第九章 封印された洞穴

 封印を解いた少女と俺は辺りを警戒をしつつ、ゆっくり中をのぞきこんだ。そこはどうも洞穴らしかったが、昨日の洞穴とはだいぶちがっていて、人がひとりなんとか通れるような細長い穴がうねうねと続いている。奥の方は途中で曲がり角になっているようだが、ここからは突き当たりしか見えない。が、その突き当たりからは、なにやら青白い光が伸びていて、青白い光はときどき、そよ風にふかれたように心許なく揺れているのである。

「あの光はいったいなんだ?」

 俺は少女に耳打ちをして訊ねたが、少女は静かに首を振った。

「わからない。けど、かなり大きな魔力を感じる」

 そう答えた少女がおもむろに中へ入ろうとするのを、俺は慌てて引きとめた。

「おい待て。中に誰もいないとは限らない。慎重に行くべきだ」

 ところが少女は俺の制止を聞かずに振りきって、やにわに洞穴の中へと飛び込んでいった。それからすかさず俺も少女のあとに続いたのは言うまでもない。

 穴は思った以上にせまくて窮屈で、前へ進もうにも服のあちこちが岩肌に引っかかってうまく進めない。

そのうえ寒気を覚えるほどひんやりしていて、昨日の雨のせいか湿気もひどく、岩肌は汗をかいたように濡れている。服や腕は岩肌と擦れるたびに濡れていき、そこへもってきて洞穴の陰湿な冷気が、濡れた服をつたって身体に沁みてくるようである。

 洞穴の沁みるような寒さにがくがくと震えながら手こずっている間にも、体躯の小さい少女はうさぎのようにすいすいと、奥へ奥へと進んでいく。

 こつ、こつと、しめった足音がふたつ、陰鬱な洞穴をこだまする。

 やがて、少女は突き当たりを曲がっていくと、そこで少女の足音がピタリと止まったので、俺は何かあったのか、とひやりとした心地で歩を急がせた。

 ようやく突きあたりまでやってきた俺は、すぐさま曲がった先に眼をやった。少女はすこし先のほうで、呆然と佇んでなにかを見上げていた。

「どうかしたのか?」

 と、声を掛けようとする言葉をひっこめたのは、少女の視線の先にある、あまりに奇妙な光景を見たからである。

 そこは洞穴の最深部らしく、そこは円形の空間になっているのだか、その中央になにやら奇妙な物は吹き出していたのである。いや、吹き出しているというより、地面から生えているといった方が正しいだろうか。

 地面からは無数の蔓状の光が、螺旋をえがいて宙高くへのびていて、その先端には大きな光の実が成っていた。いや、光の実というより、むしろ繭糸に身を包む蚕に近いだろう。その光の実をよく見ると、じんわりと光る絹糸のようなものが無数に実を取り巻いて、もつれあり、絡まり合い、うねりながら、青白い光を脈うたっている。

 光の繭はどうかすると、すぐに砕けてしまう繊細なガラス細工かのように、繊細で、弱々しく、儚く不安定で、しかしてとても煌びやかで美しかった。できることならこの神々しい光の繭をずっと眺めていたいと思われた。

 この光の繭が放つ波長に当てられていると、なにかしら雲の上を歩くような得も言われぬ心地よさに身体をくるまれ、なんともいえぬ活力が身の内側から湧き出づる感じだった。

 しかし、この快感にはどこか甘美なる禁断の果実に手を出すような、快楽の刹那を初めて自分の手を汚して得たときのような、一種恐怖のようなうしろ暗い背徳感を覚えずにはいられない。ことほどさように恐怖めいた快さに襲われるのである。

 俺はどれほどこの光の繭を眺めていたかわからぬほど忘我の境地に陥っていた。そのため、ふと少女が光の繭に手を伸ばしたところも、普段ならば制止するはずなのだが、この時に限ってはそれも忘れてただ見入っていたのである。

 この不気味な薄暗い洞穴の一角に縁取られた、世にも神秘的な光の実に、少女の美しいかいながしなやかに伸びる様は、まるで神的なものとの交信をはかる儀式か、または禁じられた果実に手を伸ばすイヴのような、何人も犯しがたい一種厳粛な雰囲気をもち、それでいて、妙に心を惹きつける蠱惑的な一枚の絵画のようでもあった。

 俺はあまりの美しさにおもいがけず生唾を呑んだ。

 これほどに美しい精密画はこの世を探し回ってもそうないだろう。普段、女といえば酒場で艶めかしいおどりを披露するあだっぽい女しか見ない俺にとって、この奥ゆかしく、月光が降りしきる夜露のきらめきのような底のふかい情緒と、慎ましく物静かな幽邃さ含んだ優麗な女の美はとても真新しく映った。

 少女の透きとおるような白い指先が大きな光の玉に触れたとたん、光はわっと無数のつぶてとなって宙へ散乱した。散乱した光のつぶては波となって、この薄暗い洞穴の一角を青白い光で埋め尽くし、俺たちは光の海へとさらわれた。そして、光のつぶては少女を取り囲んで大きな光の柱をつくり、少女の腕や頬をあちこちとなでながら盛んに飛び交っている。

 少女はそういう光のゆくえを、遠くを見るようなぼんやりとした眼で眺めていた。少女はまた、ゆっくりと宙へ腕を伸ばすと、夜の湖畔で蛍たちとたわむれるがごとく、光のつぶてをそっとつかまえた。指の隙間からは青い光がこぼれだし、少女はそれをただ茫然と見つめている。その光景にまた、例によってあの夢が彷彿として脳裏に浮かんだのである。なぜ今、それが思い起こされたのかは俺にもわからなかったが、どことなく夢で覚えた感情が揺り起こされた心境であったのは間違いなかった。

「これは……?」

 ふと我に返った俺が、感に堪えない夢から醒めたかのような一種雲を踏む心地のなか、ようやく絞りだした言葉がこれだった。

「魔力の吹き溜まり……だと思う。これほど純度の高い魔力は見たことないし。まるで魔力の泉みたい……どんどんあふれてる」

 少女のほうでもなにかしら憑かれたかのような感じで、魔力の泉なる光の繭を凝視している。

「こんなものがあるなんてな。俺もいろんなところを回ってきたつもりだが、こんなものは見たことない。世の中にはまだまだ未知なことばかりだな。でもなんだって魔族はここに封印を?」

 俺は少女へ疑問を投げかけた。だが、少女はそれには答えず、うつろな眼で魔力の泉をじっと眺めている。

 未だに夢うつつの夢幻境を彷徨っているのか、少女の瞳には、まんべんの青々とした輝きが湛えられている。どうかすろと、そのままこの目の前にある神秘の光をすべて吸い込まんばかりである。

 魔力の泉なる光に縁取られた少女の立ち姿は、これだけでもはや芸術と呼べるといえる。俺は改めてそんなこと考えながら、少女の姿を見守っていると、なにやら少女の身体が、わずかに右へ、左へ、と老婆が腰かける揺りイスよろしくふらりふらりと揺れていることに気が付いた。そして少女はああとうめき声をあげて、倒れこみそうになったのを、俺は慌てて少女を抱きとめた。

「大丈夫か?」

「うん」

「すこし疲れたんじゃないか?」

「違う、そうじゃない。すこし魔力酔いしただけ」

「魔力酔い?」

 俺が訊きかえすと、少女は俺の手からさっと離れて二、三歩後ずさりして、

「こういう強い魔力にさらされるとたまにあるんだ。私みたいに魔法を使う人は、ほかの人に比べて周りから魔力を取り入れやすい体質だから、こんなバカでかい魔力の前にいると、すぐに自分の魔力の許容量を超えちゃうんだ」

 そういう少女の額には、玉のような汗がたくさん吹き出ていた。俺は魔力について、少女曰くてんでであるためまったく異変はないが、少女のこのやせ我慢を見るに、魔力酔いというのはどうやら本当につらいらしい。

「なるほどな。気持ちはわかるぞ。俺も飲みすぎた後はいっつもそんな感じだ」

 俺は気を紛らわせようと冗談を飛ばしてみたが、少女はろくすっぽ笑いもせず、険のある眼で、

「二日酔いでそうそうに死ぬことなんてないでしょう。魔力酔いは魔力の制御が甘い人は魔力が暴走して、最悪死ぬかもしれない」

「そりゃあまずいな」

「だから……ちょっとそれを貸して」

 少女は俺の腰にぶら下がっている剣を指さした。俺は少女の意図をすぐに察した。彼女はこの剣で強引に自分の溢れそうになった魔力を抜こうというのだ。俺はこの剣についての危険があることから、わずかに躊躇したが、それでも少女へ剣を差し出した。少女はためらうことなく剣の柄をぎゅっと握ってから、ぱっとすぐに手を離す。

 少女はうぅ、と呻いてぐったりと俺の腕のなかに身を沈めた。少女の額に吹き出る脂汗がいっそうひどくなる。少女はぐっしょりと濡れた額を袖で拭うと、

「相変わらず気味の悪い剣だね、それ。あんな一瞬で魔力の半分持ってかれたよ。まさに対魔族用の武器だね」

 少女は吐き捨てるようにいって、こんなところ早く出よう、と付け加えた。自分から飛び込んでおいてよく言う、と内心で思いつつも了承して洞穴を後にした。外へ出ると、なんとも言い難い疲労にどっと襲われ、思わず大きなため息を吐いた。

「それにしてもなんだって魔族はここに封印なんて施したんだ?」

 俺はうしろにある洞穴へ一瞥をくれて、少女へ訊ねると、

「それは単純に悪用する人間がいるからじゃないかな」

「悪用って? たとえば?」

「魔力兵器とか、魔武具とか? 魔法の扱えない人たちにとっては、こういう魔力器具は唯一魔法を行使するすべだし。武力を欲する人にとっては垂涎ものだろうね。ここ十年でそういう兵器開発も活発になってきたって聞く。魔族としても、そういうものに利用されるのは癪なんじゃないかな」

 魔力兵器だの、魔武具など、耳にしたことがない単語ばかりで俺が当惑していると、少女は俺の様子に見かねてか、

「あんた、本当に興味のないことには無頓着だね」

 少女は小さく息をつくも、あらましを簡単に教えてくれた。

 エミル歴一一二二年、魔族との戦争が終結した年であることはみなの知るところであるが、この戦争がもたらした多大な損失は、人類にとって眼を覆いたくなるほどのトラウマとなった。

 なぜこれほどまでに甚大な被害がでたのか。人間はその大半が魔力に対する感応素質がなく、魔族のような強力な魔法を行使することも、魔法に対する耐性もなく、それだけに戦場における魔法の脅威は、人間にとって絶大なものであったのだ。

 武装派の魔族自体は少数であるものの、そのどれもが強者ぞろいで、その一人一人が、人間側のもつ銃やら大砲やらといった近代兵器のそれなどはるか及ばぬほどの、破壊力を有した魔法を振りかざして暴れまわる。いうならば、歩く破壊兵器そのものである。

 彼らの使う魔法に戦場は塵一つ残さぬほど蹂躙され、ひどいときは、数百という人間がたった一人の武闘派魔族の手によって命を落としたこともあった。こうした魔法による一方的な破壊がもたらされていた戦争であったが、幸い、かの有名な勇者があらわれ、魔族をことごとくうち倒していったおかげで、魔族をなんとか退けられたものの、彼がいなければ戦争による被害はもっと酷かったといわれている。

 しかし、戦争終結後、鎮静されると思われた戦禍は、収まるどころかいよいよ激しさを増していく。まるで消えかかるろうそくの火が、絶える命運にあらがうようにして大きく燃え上がるように。

 魔王という指揮系統をうしなった武闘派魔族たちは、そのたががなくなったことにより、一気に瓦解し始めた。もともと、武闘派とよばれる魔族は穏健な性質を持つ魔族のなかでも異端とされていて、かなり好戦的かつ凶暴であり、そのほとんどが人格破綻者という気狂いの寄せ集めであったという。そのような荒くれものたちを束ねていたのが、ほかでもない魔王であった。

 その魔王が勇者に討たれために、魔王というたがが外れた彼らは、それをいいことに魔王の敵討ちという大義名分を掲げて一斉蜂起する。むろん、魔王の敵討ちなどはただの体のいい名目であり、その実、たまりにたまった破壊衝動の発散が主であった。元来、勝手気ままに破壊を楽しんでいたような傍若無人な奴らである、魔王のもとでその衝動を抑えつけられ、彼らのフラストレーションはさながらはち切れ寸前の風船であったのはいうまでもない。

 その魔王がこけたとあらばもう堪らない、しめたとばかりに彼らは秘めたる破壊衝動をいかんなく発揮されたのである。

 そのような魔法による破壊に魅せられた、気狂いじみた彼らに温情などあるはずもない。彼らの行った仕打ちはあまりに凄惨なもので、今まで魔王に抑止されていた民間人にまで手が及び、田畑や農村、集落などはもちろん、女子供問わず、問答無用でひとなめにされたという。

 のちに語られる戦後の紛争は、戦時中のそれを遥かにしのぐほどの惨たらしいものであったといわしめるほどであったというから、それからでも十分にどれほどのものであったかがうかがい知れる。

 さて、こういった背景から、人間もこの一方的な破壊に対抗すべく、王都である兵器の開発が着手された。それがさきほど少女がふれた魔力兵器である。

 これまで銃やら大砲やらとは違い、魔力兵器というのは人間にも魔法が扱えるようになる代物であり、この兵器や武具を身に着ければ、魔力に疎い人間でも難なく魔力を取り扱うことが出来る。これにより魔族の専売特許ともいえる、あのおぞましい破壊の魔法をも扱うことが可能となった。

 この兵器開発のおかげもあってか、戦後の紛争はしだいに終息へむかっていくこととなる。

 しかし、事態はそれほど単純に終わるわけもなく、過去にさまざまな争いを起こしてきた人類の歴史からも読み取れるように、こうした強力な武具やらを手にすると、あさましきかな、よこしまな欲を催してしまうのが人間の罪深き業たる所以である。

 ここまで聞けば、あとは大体推察できるだろう。どこもかしこもこぞってより強力な魔力兵器の開発や改良に余念がなくなり、各領地で魔力兵器による小競り合いが多発した。中には国家転覆を発起して武装蜂起するものまで現れたから堪らない。国はすぐに無許可による魔法兵器の使用と開発を禁ずるお触れを出したが、切られた火蓋に火がついてしまった以上、放たれた鉄砲玉が飛んでいくしかないのと同じで、兵器開発の波及を止められる道理はなかった。それでも国が罰則付きのお触れが出ると、表舞台から魔法兵器の類は姿を消したが、水面下では兵器の開発や改良は依然として行われているという。

「そういうやつらにとって、この魔力の吹き溜まりは喉から手が出るほど欲しいものだとおもう。魔法兵器の開発にはどうしても魔力ないし魔力を多量に含んだ鉱石やらが必要になるからね。ミスリルとかも最近じゃかなり値上がりしているって聞いたよ。おかげでミスリル製のアクセサリが本当に高くなったしいい迷惑だよ。昔はアクセサリ制作にしか使い道のなかった鉱石だったのに」

 少女は元来た道を戻りしな、愚痴をこぼした。洞穴を出た俺たちは、その場にとどまっているわけにもいかず、さりとて、他に手掛かりがあるでもなく、下ってきた坂道を引きかえすことにした。待ち伏せでもして魔族を取っ捕まえようとも考えたが、ああもひらけた場所では身を隠しておくところもなければ、相手の力量も定かではなく、そのうえ疲労した少女もいる手前、安易に手を打つわけにもいかなかった。俺がかの有名な勇者であれば待ち伏せも容易であったろうが、そうはいかないのである。

「ミスリル製のアクセサリはそんなにいいものなのか?」

「そうだね。変形もしにくいし、傷もつかないうえに軽い。デザインも無骨なものが多いし、しかも光沢は灰色に輝いていて、それはどの金属よりも鋭く鮮烈でそれでいて淡い。そしてなにより、作り手の想いが色濃くはっきりとわかる。これがミスリルアクセサリの魅力だね。ミスリルって鋼よりも硬いって言われてるから、加工が非常に難しいんだ。武器転用に考えた無粋なやつもいたみたいだけど、ていうかもうすでにされているんだけど……とにかくミスリルはアクセサリ一択なわけ」

「はあ」

 坂道を登りながら適当に相槌をうつと、あとには沈黙がつづいた。無理もない。下りの時はそれほど気にしていなかったが、こうして登ってみるとなだらかだと思っていたがわりと勾配がきついのだ。これは歩き方をかえねばすぐに足腰に来るだろう。どうかすると、尻もちをついて座り込みたくなるのをぐっとこらえて無心で足を進める。

 ようやく野営した洞穴へ戻ってきたころには、二人してぜーぜーと気息奄々たる息遣いで洞穴へなだれ込んで床に突っ伏した。ひんやりとした石の冷たさが坂道で火照った身体に染みわたってとても心地いい。

「それにしても、前から思っていたけど、お前って本当にアクセサリ好きだな。なにかそうなるきっかけとかあったのか」

 俺は床に突っ伏したまま、なんとなしに話題を切り出した。

「きっかけかぁ」

 おなじく床に突っ伏していた少女は、俺の言葉を受けるとおもむろに身を起こして居住まった。俺もつられて身体を起こす。

「初めて手にしたアクセサリはお父さんがくれたものだった。ううん、アクセサリというよりあれは工芸品かな。それは一部の民族の伝統工芸品で、自分が大切にしている人に贈るお守りみたいなものなんだ。それをもらった時、私はすごくうれしかった。私のために時間を割いてまで作ってくれた父の想いがこう、ぎゅっと胸に抱えて握っているだけで、心に流れ込んでくる。そうしているだけでとてもあたたかな気持ちになる。この世にこれほど尊い贈り物があるだろうか、そう思えたんだ。それからかな、私がアクセサリを好きになったのは。作り手のさまざまな想いが込められた綺麗な装飾品、考えただけでもロマンチックじゃない? もちろん、それを贈る人の想いもまた情緒があるし」

 そういう少女はどこか泡沫の夢に臨んだような一種はかない色をしていた。

 洞穴の外から差す折りから黄昏が少女のもの憂い面持ちに、ひときわ強いセンセーショナルな影を落としている。それも相まってか、身につまされる思いもひとしおで、なんとも言いがたい熱いものが、喉元から鼻先、そして目頭までぐいっと突き上げる感じだった。

 少女は父の思い出を胸にたったひとりで、戦後で倦みつかれた仁義も情けも忘れつつある過酷な人世を渡り歩き、父の無念を晴らすために身を粉にして仇を討たんとしているのだ。彼女こそ、戦後がもたらす悲劇の縮図であり、これをどうして憐れまずにいられよう。

 薄暗い洞穴のなかで、少女のすすり泣くようなか細い吐息だけが冷たい闇の中にみなぎりわたり、外から差す侘しい夕暮れの陽射しが少女の俯いた頭をさっと差しこんで、名状しがたい物悲しさを投げかけている。落日の陽光を受けた少女の白髪が、洞穴に滑り込んでくる風になびいて、照り輝くようにきらきらと揺れる。

 やがて、ひとしきり涙を流した少女は、落ち着きを取り戻してゆっくりと顔を上げると、涙に濡れた長い睫毛を伏せて、

「ごめんなさい。なんかしんみりさせてしまって」

「いや……」

 俺はなにか機智に富んだ返答を試みたが、むろん、なにも出てくるはずもなく、その日はそれっきり、少女と口を利くことはなかった。

 ちんまりと足を抱えて座っている少女の背中を見ていると、俺はなんだがひどい過ちを犯したような気がしてきて、さきほどの行いを激しく悔いた。なぜ、なにか言葉をかけてやれないのか。いい大人が励ましの言葉ひとつもくれてやれないなど情けなさもあればこそである。

 俺はこの時ほど穴があったら入りたいと思ったことはない。いや、現に洞穴には入っているのだが、それよりもさらに深くにある――地底湖にでも沈んでしまいたい思いである。

 地底湖といえば、以前道すがらで出会ったある冒険者のパーティーがこの辺りには珍しい地下水脈があって、その先には未だ誰も見たことがない地底湖がある、なんていうことを言っていた気がする。その時俺は誰も見たこともないものがなぜあるとわかるのだ、と彼らの話を胸中で一蹴したが、もしそれが本当にあるのなら、すぐにでも探し出して迷わずその湖に飛び込むことだろう。

 だが、それも無理な話である。昨夜の雨のせいで河川の水位は少し落ち着いたものの、まだまだ荒れている。仮に地底湖につながる地下水脈があったとしても、あの水位では入口も沈んでいることだろう。いや、そうとも限らないが、あんな荒れ狂った河に漕ぎ出そうとするなど命を捨てるのと同義である。いくら恥じ入りたいとはいえ、身を投げたいとまでは思わない。ここは素直に恥を忍んで川の様子が収まるのを待つほかあるまい。

 そういえば、アレン氏はまだ帰ってこないのだろうか。彼の言伝では今日中には帰らないかもしれないとのことだから、今日帰らなかったとしても不思議ではない。

 はたして、アレン氏は帰ってくることはなく、俺たち二人だけで夜を明かすこととなったのだが、お互いに洞穴の両端まで離れて眠ることになった。どちらかが提案するでもなく、気づかぬうちにそうなっていたのだ。あるいは、この距離こそ今の俺たちとの間にある心の溝なのかもしれぬ。ランプに明かりを灯すこともなく、深々と落ち込む夜の闇に身を預けた。

 空も寝ぼけている未明の折りに、俺は目を覚ました。光と呼ぶにも怪しいぼんやりとした紺藍の影が、洞穴の外からこちらを覗きこんでいる。

 ふと向かい側に眼を向けると、少女が両膝を抱いて床に寝そべっている。少女の姿にわずかな安堵を覚えると、俺はやおら立ち上がって、洞穴を出た。滝が壷をうつような川の音にまじって、山のどこかで鳥たちの鳴く声が絶えなく聞こえてくる。外はうそ寒い夜の冷気が満ちていて、大きく息を吸うと、夜に冷やされた山の湿った空気が肺いっぱいに染みわたってきて気持ちがいい。あまり健全なたとえではないが、勢いよくあおるキンキンに冷えた麦酒に通づる心地よさである。

 俺は下り坂の方へ足を進めて、足先をながれる河川をのぞき込んだ。まだ水の流れや水位は少し高いものの、昨日に比べれば幾分以上もマシといえる。これであれば、昨日よりも探索が捗ることだろう。

 だが、実のところ、彼らと相対した時にどうすべきなのか全くわからないのだ。剣を取るのか、逃げるのか、それとも話し合うのか。しかし、話し合いなどできようはずもないことはわかっている。

 なにせ我々のつかっている言語は彼らには通じないといわれているからだ。さてこそ、人族と魔族は血なまぐさい戦争にまで発展したわけである。もし話し合いができるのであれば、もう少し彼らと歩み寄ることもできただろうに。勇者は魔族を斬ることに抵抗を覚えなかったのだろうか。

 俺は少女からあのような話を聞かされ、とてもではないが彼らを斬って捨てようなどどどうしても思えないのだ。いや、勇者自身も魔族のああいう在り方というものを知らなかったはずだ。だが、知らないとはいえ、人間と同じように愛を成し、子を産み、愛を持って子を育み、みな寄り集まって集落を作って暮らして――いや、なぜそんなことがわかる? 魔族とも今まで出会ったこともないのになぜ?

 そこでふいに後頭部を殴られたかのような、堪えがたい頭痛が襲い掛かってきた。まるで幻灯機で状態の悪いフィルムでも映し出したかのように、見たことがない光景が断片的に瞼の裏をよぎる。

 しかし、しばらくするとあの堪えようない頭痛も、ありありと瞼に煎りつけていた景色も立ちどころに消えうせたのである。

 一体、これはなんだというのだ。

 実のところ、こうしたことはこれが初めてではなく、この頃こうしたよくわからぬ頭痛と幻覚じみた走馬灯に悩まされているのだ。

 そして、かならずいつもあとに残るのは、二日目のワインのごとき後味の悪さと、記憶の片隅にある景色の破片だけなのだ。

 しかもこの脳裏によぎった断片的な光景も、雫が垂らされた水彩画のごとく、ぼんやりとにじんでいて、痕跡を読み取ることさえできないという歯切れの悪さ。

 どうも少女と出会ってからこうした妙な出来事が増えたように思われる。いや、少女と出会ってからというより、あの森で見た幻と対面してから、が正しい気がする。

 俺はなんとも言えないもの悲しい思いにうなだれて、再び川の底へ視線を投じた。

 石やら流木やらと一緒に白い泡を食って流れる濁った川の、轟々とした音が、絶えず耳の底で悪竜の唸り声のように鳴り響き、それが嫌な胸騒ぎを覚えさせるのである。

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