第十章 魔族
すっかり夜も明けて、さわやかな朝日が山稜に差して美しい陰影を谷間に降り注いでいる折りから、俺たちは昨日と同じように坂道を下り、渓流の足元まで来ていた。
水位も大分と落ち着いてきたため、いよいよ渓流に沿って探索をすることにしたのだ。幸い、渓流の両端は河に呑まれていないため、端伝いに歩けば、それほど危険がないと思われた。だが、川の流れは依然として勢いがあるため油断はできない。少女にも十二分に念押ししてから、端伝いに渓流の流れに沿ってを歩いていく。
どこからか流れてきた丸太やら腰掛けほどの石をまたぎ、踏み越えながらもくもくと進む。やはり昨日まで川に浸かっていたせいか、地面がところどころぬかるんでいるし、小石などは泥をかぶっているせいで滑りやすくなっている。そのため、転倒しないように気を使って歩かなければならず、これがとても足腰に堪えた。
ときおり休憩を挟みながら、地道に進んでいくと、両側に切り立った岩壁がだんだんと開けてきて、空が広くなる。それにつれて川も浅くなる。そこからさらに歩きつづけると、やがて川が支流へわかれるところへ出た。
「こりゃまいったな。どっちへ行けばいい」
「あっちじゃないかな?」
少女は俺の声に、支流の方を指さして答えた。
「ほんとうか? どうしてわかるんだ?」
俺はぎょっとして、弾かれたように少女の顔を見た。
「なんとなく」
「お前……こういう時いつも行き当たりばったりで決めているだろ」
「そうだけど、それになにか問題が?」
「いや……ほら、石橋は叩いてから渡れっていうだろう? 何事にも慎重になった方がいいんじゃないか。一人旅だと何かとトラブルも多いだろうからな」
「トラブル?」
「ほら、うっかり足を滑らせて穴へ落ちたり、崖から落ちそうになったり、川でおぼれそうになったり……そうした時に助けてくれる人がいないだろう?」
少女は俺の意見に白い首をちょっとひねって、
「べつにそれって助けてもらうほどの事じゃないでしょう? 全部自分で何とか出来るじゃん」
「はあ」
「魔法で空を飛べばだいたい何とかなるからね。それに私はそもそもそういうヘマは踏まないから」
「はっ、魔法ってのは便利なこったな。でも普通の人間はそうはいかないんだよ。それにそんなことをいって油断しているといつかひどい目に逢うかもしれないぞ?」
「別に油断しているわけじゃない。それにしても魔法が使えないなんて、普通の人間は不便なものね」
少女は肩をすくめて答えた。
俺は少女の返答にはこたえず、さきほど少女が指さした支流のほうへ眼をくれた。このまま立往生も御免だが、かといって少女の当て推量でことを運ぶのも危険な気がしてならない。二手に分かれて進むのもいいが、少女の身に何かありでもしたらと思うと、気が気でない。
俺が考えあぐねていると、ふと妙な声が支流の方から聞こえてくるではないか。
その声はどうも二つであるようで、なにか言い争いをしているようで、その声はだんだんとこちらに近づいてくる。俺は急いで少女を引っ張って近くにあった岩陰に身を隠した。
小石をふむ足音が二つ、じゃりじゃりと、どんどんと近づいてくる。このような場所に一体だれが来ているというのだろう。
ついには、先ほど俺たちが立っていたところまで足音は迫ってきた。
思わず唾を飲み、じっと身を固くして息をひそめた。少女もおなじようにぐっと身を固くし、かすかな緊張の色がおもてに走る。
――このままではいけない。一刻も早くあの魔力泉を開放しないと、ここもいつまで保つかわからない。
――でもエリオール様がまだその時じゃないって……。
聞こえてきたのはなにやら男と女の話し声らしいのだが、その声に俺はなにやら奇妙な違和感を覚えた。
頭の中では意味をしっかりと理解できるにも関わらず、耳に入ってくる言葉はまったく聞き覚えがないものであった。方言などであれば、多少なりとも理解できなくもないが、そういった類でなどではなく、それは言葉であるかどうかさえも怪しかった。しいて例えるなら、なんというか祭事に経典を読み上げる主教の呪文のような、なんともへんてこな発音をしているのだ。
なぜその聞いたこともないような発音が成す意味を、俺は聞き取ることが出来るのだろうか。
その疑問はいったん置いておくとして、問題は声の調子から相手の体躯や年齢などといった情報を、くみ取ることができないことだ。これではかろうじて男と女であることぐらいしかわからない。
――その時っていったいいつだ。ここが鉄砲水にでも呑まれた後か? それとも山崩れした後か? 山が平らになるのが先か、俺たちが山崩れで平らになるのが先か、どうなるかもわからねぇっていうのに。一昨日だってあの雨でいったい何人死んだと思ってる。あいつの母親、川に流されていったんだぞ。今頃はもうズタ袋よりひでえ状態に違いねえ。次は自分がそうなるかもわからないのに、いつまでも待つつもりか?
――それは。……
――魔族の誇りだがなんだが知らねぇけど、死んじまってからじゃ全部遅えんだよ。とにかく、俺はいく。俺一人でだってあんな魔力泉どうとでもできるんだ。あんな封印、俺でも解けらぁ!
――まって! 駄目よ。
小石を蹴る二つの音が絡みあった。俺は思わず背筋にひやりと走る戦慄を覚える。
相手は会話の内容からすると、おそらく彼らは魔族でではないか。
俺はなにかしら胸の底に心臓がつっかえるような熱い息苦しさに襲われた。
なぜ、魔族の言葉を理解できるのか、魔族はあのような言葉を使うのか、彼らは一体何をするつもりなのだ、魔力泉とはいったいなんだ、というさまざまな疑念が頭脳を貫いて錯綜する。それに相手が魔族であるとすれば、このまま見つかってしまえばこちらも無事ではすむまい。
せめぎ合う謎をひとまず頭の奥底へ押しこんで、相手の動向を事細かに窺う。
願わくばこのまま、立ち去ってくれればよいが、そうは問屋が卸さない。
奇怪な念仏でわめき合う二人は、もつれあう足音となってこちらへ向かってきた。
駄目だ、このままではみつかってしまう!
ざく、ざく、と小石を踏みぬく二つの足音がしだいに近づいてくる。
小石の鳴る音に煽られる心臓がけたたましいぐらいに胸を叩いて、どうかすると心臓がせり上がってきて口が飛び出しそうになる感じだった。
肺は極度の緊張に締め上げられてひどく息苦しい。丹田もなにやら鉛のように冷たく重い。
浅い呼吸のなかで、ぐっと眼を見開いて二つの足音に意識を凝らす。
場合によっては首を取るよりほかはない。この際もう四の五の言ってはいられない。少女を俺の左手で後ろへ押しこんで、静かに剣へ手をかける。
ざく、ざくざく……
そして、あと一歩が岩陰に差し掛かったのと、俺が岩陰から躍りかかったのはほとんど同時だった。
剣を素早く抜きさり、相手の姿を視認するよりはやく、経脈らしいところめがけて剣を振るう。が、俺の剣先は相手の経脈を引き裂くことができなかった。
なぜなら、相手というのは少女と同じぐらいの子供だったたからである。
すんでのところで止まった剣の先には、状況が飲み込めず茫然として目を見張っている男の子が、その二、三歩後ろには口をあんぐりさせて佇んでいる、少年と同じぐらいの歳の女の子があった。
男の子はやがて、自身の置かれている身を理解したのか、歯をカチカチ鳴らしながら、恐怖で真っ青になり、女の子は青白い顔で足をがくがくと震わせ、眦が裂けんばかりに眼を見開いて、男の子の首筋にある切っ先を凝視していた。
男の子の首筋に突き付けられた剣先が、俺のせわしい息遣いにあわせて小刻みに上下している。あとすこし反応が遅れていたら、この少年の首を刎ねていたかもしれない。そう考えると、思わず全身から吹き出る冷や汗を抑えずにはいられなかった。
それにしても男の子も女の子も、ぼろ切れの布をかぶったような見窄らしい身なりをしているのだろう。首周りはひどく垢じみていて、服の袖口は手擦れして黒ずんでおり、裾の布は至るところがほつれて、簾のように垂れている。本来は綺麗であろう金色の髪も皮脂でべっとりとして、顔まわりは煤ほこりをかぶったみたいに黒ずんでいるが、眼の奥で光る魔族の特徴たる金色の瞳だけはギラギラと鋭く光っている。頬やあごは肉が落ちて痩せこけているため、そのせいで魔族特有の長い耳がよりいっそう大きく見えて、相好の均整がまったく取れていない。
あの金色の瞳を見るに、この子たちが魔族であることはもはや間違いないようだ。
早鐘を打つ心臓をなんとか抑えつつ、俺は少年の首筋に添えた剣をゆっくりと下げて、
「危害を加えるつもりはない」
魔族に意味が通じるかどうかは分からないが、相手の言うことを理解できるのも俺が持つパッシブの一環なのだろう。ならば、俺の言葉が通じる考えてもおかしくはないはずだ。
いくら魔族とはいえ相手は子供である。魔法が使えるという点では、我々人類に比べてはるかに強いというのは動かしがたい事実だが、そうであっても、子供の首を刎ねる気には毛頭なれなかった。
「君たちが何もしないというのなら、俺たちは黙って引き下がろう」
俺は言葉が通じぬかもわからぬ相手に警告を続けた。今はこれをいうほかはないのだ。
すると、男の子がふと顔を伏せて、
――お前は……人間だな。お前も俺たちを殺しに来たのかよ。
しゃがれ声でそういうと、ばっと顔を上げた。男の子の涙でうわずった眼のふちは憎悪と屈辱にあかあかと濡れ、肩を大いに震わせ、服の裾をぐっとかたく握りこんでもみくちゃにしている。
すると突然、男の子のうしろにいた女の子が、男の子にひどとばかりに強く抱きついて、大きく首を横にふ振りながら、
――お願いします。命だけは……なんでも、なんでもしますから、命だけは……。
と、涙をまき散らしてあえぎあえぎに哀願した。
涙に搔き暮れる女の子に、男の子はいくらかはっとしたように、震えながらもがばっとしがみつく女の子をかばうように両腕で強く抱くと、恐怖と憎悪とが絡みあった色をした鋭い眼で俺を睨みつけた。
息のつまりそうな濃い緊張がみなぎりわたる。女の子の命を乞う痛ましいむせび泣きの声が、絶えず耳をうっている。
やはりいくら魔族であるとはいえ、身を寄せ合って震える彼らの様子を目の当たりにして、俺はどうしても剣を振るおうなどと思えなかった。そればかりか、彼らの不憫な姿に思わず心を打たれずにはいられなかったのである。俺は剣をすぐさま鞘におさめてみせると、
「どうこうしようというつもりはない。だからこのままこの場から立ち去ってほしい」
とかれらに告げた。
彼らは俺の言葉をまったく信用していないのか、ぴったりと抱き合ったまま、穴が開くほどじっと俺の顔を見つめている。いきなり剣を突きつけられて、信用できないのも無理からぬことだ。そう考えた俺は、両腕をゆっくりと上げて数歩後ろに下がって、危害を加える意志はないことを示した。俺が動ぐと、一瞬、彼らはびくりと肩を震わせて身を竦ませたが、それでも両腕を上げてみせると、わずかに警戒を解いた風に見えた。
――どういうつもりだ。
男の子は強い敵意に燃える眼で俺に問いかけてきた。
「無駄な殺しはしたくないだけだ。相手が子供であればなおさらだ」
俺がこう切り返すが、男の子は怪訝の色を濃くして、
――お前たち人間のいうことなんか信用できない。
と、極めつける調子で答えた。女の子は男の子の胸に縋りついて、
――ねえ、もういいじゃない! 早く逃げましょ!
いやいやするようにかぶりを振って泣きじゃくっている。それでも、男の子は一歩も引かずに俺の視線をはじき返すように睨み続ける。
「信用できないのも無理はない。だが、本当に何もするつもりはない。このまま元来た道を引きかえしてくれればいい」
――そんなこといって、俺たちの跡をつけて集落を襲うつもりなんだろ。
「そんなつもりはない。俺たちは単に……ここへ迷い込んでしまっただけなんだ」
俺はとっさに嘘を吐いたが、男の子はそういう俺の表情の機微を読みとってか、顔を赤くして、
――ウソつくな! 知ってるんだぞ、お前たち人間が俺たちのことをここから追っ払うつもりだってこと。
と、俺を大声で非難した。俺としてはこの子たちの跡をつけて、魔族たちをどうこうするつもりは一切なかった。しかし、ここへ来た目的というのが、今、彼の口にしたことであることは間違いなく、俺は彼にたいして一言もなかった。この暗黙がいけなかったのか、俺が了解したと受けとったのだろう、このことが男の子の腹の虫をつついたらしく、みるみるうちに顔を真っ赤になり、わなわなと身体が震えだした。
――ふざけるな! お前たち人間はいつも嘘ばかりつきやがって! そうやっておれたちをだまして、俺たちを皆殺しにするつもりなんだろ!
ふいに男の子は、胸に縋り付いている女の子を強引に引きはがすと、足元の石を乱暴につかみ上げて、俺へ向けておもいきり投げつけた。思わず両腕で顔をかばい、身をねじって避けようとしたが、その甲斐むなしく石は俺の右肩を強く打った。骨に沁みるような鈍い嫌な痛みを感じた。
男の子は、なおもお前のせいで母さんと父さんが、と喚きわらしながら、ありあう石を片っ端からやたらめったら俺へ投げつける。石は弾丸となって俺の腕や足、腹などを容赦なく打ちつけた。石が身体を打つだびに、打たれたところの肉をねじれ、骨を震わせるようなひどい鈍痛が走る。
傍らにいた女の子も初めは唖然として、振り乱しながら一心不乱に石を放る男の子の様子を眺めていたが、やがて、気を取りもどすと、もうやめて、と男の子に飛びついて引き留めようとする。しかし、男の子の勢いは止まることなく、女の子を乱暴に振りはらう。振り払われた女の子は、明後日の方へ投げ出され、地面に叩きつけられ、うぅと痛々しそうに呻いた。
見かねた俺は、やめろと強く制止するが、これがさらに男の子の火に油を注いだのか、見境を失くして石をやたらめったらと投げつけだした。
すると突然、石を振り上げていた男の子の手が急にぴたりと動きを止まったのだ。
俺は何が起こったのかわからず、どうしたものかと思って男の子の方を注視する。だしぬけに男の子の背景からじわりと蜃気楼のように揺れると、そこから少女が浮かび上がってきたのだ。まるで擬態したカメレオンのように姿を現した少女に、俺もぎょっとして目を見張った。これも彼女が使う魔法なのだろうか。
石を振りかざした右腕を掴んだ少女は、ぐっと少年を振り向かせると、つぎの瞬間、男の子の頬を強く張った。
「もうやめなさい。ほら、見てみなさい。あの子、怪我している」
男の子は思いがけず頬を打たれてか、一瞬、呆然としていたが、少女の指し示す方へ眼を向けると、愕然とした表情を見せた。
地面に突っ伏した女の子は、うめき声をあげて、絶え入るような声で泣いている。男の子は蹌踉として女の子へ近寄ると、ぐっと女の子を抱き上げて、身体を震わせた。
――ああ、ごめん、ごめんよ。……
という、祈りにも似た謝罪を、少女の身体に顔を埋めて何度も口の中でつぶやいている。女の子はひしと男の子の首に絡みついて、わっとむせび泣いた。たえず続く魔族の子たちの痛ましい嗚咽の底で、知らぬ気に流れる渓流のほとりのせせらぐ音が妙に穏やかで、それがことさらに哀愁を誘うようである。
こういう光景に直面した俺は、どうしようもないやるせなさが朔風のごとく心に吹きすさび、腹の底に沈殿するずっしりとした重く苦い滓を拭うことができなかった。彼らの泣きじゃくる声が耳の底をつんざいてがたがたと揺らし、ともすると、ふいに胸にこみあげてくる一種異様な焦燥にも似た強い悔恨に、頭を覆ってうずくまりそうになる。
ああ、このまま進めば、このような無垢な子どもにもいずれ刃を突き立てねばならないのか。いや、子供のみならず、集落に住まう魔族たちすべてに言えることだ。老若男女問わず、関係なく剣を向けねばならない。時には手を掛けることにもなるだろう。彼らの恨みつらみのこもった呪詛を耳にしながら。そう考えたとき、突如、奇妙な錯覚におちいった。まるで本当に彼らに呪詛の言葉を掛けられたかのような、生々しい響きが耳の奥底にこだまするような気がしたのだ。すぐに気のせいだと小さく首を振って疑念を払拭するが、あまりに鮮明によぎったものだから、冷や水を浴びせられたみたいに思わずぞくりとした。
やはり魔族たちをいたずらに追いやるべきではない。俺の心中にはある思いが強く固まりつつあった。
あの大親父の依頼をやはり降りよう。
少女にとっては仇を討つ絶好の折りではあろうが、俺としては、これ以上、彼らと対峙できる自信がなかったのだ。
少女はそういう俺の顔をじっと見つめてから、抱き合う魔族の子たちに眼を移して、
「あの二人、兄妹かな。なんだかうらやましい」
まるで彼らより遥か彼方を見るような眼をしながら、少女は呟いた。
「私にも姉がいたらしいんだけど、私が物心つく前に事情があって離れ離れになっちゃったんだって」
「そうなのか。離れ離れっていうことはまだ生きているかもしれないんじゃないか?」
「さあ……わからない。もう大分昔のことだから、もしかしたら戦争で死んでいるかもしれないし、それに私は顔を覚えていないから、会ったとしても誰かわからないと思う」
「お前が覚えてなくとも、お姉さんが覚えているかもしれないじゃないか」
「どうかな、私も小さかったし、当時の面影もないだろうから、向こうもわからないかもね。まあ生きていたらの話だけれど」
少女はもの憂い様子で長い睫毛を伏せた。
「でも……できれば生きていてほしいな」
俺は泣きじゃくる魔族の子たちに眼を向けた。彼らもひと泣きして大分落ち着いたのか、ぴったりと寄せ合っていた身体を離して、互いにすんすんと鼻を鳴らしながら、宥めあっている。このままここにいてもバツが悪かったので、黙って立ち去ろうと少女の手を取った。しかし、頑として少女は動こうとしない。
どうしたものかと思って声を掛けようとした刹那、おい、ととつぜん男の子から声を掛けられた。
――さっきは悪かった。石を投げたりなんかして。
男の子は服の裾を指先でしわくちゃに揉みながら、頭を下げてきたのである。女の子もそれに続いてお辞儀をした。
「いや、俺の方こそいきなり剣を向けたりしてすまなかった」
俺も彼らにならって頭を下げる。すると近くにいた女の子が頭を上げて、
――ケガ、大丈夫?
と、まだおびえた様子を見せるも、言葉少なに訊いていた。
「大丈夫だ、こんな傷は大したことない」
出来るだけ笑顔につとめて答えると、少女はもじもじとなにやら躊躇する素振りをして身を固くしていたが、意を決したように顔をあげると、ゆっくりとこちらへ近づいてきた。男の子もさすがに慌てた様子で女の子を止めようとしたが、女の子は男の子へ一瞥くれて眼で制した。
一歩、また一歩と不安そうな足取りで俺の前まで来た女の子は、
――あの、すこし、かがんで。
と、か細く震える声で言った。俺は言われたとおりに身をかがめると、女の子はおもむろに手をかざしてすぅーと眼を閉じたのだ。すると、まるで春のうららかな陽光を浴びたような、不思議な暖かさが身体へ染みわたったかと思うと、徐々に身体の傷が癒えていくのである。この感じには覚えがあった。それは以前、少女が俺にしてくれた治療の魔法である。
あにはからんや、女の子がわざわざ俺に治療魔法を施してくれようとは。
さきほど男の子がこぼしていた言葉によれば、俺たち人間は彼らに対してひどい迫害を行ってきた悪魔のような種族であり、あまつさえ、この子たち(女の子の方はどうかはわからないが)にとっては両親の仇ともいえる存在であるはずである。しかし、女の子はそれらの事情も顧みず、恐怖で震える身体を奮い立たせてまで、俺の治療をかって出たのだ。
このことがまるで貧しかった寒い冬に春の訪れがやってきたように、どれほど俺の心を暖めたかしれない。
俺もこれには胸を打たれずにはおけず、
「ありがとう。本当にありがとう。とてもよくなったよ」
と、念を押して礼をした。
女の子は俄かにはにかむと、首を左右に振って、
――ケガをさせてしまったら、ちゃんと治してあげなさいって、お母さんが言ってたから。
声はか細いものの、震えはなくなり、さきほどとはうって変わった明るい表情でぺこりとお辞儀すると、男の子の元へ戻っていった。
このことが決定打となり、俺はとうとう依頼を降りる決心はよりかたいものとなった。どれほど情にもろい容易い男であるとさげすまれようが構わない。この子たちが無事であるなら、俺のくだらない矜持など、貧民窟のどぶ水にだって捨てられる。
だが、俺が手を引いたとしても、大きな懸念がふたつほど残る。
第一にあの大親父のことだ。かりに俺がここは危険だからあきらめるように嘘をいっても、おいそれと手を引くわけがない。ここが明け渡されるまで、執拗に新たな手段を講じることは容易に想像できる。そうなれば、いずれ彼らはあの大親父の手によって過去の件と同様この地を追われることになるだろう。追われるだけならまだいいが、最悪、命を落とすことさえ考えられる。
なにせ魔族側も武装をしているというのだから、このままでは武力衝突は避けられないのだ。争いによって誰かが死ぬことほど愚かしく、無意味なことはなく、本来あってはならない。それが魔族であっても、人間であってもそうである。
第二に、少女の仇の件である。これは一つ目に比べると大きな問題点ではないが、俺と少女の精神的な衛生に多大な影響を及ぼしかねない。彼女から仇の話を聞いた手前、ここで少女の心意気をふいにしようものなら、俺の心に消えることのない後悔のしこりを残すことになるだろう。できることならば少女に協力してやりたいが、俺自身、彼らを相手に剣を取れる気がしない。
もし少女の仇の相手が、この子たち――あるいは、それ以外の者にとってのかけがえのない存在であったらどうだ。仇討ちが成就したとしても、少女がその者たちの新たな仇として取って代わることになる。少女は仇巡りという憎しみに満ちた輪廻の囚人として、無窮なる救いがたい後悔に苛まれながら、息苦しい罪悪感を背負って生きていくことになるだろう。それはとても悲しいことであり、なにがあっても避けねばならぬ事態でもある。
ああ、少女は俺がこの依頼から手を引くと言い出したら、どう思うのだろうか。
やはり恨まれる? それとも失望される? 一人でもやり遂げてやると息巻いて、俺から離れていくのだろうか。
俺はそれも嫌だと強く思った。これまで少女と過ごした時間はかなり短いものだったが、それでも、今まで孤独にさすらってきた俺のささくれだった心に、ぬくもりという潤いをもたらすには十分すぎるほどの時間であった。記憶を失い、頼れる人もなく、独りであて処もなく世を流れるなか、独りでもなんら問題ないと思って生きてきた。しかし、あの森で少女と出会い、紆余曲折を経るなかで、折に触れて見せる少女の不器用な優しさやほんの少し陰の差す温かみに、知らず知らず心を抱きとめられるような安堵感を覚え、まるで春風に吹かれるような心地よささえ感じていた。
少女が俺の元から去れば、また独りで世を流浪することになる。人のぬくもりに触れる喜びを知った今の俺の心には、それがひどく堪えがたかったのだ。
俺の心は今、相対する二つの事柄が巨涛となって、互いの波しぶきを食いながら大きくせめぎ合っている。
俺は思い切って少女の肩を叩いて声を掛けたが、
「もし、俺がこの依頼から手を引きたいといったらどうする?」
これだけの言葉をいうのに、大分と時間を要した。
少女は俺の言葉にきょとんとした表情で、俺の顔を見つめていたが、やがて大きく嘆息すると、
「そっか。やっぱりあんたはそうなんだね」
少女は憮然とした色を浮かべて言った。その少女の表情が巨大な暗雲となって、俺の心に重くのしかかった。
「そういえばさきから気になってたけど、あんた、あの子たちの言葉がわかるの?」
少女は言葉を継いで、魔族の子たちに眼を向けた。
俺は静かに首を縦に振った。
「お前にはやっぱりわからないのか?」
俺は少女に訊きかえす。
「そうだね。でもだいたいあの子たちの顔を見れば、何を言いたいかってことぐらいはわかるよ」
「そうか」
「それが、この依頼から手を引きたい理由?」
少女はいきなり身を乗り出して、ぐっと俺の顔をのぞき込んだ。俺を見つめる紅い眼の奥底には、一種異様な光がゆらゆらと揺らめいている。
「そうだ」
「あの子たちを手にかけたくないから?」
「そうだ」
「……そう」
少女は意気阻喪と返答し、にわかに暗い顔をして目を伏せる。その少女の様子が俺の心をまた重くした。
「お前には悪いと思っているし、お前に協力してやりたい気持ちもある。仇を討ってお前が誰かの仇として生きることになるのを見るのは嫌なんだ。さっきみたいに石を投げられているお前の姿なんて見てられない」
少女は俺の言葉に堪えることなく、ただうつむいている。魔族の子供たちは、俺たちのただならぬ様子を不安そうにじっと見守っている。
やがて、少女は口を開いてぽつりと、
「それはあきらめろってこと?」
と、こぼした。
「そういうわけじゃない。でもこういう魔族を掃討するような物騒なやり方じゃなくて、もっと別の方法が……」
「もう遅いよ。そんなの、どうにもならない」
少女は俺の言葉をさえぎった。ふと顔を上げた少女の表情に俺はおもわず目を見張った。まるで今から旅行にでも出ようかというほど、晴れやかな笑顔が少女のおもてに浮かんでいた。
「弦から離れた矢は、もう戻ってはこないもの」
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