第十一章 あの時何が起こったか

 あれからどれほど時間が経っただろう。

 いまだ五体満足で歩いていられるというのが、まるで奇跡のようだ。

 翳したカンテラで闇を引き裂いて歩く老人の背中を眺めながら、そのようなことを考えていた。

 俺の背中でぐったりしている少女の絶え入りそうなか細い息遣いの合間に、石筍から垂れた雫が地下水を打つ音が静かにひびきわたる。カンテラの灯りがなければ、夜目利きの才を持ってしても、全く何も見えぬほどのきめの細かい暗闇である。

 天井もやけに低く、身をかがめねばうっかり頭を打ってしまう。老人は洞窟になれているのか、すいすいと滑るように歩いているが、少女を背負うている俺はそういうわけにはいかず、背の少女にも気を払いながら、ゆっくりと足元に注意してすすんでいく。

 地下水脈を流れるこの洞窟は、前に野営した洞穴とは違ってかなりの暑さで、流れる水脈も相まってひどい湿気が充満していた。

 老人曰く、以前はこれほど蒸し暑くなかったらしいのだが、魔力泉(少女がいうところの魔力の吹き溜まりのことであろう)の影響で、どうもマスロープツ山の火山活動が盛んになってしまったためにであるという。実際はもっと丁寧に仔細を語ってくれたわけなのだが、あまり専門的かつ魔族しか知らぬような用語が、ふんだんに盛り込まれていたため、かいつまんだところを理解するのが俺の精いっぱいだった。

 奥へ進むにつれて、湿気と熱気はますます濃くなっていき、しまいには口や鼻を厚手の布で覆われているようなひどい息苦しさまで覚ゆるに至った。

 汗と石筍から滴り落ちる水滴で、髪やら首、肩にかけてぐっしょりと濡れる。後ろでうずくまる少女の発する熱が、服から浸透してじりじりと俺の背中を焦がすように焼きつける。この少女の温もりがまだ彼女の息がある証拠であり、それが現状、心細く、寄る辺ない俺の心の唯一の支えであった。普段は少々うっとおしく感ぜられることもあった小生意気な少女であったが、この時ばかりはあの憎らしさがひどく恋しく思えた。

 たまにつらら石からの雨粒が少女の身体を叩くことがあると、少女はぶるっと身体を震わせて絶え絶えの息のなかで、うぅと低く呻く。その身を絞るがごとき少女の呻きの音を聞くと、俺の索漠とした荒涼たる心持ちに、いっそう侘びしさが募り、胸中にまるで粛殺たる木枯らしが吹くような感じだった。

 また、この息の詰まる暗がりの行脚も俺の頼りない心を削っていくようで、かつ少女への不安と心配に、まるで鬱々とした思いが黒い滓となって胸の底によどんで凝り固まり、肺を押し拉がれるような気分になる。

 そしてそれが更なる後悔や懸念をもたらし、いっそう俺の気を揉むのだった。いったい何が少女を追い込み、あのような自殺同然の行為に走らせてしまったのか。もう少し彼女に添えていたらこのようなことにはならなかったのではないか。

 こういう考えが脳裏を暗雲のごとく去来しては、たびたび腹の底を掻きむしるような罪悪感に駆られてしまう。

「おじいさん、まだつかないのですか?」

 堂々巡りする後悔と焦燥をごまかすように、奇妙な老人の背を声でつついた。

 ――もう少しだ。心配するな、暗がりに誘い込んで食ってやろうなんて思っていないさ。

 耳の長い老人は、耳先を愉快そうにうごかして笑った。老人はどこか気遣わしげな声であった。

 俺の声色に感づいての発言なのだろうが、いかんせん、慰めが的はずれなせいで、なんだかちょっとむっと来た。老人は俺のそういう機微には意を介さずに続ける。

 ――なにせお主はあの二人を救ってくれたのだからな。

 二人というのは言うに及ばず、あの子供たちである。

 子供たちと少女の三人はなんとか助けることはできたが、あの激しい鉄砲水で多くの人が濁流に攫われてしまった。助けた三人のうちの少女も、助けるのが遅れてしまったために、無傷というわけにはいかず、深手を負ってしまう。

 女の子――ミーネの懸命な治療魔法によってどうにか少女は一命は取り留めたものの、ミーネの魔力では命をつなぐのがやっとで、一切の予断を許さぬ危険な状態には変わりなかった。このまま放っておけば、いずれ少女の命も潰えかねない。また、鉄砲水に巻き込まれたアレン氏の取り巻き達の中にもまだ息がある者がいたらしく、彼らを救助するため、男の子――イルとミーネは魔族のみんなに知らせてくる、と先駆けて帰っていったというのが、これまでのだいたいの顛末である。

 ――お主がいなかったらあの子たちは死んでいた。本当に感謝している。

 耳の長い老人はちらりとこちらを向いて、深々と頭をさげた。

 この老人はこれまでの道中でしきりに孫が孫がと口にしていたことから、どうもイルとミルの祖父であることに違いないのだが、それ以外の素性は一切定かではなかった。しかし、老人がもしあの場に来なければ、少女は死んでいたわけであるから、素性はどうあれ彼には大いに感謝している。

 老人が阿鼻叫喚たるあの現場に姿を現したというのも、元は集落を飛び出した二人を引っ張り戻すためであるらしかったが、そこへゆくりなくも帰路につく途中のイルとミーネに出くわし、事のあらましを聞きつけて俺たちのもとへ馳せ参じたわけである。

「いや、それはこちらも同じですよ。あなたやあなたのお孫さんがこの娘を治療してくれなかったら、今頃死んでいたでしょう」

 ――なに、それぐらいはお安い御用だ。しかし面目ない。私は治療魔法が得意ではない故、その娘を完治させられなかった。

「そんなことを言わないでください。治療いただけただけでも十分ですから。あなた方は命の恩人ですよ」

 ――それをいうなら、先に救ってくれたのはお主だ。だからこれはお互い様だ。あまり気になさるな。それよりその娘のことだが。……

 老人はぴたりと立ち止まってこちらを振り返って、俺と少女を見た。

 俺が驚きのあまり思わずぎくりと肩を浮かせたのは、老人の眼の奥には、およそ老獪とは思えぬほどの鋭い光がカンテラの灯りに揺れてまたたいていたからである。

 ――いや、すまない。今はよそう。

 老人はゆっくりとした動きで前を向くと再び歩きだした。ゆらりゆらりと暗闇をただようカンテラの灯りにつられ、俺も歩きだした。老人はこうして、ときおりあの眼を見せることがある。

 動きこそ緩慢な老人だが、彼の持つ金の双眸にはどこか世を悟った超越的なものが感ぜられる。それは長きにわたる老人の人生を介して、さまざまなものを見通した経験や自身からくるものであろう。

 最初に出会った時も、俺はあの不思議な輝きをおびた老人のあの眼を見た。

 老練な澄んだ眼は、心を見透かすように俺たちのことをじっと見つめていたのだ。その眼に不快感は一切なく、むしろ、まるで濁りのない澄み切った清水に落ちる満月のように、清廉で、美しいとさえ思える。俺は見知らぬ老人にたいして警戒するのも忘れて、彼の瞳に吸い込まれんばかりに見入っていた。

 その研ぎ澄まされた刃のような眼光を前にして、かすかでも戦慄を覚えぬ者はいないだろう。しかし、それは恐怖からくるものではなく、どこか神聖なものを眼の当たりにするような一種畏怖に似た感情に近かった。

 そういう謹厳な彼の眼は、この騒動がこの少女に端を発していることをすでに見抜いているだろう。(あるいは、イルたちからすでに何かを聞いてのことかもしれない。)

 あの時、少女があの場で詠唱した奇妙な呪文は、大地を震わし、空を轟かせ、渓流を引き裂いた。彼女の合図で突如現れたアレン氏一行も、このことについては聞き及んでいなかったと見えて、大いに周章狼狽していた。彼らにしてからがあのざまなのだ、何も知らない俺なぞは、理解も間に合わずただ茫然と突っ立っているしかできなかったのである。

 しだいにひどくなる大地の揺れにミーネが青い顔で悲鳴を上げ、イルはとっさに彼女をかばおうと上から覆いかぶさった。

 折りしも、少女の背から怒り狂った大蛇のような巨大な鉄砲水が、谷の岩や木を食い散らしながら襲い掛かってきたからもう堪らない。誰もかれも、まるで荒波に揉まれ、右往左往と転覆寸前の小船の舳先にしがみつく遭難者のように、慌てふためいてひどく取り乱し、人を突き飛ばして逃げようとする者や、腰が抜けてその場にへたり込む者、果ては喚き散らして暴れる輩まで現れる始末であった。

 ああ、俺は生涯あの瞬間を忘れることはないだろう。ドス黒い大量の濁水が轟然たる音を立てながら、獲物へ素早く這いよる蛇みたく、渓流をぬって迫ってくる恐ろしいさま、みなの千切れるような悲鳴、そして、何よりその時見せたあの少女の表情。……

 少女の見せたあの表情は一体何を意味するのだろう。

 誰もが黒い水蛇に釘付けになっているさなか、少女の顔だけは間違いなく俺に向けられていた。少女は微動だにせず、俺の顔を直視していたのだ。しかし、俺はとうとうこのことについて、少女の口からそれを聞くことは叶わなかった。

 つらつらと俺が回想にふけっているところへ、老人がふいに声を掛けてきた。

 ――ときにお主。

「はい、なにか?」

 思いがけない声掛けに、俺はつい夢から醒めたような声で答えた。

 ――会った時から不思議に思っていたが、お主には我々の言葉がなぜわかる?

「さあ、それは俺にもさっぱりで……。しかし、そういうあなたたちはなぜ俺の言葉がわかるのですか?」

 この疑問は俺のなかでも、ずっと引っかかっていたことである。

 ――それは我々の種族には生まれつき、言葉の意思を疎通する才覚が備わっているからだ。我々は常に自然と隣り合わせにある都合上、そうならざるを得なかった。そうでなければたちまち自然に食い殺されてしまうだろうからね。だから我々は言葉は通じずとも、相手の伝えんとする言葉の意味を理解できる。お主の言葉が我々にわかるのもそういうことだ。だが、これはあくまで一方的に理解できるだけで、こちらからなにかを伝えられるわけではないがな。

「はあ。疎通の才ですか」

 ――ひょっとすると、お主も我々と同じように才を持っているのかもしれんな。今の人間もまれに持って生まれると聞くから。きっとそうに違いない。

「しかし俺は特に自然と隣り合わせで生きてきたわけではないですし」

 ――いいや、それは違う。どんなものも自然と寄り添わねば生きていけないのだよ。そこに人間も我々も垣根はない。だが、人間は少し自然から目を背けすぎたのだ。我々は風や川と共にながれ、森の声に耳を傾けて、世界をめぐる魔力の輪廻を正して生きている。それは大空をさすらう雨風が岩を削って山を作るように、または、山を流れる川が草や木に命を吹き込むように、そして生まれた命が、別の命を育んでいくのと同じように。我々は自然と調和し寄り添い、ともに歩んでいる。だが、なにも我々だけがそうしているわけではない。これは人間だって同じことなはずだ。たしかに人間は我々ほど魔力の扱いにたけているわけではなく、世界に滞っている魔力の流れを正せるわけではない。しかし、人間は我々以上に自然との共存に適した一族ともいえる。現にここ千年の間でめざましい進歩を遂げているのだから。でも、その文明の発展に驕って、自然を蔑ろにしてしまっているともいえる。人間は自然と一緒に歩んでいることをすでに忘れてしまっているのだろうな。お主たちが日ごろ口にしているものはなにからできている? 喉の渇きを潤しているものはいったいなんだ? 冷たい夜から夢が覚めぬように身を包んで守ってくれているものは、どこから作られている? わかるだろう? 自然と隣り合わせでないものなどこの世にはいない。お主もそれをこころのどこかで理解しているからこそ、我々の声が聞けるのではないか?

「確かにそうかもしれませんが、俺は森の声なんてひとつも聞いたことがありませんよ」

 ――それはお主が自然に心を許していないからだ。山や森も、河や風も、花も草も、心を開けば、彼らのささやきを耳にすることはできるさ。かといって彼らの声に、安易に耳を貸してはいけないよ。彼らは恐ろしいからね。

 老人はくるりとこちらへ振り向いて、やさしい笑みをうかべる。

 ――なんにせよ、これもまたなのかもな。

?」

 老人の言葉がふいにこぼした言葉を聞きとがめた俺は、おもわず訊きかえした。

 ――そうだとも。敵対しているはずの種族同士がこうして一緒に歩き、本来叶わぬはずの意思疎通を楽しんでいる。これがめぐりあわせとよばずして、なんと呼ぼう。それにその背に背負っている大切なお嬢さんだってそうだろう?

 カンテラの灯りに浮かび上がった老人の横顔に、ふと寂しげな影が差したように見えた。それは彼の皺の影が動いてそう見えたのか、それとも俺の心にわだかまっている憂いが見せたものなのかはわからない。

「巡り合わせですか? そうかもしれませんね」

 ――ああ、いや。違うんだ。お主たちの言葉では単に偶然の出会いを意味するのだろうが、私たちの言葉ではもっと別の意味合いがある。

「はあ」

 ――ははは、お主たちにはわからんだろうが、この、めぐりあわせ、というのは、神の意志または啓示という意味合いがあるんだ。

「神の啓示……」

 ――出会いや物事はすべて神によってあらかじめさだめられたもの、我々がこうして、今、出会ってここでお主にこういう話をしているのも、全ては決められたことなんだ。だから神の意志。啓示というのもまたしかり。物事から感得されるすべての感情や思想は、すべて神がさだめしこと、我々が考え至るすべての内容はすべて神から与えられたものなんだ。つまり、お主と彼女の出会いもまた、めぐりあわせ。

 俺は神というものを信じていないが、この老人がそれを口にすると、まるで薄暗いおぼろげな水霧のなかからまばゆき日の出をみるように、後光を背負って現れ出でる、厳格な神の姿が見える気がした。

 ――しかしここまで言ってみたが、実際私は神など信じてはいない。もし、神がいたとして、全てがあらかじめ決められたことなんだとしたら、我々の一族に対する仕打ちは一体何なのかと聞いてやりたいよ。だが、お主たちの出会いは、どうにもこの我々でいう、めぐりあわせ、を感じずにはいられない。それぐらいに強い何かで惹かれ合っている気がしてならないんだ。特にこの娘にとっては、な。

 老人はまた思い悩むような表情を浮かべ、

 ――彼女が起きたら話をきいていみるといい。

 そう結んでからかすかに笑った。

 とはいってもそれは、いうは易く、なすは難しである。

 俺は少女にいろいろとききたいと強く思う反面、聞きたくないという思いにも駆られないでもなかった。その理由もわからないでもないのだ。

 少女の合図で現れたアレン氏たちは、明確な敵意を持って俺の前に立っていた。つまり、彼らは俺もろとも魔族を消そうという魂胆だったのだ。理由はもっぱら口封じと金であろう。

 アレン氏が偉そうにもったいぶった様子で、俺に語って聞かせたところによれば、カイツ商会というのは、もともと魔法兵器開発が生業の企業であり、交易などはあくまで、カイツの大親父の趣味に付帯する程度のものでしかなかったらしい。

 十年前、王都で着手された魔力兵器開発、その呼び声は民間企業にまで波及するのだが、そこでいち早く頭角を現したのが、例によって現カイツ商会――元カイツ宝石商であったのだ。彼らは難航する魔力兵器開発について世紀の大発見をすることになる。

 それまでの魔力兵器は、人間の持つ微弱な魔力を引き出すためのでしかなく、当然、微弱な魔力ではせいぜい誰かの煙草に火をつけてやる程度の火や、花に水やるをするにしても心許ない程度の水しか出せなかった。そのうえ、人によって魔力はかなり個体差があるため、誰もが扱えるという代物でもなく、とてもではないが兵器転用は不可能とされていたのだ。しかし、そこへカイツ宝石商の大発見が舞い込んでくる。

 彼の発見は、魔力は生き物のみならず、水や石などにも魔力は含まれているというものであった。ことに鉱石や宝石の類は魔力の保有率が著しく、物によっては魔族の魔力量さえ凌駕せしめるという。加えて、それらを抽出するすべまで編み出したというのだから驚きである。

それをどう発見したかという点については、アレン氏が割愛したため、結局わからずじまいだが、ともあれ彼は鉱石や宝石の類から魔力を抽出する方法論を、王都の開発局へと献上した。当初、魔力というのは生物にしか宿らないとされていたため、この発見は多大な衝撃を与えたのは言うまでもない。

 こうして魔力開発は革命的な進歩を遂げ、また、大発見をしたカイツ宝石商もその功績が讃えられ、王都公認の民間開発企業として雇われることになり、のちに民間で兵器開発が禁じられるまでの間で、兵器開発によって莫大な利益を得ている。

 カイツ商会は兵器開発で得た資産をもとに、各地域の交易を取りなすところとなり、今に至るわけであるが、やはり人間とは欲深いもので、一度味を占めてしまったが最後、その味は永遠に忘られぬものである。

 彼らは禁じられた法による利益の味をやめられず、表面上では交易を取りなすなか、水面下では魔力兵器を売り歩く闇の武器商として、兵器を各地に売りさばき、それで得た利益で更なる兵器を開発しているらしい。アレン氏がいうに、中でも一番の買い手は別大陸の国であるようで、原価からは考えられぬほどの高値で吹っ掛けても買っていくとのことである。どうも別大陸は、この国ほど鉱脈に恵まれていないらしく、自作しようにもなかなかむつかしいようだ。

 アレン氏は、手に握っている魔力武器の一つを得意げにひけらかしながら言っていた。

 そういう彼の野望を聞く前にして、あのおぞましい鉄砲水がやってきて、彼の野心ごとすべて飲み込んでしまった。今となっては彼の野心を知る由もない。

 しかし、彼が飲まれる刹那に見せたあのやるせない無念なる表情は一体どういうことなのだろう。

 どこか胸の奥が空虚になるような悲哀の念に駆られるような、未練にくもった彼のあの眼は一体どうした意味があったのか。今となっては知る由もない。

 それはさておき、こうした欲得ずくの彼らに少女が協力していたことを考えると、少女もカイツの大親父に与して計画の一端を担っていたのだろう。しかし、そうなるとなぜアレン氏たちを巻きこんだのか。まさか、これも大親父の一計か?……

 俺は老人の眼を見ながら思案にふけっていると、ふいに老人は目尻にしわを集めて、

 ――あまり気に病まれるな。その娘なら大丈夫だ。

 と、そよ風が草木を撫でるような調子の声で俺を宥める。

 絶妙な噛み合わなさに内心の苦笑を禁じえなかったが、おくびにも出さず、

「ありがとうございます」

 と、言葉少なに礼をして、再び歩きだした。

 さて、この蒸し器の中でも歩いているかのような地獄の道行きにも、ようやっとおわりが見えてきた。洞窟に隙間なく敷き詰められた暗闇の先に、桐でうがったような小さな光の孔が見えたのである。

「あれがそうですか?」

 俺は顎に垂れる汗をぬぐって訊ねると、

 ――ああ、そうだとも。もうしばらくの辛抱だ。

 と、老人はまたも、心地よく木の葉を撫でるそよ風のような調子で返した。

 しかし、ここで俺は驚きのあまり立ちすくむことになる。というのも理由はこうである。

 どうも今歩いている道というのは崖道のようになっているらしく、いつの間にか隣り合わせにあった水流は、崖の下を流れているようだ。どうやら気づかぬうちに、水脈と道とが縦二つに分かれていて俺たちは上に続く道を進んでいたようだ。そこまではいいのだが問題はそのさきである。

 歩いていた崖道はそこでぱたりと途絶えていて、かわりに岩壁伝いに狭い桟道があるのだが、それが人一人通れるかどうか怪しいほどの道幅なのである。くわえてこの異様な湿度、岩の表面はしとどに濡れていて、足元をすくわれかねない足場の悪さ。ただでさえ転びそうになっていた今までの道のりのことを考えると、このような狭い桟道を渡るのはたいへん危険であるといえる。とりわけ少女を背負っている俺にとって、これを渡るのは非常に勇気の行いであった。

 老人からカンテラを借りて崖の下の闇を照らしてのぞいても、見えてくるのは底のないよどんだ闇ばかりである。深い闇の底からはさきほどまでわきを流れていたであろう地下水脈がさらさらと洞窟を滑っていく音がする。高さは音の反響枯らして……七、八メートルほどだろうか。桟道は長さにして二十メートル。……

 俺はゾッとしてねっとりとした汗が額から吹き出し、膝頭がガクガクと鳴った。

 むろん、落ちてどうとなる高さではない。それでもこの闇のなかへ落ちていく姿を想像すると、おぞけを振るわざるを得ない。

 しかし、老人は待ってくれない。老人は俺に眼もくれず、俺の手からカンテラを抜き取ると、左手に持ち替え、岩壁に右手をつきながら、するすると桟道を渡っていく。俺も勇を振るって、桟道へと足を踏み出した。

 一歩、また一歩、足を取られぬように、じりじりと進んでいく。

 途中、なにやら小さな石に足が当たった。俺はひやりとしておもわず立ちすくんだ。足に当たった小さな石がカラカラと音を立てて落ちる。やや間があって、水面を打つ音が暗闇をふるわせた。たったそれだけでも、俺のすり減った神経に恐怖をつっぱしらせるには充分であった。

 情けないかぎりに、俺の膝頭のふるえようはいよいよ深刻で、立っているのさえままならないほどであった。かてて加えて少女がときおり身じろぎをするため、身体の平衡を保つ苦労もまたひとしおであった。

 が、ここで倒れてはどうにもならない。

 生まれたての小鹿のような足取りで、桟道をミミズのようにのたくってどれほど時間が経ったか、ようやく渡りきることができた。渡りきる頃には、俺の精神は削り果て、気息奄々たる無様なものであった。が、老人は鼻息一つ乱すことなく涼しい顔をしている。おそらく彼にとっては平地を歩くように造作もないことなのだろう。老体の身でありながらなんたる頑丈さだろう。これも自然の中に身を置いてきた賜物なのか。

 さて、ここまでくると、出口の光のおかげでカンテラの灯りがなくとも周りが見えそうである。溢れんばかりの光が眉まで迫ってくるころには、目も慣れてきたため、先の光景がはっきりと見えた。

 どうも、洞窟の先は巨大な地底湖になっているようで、空は吹き抜けになっているらしく、そのために光を強く感じられたようだ。

 吹き抜けからは蔓が無数に垂れ下がっていて、蔓の節々には色とりどりの木の実がなっており、それが日光を受けて玉すだれのようにキラキラと光っている。眼もさめるような鮮やかな青をたたえている地底湖には、真っ赤な夕陽が朱をたらしたように、まんべんにそそがれてる。

 ときどき何かが水面を乱すと、湖面はみごとな細かい縮緬皺を作り、湖面に落ちる陽の光は、縮緬皺のすき間を滑るように光を煌めかせながら楽しそうに舞っている。その光はさながら天界から注ぐ清廉なる光のようで、光に手を伸ばすと天へと続くはしごに手を掛けるような深い安堵を覚えるのだった。

 やがて、暗い洞窟を抜けて地底湖にたどり着いた俺は、豁然ひらけた景色に息をのんだ。遠目ではあまりわからなかったが、この地底湖のある空間はかなり広い。だいたいシュタットで見た、あのイノシシ面の親父が踏ん反りかえっている根城ぐらいはあるだろうか。そういう広大な空間の中央をぽっかりとくりぬく形で地底湖が鎮座していた。そして、その地底湖を囲うようにして、たくさんの魔族たちがせっせと生活しているのが見渡せた。 

 木や藁、石などを寄せ集めたような建屋呼ぶには少し躊躇するような安普請な小屋が点々としており、ちょっとした村落のようになっている。地底湖の汀にはなにやら大きな盆を取り囲んで、懸命に服を洗濯板でこすっている者や、水汲みをする老婆や、きゃっきゃと水浴びをする子供たちの姿などが見える。

 これらの生活の様式を見るに、文明に差はあれど、俺たち人間の生活とまったく大差がないようである。これで口を利かずに耳を隠していたなら、ほとんどの者は彼らを魔族と思うまい。せいぜいただの少数派な遊牧民程度にしか捉えないだろう。

 ――エリオール様!

 汀にいた誰かが声高に叫ぶと、皆が一斉に弾かれたようにこちらを見た。これを皮切りに、またたく間に鬨の声をあげるがごとく歓喜と安堵にみちた声が、老人へどっと押し寄せる。

 しかし、感極まる歓声が溢れるなか、ふいに誰かが叫んだ、

 ――なぜここに人間がいる!?

 という声のもとに、たちまち場が静まり返った。

 さきほどの和やかな雰囲気から一転して、恐怖と緊張とが混じった異様な張りつめた空気が漲りわたる。

 信じられないといった驚愕な顔ぶれのなかには、憎悪に表情を曇らせる人や、敵意と警戒心を隠そうともせずむき出しにする人もある。予期せぬ来訪者への反応はみなさまざまであったが、はたして誰一人として快い感情を抱いている者はおらず、一貫した強い敵愾心がひしひしと感得されたのである。

 これほどまでの憎悪と嫌悪を向けられたことがない俺は、口の中がカラカラに乾き、胸の中の空気が急激に圧縮されたかのような胸の苦しさを覚えた。

 そこへ十重二十重の垣根を押しのけてやってきたのが、イルとミーネである。

 イルは俺の前に立つとばっと翻って、

 ――まって! この人だよ! 俺たちを助けてくれたのは!

 と、皆の前で叫んだ。同族であるとはいえ、これほど敵愾心をむき出しにした皆の前で叫ぶことはとても勇気がいることである。ことに彼はまだ子供なのだ。今にも泣きだしそうな引き攣った顔をしながら皆に対して弁明をする彼の姿に、思わず心を打たれずにはいられなかった。

 しかし、周りの者たちは、子供であるイルの声に耳を貸そうとはせず、やいのやいのと俺へ向けて口汚く野次を飛ばした。

 ――本当なんだ! 信じてよ……この人がいなかったら俺たちは今頃あの鉄砲水に呑まれて死んでたんだ。

 イルは群像の罵声が飛び交うなかで懸命に食い下がった。ミーネのイルの後ろで、イルの服の裾をぐっと握って大きくうなずいている。弁するイルの勢いがあまり必死だったため、いくらかの人は思うところがあったらしく、しぶしぶ引き下がったが、気性の荒い者の勢いは止まらなかった。

 ――私からも保証しよう。彼が私の孫たちを救ってくれた恩人だ。皆の、人間に対する想いは理解しているし、決して許されざるものだ。だが、恩にはどういう者であれ必ず報いる必要がある。これは同時に、我々誇り高い民族が人間よりもはるかに気高く優れていることの証明でもある。

 それでも、老人がイルの言葉を引き取ると、あれだけ執拗な野次の雨もぴたりと止んだのである。この魔族の集落における老人の影響力の強さが如何なものかがうかがい知れる。

 そのあと、イルたち二人とに二、三言交わして別れた俺は、老人に連れられるまま、数ある小屋のうちの一つに案内された。

 小屋の中は非常に質素で、藁の敷きつめられた床にござが一つ、足の高さが合っていないテーブルが部屋の中央に置かれている以外には何もなかった。老人はござの方へ俺を促すと、少し待っていろ、と告げて小屋を出て行った。俺はござへ少女を寝かせ、そのそばにと腰を下ろした。

 しばらくすると、老人は髪のやけに長い魔族の女性を一人連れてきて、

 ――すまんが、この者を治してやってくれんか。私も手を施したが、いかんせん治療魔法は疎くてな。

 ――はあ。しかし。……

 老人に治療を乞われた魔族の女性は、露骨に険しい表情を浮かべて、俺と老人とを見比べていたが、結局、不承不承ながら治療を引き受けてくれた。女性は手早く治療を済ませると、ぺこりと老人に頭を下げ、足早に小屋を去る。去りしなに女性はちらりと俺に一瞥をくれたのだが、その色は黒々とした憎しみや嫌悪に曇っていた。

 魔族が人間へ抱く悪感情はかなり深刻であろうことが見て取れた。

 ――すまない。なにぶん人間に対してみな警戒心が強くてな。私とてお主がこのような扱いを受けることはまったく本意ではないが、どうかわかってほしい。

「大丈夫です。あんな戦争の跡ですから当然といえば当然です。それに一度、この地を追われているわけですから尚更でしょう。恨みを買うには十分すぎるほどです」

 ――ああ、そうとも。我々が人間から受けた傷は、未来永劫、消えることはないだろうな。ことに永寿たる我々にとって、この禍根は相当根深いものになるだろうな。

「永寿?」

 ――そうか。人間はもう魔族のそれも知らないのか。……お主たち人間は生きれても精々六十やらが限界だろうが、我々は千や二千は生きられる長寿の一族なんだ。それもこの世の魔力を末永く護っていくためのものだと言われている。

 老人の口から聞かされた突飛な内容に、俺は理解にひどく窮した。

 長寿の一族であるということは、ここにいるものが大半人間よりはるかに生きてきたものということになるのだろうか。あの水浴びをしていた子供たちも、先ほど治療を施してくれた女性も、そして、この目の前にいる老人も。……

「では、あなたはいまどのくらい生きているのですか?」

 おそるおそる切り出した問いに、老人は少し笑ってから、

 ――そうさな、もう三千年ほどになろうか。とはいっても、もうかなり耄碌してしまって昔のことはまったく思い出せんがな。

「三千年……」

 三千年といわれても、あまりにスケールが違いすぎていまいち判然としない。エミル歴が現在、たしか一一三二年なので、少なくともこの歴(エミル歴の起源は、当初における現人神エミール・ニムロッドの誕生した年であると言い伝えられている)が出来る二千年ほど前から生きていることになる。そうなると、彼はもはや神話上の人物といえる。なぜといって、言い伝えでは現人神エミール・ニムロッドの誕生以前、この世界は神々の箱庭であったとされているからだ。

 この世界に楽園を築いていた神々は、歓楽のかぎりを尽くし、この世界の資源を食らいつくす。それが祟ってやがて世界が終わりを迎えることになる。それを儚んだ神々は人間の原型ともいえるエミールを創造する。神々はエミールに豊穣と繁栄の権能を与え、自らの分身を世に蒔きこの世の復興を命じたのち、この世界に再びアシリエの果実が実る時にまた舞いもどると約束して、別の世界へ旅立っていった。そして、人間は豊穣と繁栄の本能に従ってこの世界を豊かにすべく生まれたのである。

 確かこのような感じの話であったと思うが、以上のことからエミル歴から二千年も前を生きる彼は神そのものであるといえるのだ。

 ――ははは、驚くのも無理はない。三千年といえば我々の一族の中でもかなり長寿なほうだからな。せいぜい生きても千五百年ぐらいが関の山。これも我々の長寿の血も薄くなりつつあるということだ。

「血が薄くなる?」

 ――ああ、そうとも。昔は……といっても五百年前だが、それまでは人間とも共に寄り添い、まぐわい、子を成して普通に暮らしていたんだ。いまや純血というのは非常に珍しいものなんだよ。

 老人は小さく息をついて金色の瞳をのぞかせて、

 ――あの頃は人間と魔族、そこに垣根などなく共に手を取り合って生きていた。我々は夜に生き、人間は昼を生きた。夜の間は人間を、昼の間は我々を、互いを護り、助け合ってきた。そして時には、夕暮れの斜陽のなかで人間と愛を誓い合うことも。……それがいまやこの有様だ。なんと嘆かわしいことか。

 と、諦観とも悲観ともつかぬ色をしながら話した。

 永き三千年の栄華が光陰の一矢となりて彼の瞳にかげろうている。その地底湖よりも澄んだ瞳から放たれる光陰の一矢は、俺の眼をまともから射貫くと、

 ――私は、今でも人間と共生はできると信じている、今もこうしてお主と話が出来ているように。私は人間が全て邪悪な存在ではないことを知っている。彼らとは分かち合う機会に恵まれなかっただけだ。しかし、今となってはもう難しいだろうな。お互い、偏見に眼を曇らせているのだから。かくいう私でさえ、彼らに不穏な想いを抱きつつある。

 と、しずかに語り、お主はどう思うかと訊ねてきた。

 するとその時、ござで眠っていた少女がふいにむくりと身体を起こした。

「私はなんで生きている?」

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