙な剣が、みなが口にするところの勇者の剣に酷似していること、どこかで見たことのある顔だとたびたび指摘されること、このことが否定しさることのできない疑念となって、俺のうえにずっと胡坐をかいていたのだった。

 けれど俺はそれを頑なに認めようとしなかった。先ほど述べた怖れというのも一つの理由であるが、もう一つの理由として、勇者が残していったものが、なにも勝利の味だけではないからである。

 いや、その勝利の味すら美酒がみせる一夜の夢に等しく、ただのかりそめの栄光たる微醺に陶酔するあわれなものなのだ。そういった快楽のあとにつきまとうのは、頭のなかをひどく苛み、身体をむしばむ現実という名の二日酔いばかり。

 世にはびこる勇者の伝説とは、一部の利己的な者たちが都合よく作り上げた虚像であり、一種のプロパガンダにすぎない。そのようなかりそめの肩書きに何の魅力もないし、なりたいとも思わない。

 しかし、あの危機的な状況で脳裏をよぎった、というより唐突に思い出せるようになった、さまざま記憶の断片のなかには、勇者が訪れたとされる土地の記憶もおおく含まれていた。こうなるといくら拒んだところで、胡坐をかいていた疑念もいよいよ信憑性を帯びてきて、頑として動かぬものとなってくる。それがいっそう俺の心を冷え冷えとさせた。

 俺が勇者? 馬鹿馬鹿しい。誰があんなものになるものか。

「ところでどんなことを思い出したの?」

 少女はさっと顔をもたげて訊ねてきた。

「まだところどころ抜け落ちているから、はっきりとしたことはわからないけれど、各地を旅している光景ばかりだな。名前はわからないがどこかの街だったり、どこかの山道だったり、平原だったり……」

「それは一人で?」

「一人……だったか。いや、違うな。誰かがいたような……気がする。もう一人、誰かがいた」

「勇者にはもう一人、お供がついていたって話を聞いたことがある。もしかして、その人とか」

「だから俺がそうと決まったわけじゃないだろう」

 俺がそう答えると、

「でもほかに考えられない。それに、勇者が疾走したのは終戦直後である十年前。あんたが記憶を失くした時期と一致している。魔王を討ったとされる勇者は特別な剣を使うとも言われていたし」

 と、すかさず少女はねつい調子で、俺の意見に反駁を加える。

「特別な剣だなんて、今更珍しいものでもないだろう。今だって色んな能力のついた剣があるだろう」

「あれは魔力兵器開発の副産物だ。魔力兵器開発が行われる以前には、世に普及していない。それにあんたのそれは、そういった人工的に作られた類のものとは明らかに一線を画するほどの能力を有している」

「そんなの、たまたまだろう」

「偶然だっていいたいの? そんな偶然ある?」

 少女が物々しい剣幕で身を乗り出し、また俺の鼻先までぐっと詰めよってくる。どうかすると長い睫毛が鼻に触れてしまうのではないかと思われた。はらりとなびいた少女の前髪から、土の蒸した渓谷の匂いと、少女の甘い香りとが混じった、なんとも言えない匂いがただよってきて、俺の鼻腔をいたずらにくすぐった。

 俺はなぜか後ろめたいような心地になって、なんとなく少女から顔をそむけた。

「どうしてそんなに噛みつくんだ。俺が勇者でないと何か困るっていうのか?」

「え?」

 少女の瞳が一瞬、異様な光がほのめいて震える。瞳の底に、なにかしら妙な危うい熱っぽさが秘められている気がした。が、少女はすぐに気を取りもどして、

「あんたが勇者ならドル箱にでもしてやろうと思ってね」

 と憎らしい微笑を唇にうかべた。

 あきれた俺は嘆息ためいきをついて、少女の言葉を黙殺すると、

「それで、これからどうするつもりだ?」

「なにが?」

「何がって、お前の仇についてだ。あの老人がいうに、お前の仇はもうどこにもいないって言ってたろう。嘘か本当かはわからないけどな」

「仇……」

 少女は口のうちで、反芻するように繰りかえした。

「にしても、あの老人はなんだってお前の仇の正体を知っていたんだろう……。お前、あの老人とどこかで会ったことは?」

「……さあ」

 少女の眼にさっと暗い影がおちる。その眼は茫然としてこちらに向けられているが、俺の姿をとらえることはなく、はるか先の方を見ているようだった。が、少女はすぐに我に返ると、

「魔族と会うなんてそうそうないからね。それに会ったところで会話なんてできないし」

「そうだよな」

「でも、もしかしたらあの人がそういう才覚を持っているのかもよ。見た者の正体や情報を知る、みたいな」

「そんなばかなことがあるものか」

 俺はそういって一笑に付したものの、老人のあの研ぎ澄まされた鋭い眼をふと思い出し、あながち、あり得ぬ話ではないかもしれぬと心の底で思った。相手の言葉の意味を理解することのできる才覚があるぐらいなのだから、そういった類の才覚があっても格別変というわけではあるまい。けれど、仮にそういう才覚があったとして、その才覚をもって見られていたのだとしたら、やはり気持ちの良いものではない。いうならば、口から手を突っ込まれて、腹の底を漁られるようなものだ。

 俺がくだらぬ空想にふけっていると、

「あんたはこれからどうするつもり? まだあてもなく流れるの?」

 少女が訊ねてきた。

「あてもなくって、一応手がかりの地図らしいものを見て各地を巡ってたんだがな。まあ、今まで収穫はなかったが……。けど、今回はそうでもなかったし、この記憶の断片をあてに旅を続けるよ」

「そう」

「お前は?」

「私は、今まで通りだよ。仇を討つまでは、もう止まれないから」

「結局あの老人のいうことは信じないのな」

「ううん、信じてないわけじゃない。ただ、それが真実だとしても私は納得できない」

 少女の瞳が、にわかに残忍なかがやきをおびてくる。

「私のすべてを奪った奴が息をしているなんて許せない。厳しいけど優しくて、どんなに忙しくとも私に寄り添ってくれて、ただひたむきに愛情を注いでくれた私の父を、殺したやつが」

 少女の瞳にまたたく残忍な光がいよいよ激しさを増していく。ぎらぎらと脂の浮いたような鋭い光のなかに、瞋恚の炎がさっと燃え上がっている。服の端をもみくちゃに爪繰っている少女の手が、憤りで震えている。俺はなにか冷たいものを胸の奥に押し当てられたような、ゾクリとしたものを覚えた。それと同時に、少女をおおう暗澹たる救いがたい残酷な悲運に、いくらか心を打たれた。

 この年頃の子供、とりわけ、平素感情を表に出さぬ少女をして、かくも怒りを露にするほど憎ましめるほど、少女にとってその出来事は、よほど堪えがたい仕打ちだったらしい。

「だから私はもう止められないの。つるから離れた矢は戻らないように、転がり出した岩がとまれないように、私もただ行きつく先まで進むだけ。そのあとのことなんか知らない」

 少女の声は怒りと憎しみにふるえている。俺はここで何も言葉を掛けないのも、なんだか薄情な気がしてならなかったが、かといって下手な慰めなど却って火を注ぐだけなので、どうにも閉口せざるをえなかった。

 一瞬間、嫌な沈黙が落ちてきたが、先ほどの言葉をつぐかたちで、少女が沈黙を破った。

「だから、私もあんたの旅に同行する。文句はないよね?」

「……ああ」

 答えなどあってないようなものであった。あのような身のうえの悲運に翻弄される姿を披露されて、断れぬはずがない。

「ところで、あんた。記憶が少し戻ったんでしょう? 次のあてはあるの? あるのなら早く行こう? あんまりここへ逗留してはお互いに居心地悪いでしょう。さっさと立ち退いた方がいい」

「あるにはある……がもう少し休んだ方がいい。お前の傷も浅くなかったんだ。いくらどうにかなったとはいえ、いくらかは安静にしていたほうがいいだろう」

「私はもう平気だよ。それに傷口が開いても私は自分で治せるし。それで、次のあてっていうのはどこなの?」

「ああ、そのことなんだが……この山を越えて北へむかったところにシンという大きな街があるんだ。そこへ向かおうと思う」

「シン? あんな辺鄙なところに何があるの?」

「ほら、前に話したろ? あの森で見た幻のこと。あれからというもの、よくあの女性の夢を見るようになったんだけど……それが誰なのか。やっと思い出したんだよ」

 俺はどうしてだか感じる、言いようのない不安をおぼえながらも、心を決めて口を開いた。

「あの女性はステラという、俺が冒険していた時の……たぶん相棒だった人だ。その彼女と一緒にいた場所で唯一今記憶にあるのがシンなんだよ。だから、俺はここへ行って自分の記憶と向き合いたい、自分を取り戻したいんだ。今まではただ何かに駆られるようにさまよっていたが、今は、俺が何者だったのか知りたくて仕方がないんだよ。魔族の言葉を聴くことのできる俺が、あの戦争で何をしていたのか、なんのために冒険していたのか、そして、あの女性――ステラとどうしてはぐれてしまったのか」

 少女はちょっと驚いたように俺を見つめていたが、やがてがくっとうなだれると、早く記憶が戻るといいね、とつぶやいた。

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