第八章 渓谷の冒険

ンと名乗るその男を一言で言い表すなら、まさに優男である。

 立派な兵装こそしているが、身体の線が細いせいかどうにも均整がとれていない感じが否めない。さながら子供に無理やり鎧を着せているかのようである。

 格別、相好が優れているわけではないが、目鼻立ちの端から匂うまだ少年だった名残が、どことなく庇護欲をくすぐる愛嬌を顔全体にあたえている。

 女は街を歩く彼を見れば、母性をかき立てずにはおけぬであろう。だが、ここは街でなければ、相手は女ばかりに限らない。戦地に立つ血の気の多い者ども相手に母性を訴えかけたところでそうはいかないのである。大親父はなんだってこんないかにも頼りなさそうな男を遣わせたのだろう。はたしてこんな優男に少女の護衛など務まるものだろうか。

 アレン氏はすました表情で軽く会釈すると、まっすぐに少女の前までやってきて、

「カイツ様からあなた様のことを承っております。くれぐれも丁重にご対応するように、と」

 アレン氏は涼しげな切れの長い目元をゆるめて微笑んだ。

「ふーん、それはどうも」

 少女はアレン氏の顔をちらりと瞥見し、愛想なしに返事をした。

 アレン氏は少女の不愛想に気を悪くする様子もなく、相変わらず涼しい顔で笑いかけて軽く頭を下げてから、次に俺の方へと向きなおって、

「改めまして旅人様、短い間ですが、よろしくお願いしますね。それにしても旅人様、まさか昨日の今日で出発だなんて僕も露ほども思っておりませんでした。依頼をお渋りになられていたとお聞きしていたので」

「べつに渋っていたわけじゃないがな。カイツ会長殿が勘違いされただけだ」

 俺は肩をそびやかして、そらうそぶいてみせた。実のところは存分に渋っていたのだけれど、ここでそれを持ち出しては、なんとなく恰好がつかないと感じたのだ。

「そうでしたか。あの方は早とちりする嫌いがおありですものね……おっと、これは他言無用でお願いいたしますね。カイツ様のお耳に入ったらどうなることやら」

 アレン氏は口に手を当てて、いたずらっ子よろしくニカッと笑った。

「さて、旅人様。この後はどうするおつもりでしょうか? 何か作戦か何かがおありで?」

「いや、俺たちもさきほどついたばかりでね。どういう状況になっているのか全く分かってないんだ。おまけにこの濃霧ときたもんだ。これじゃ周りを見渡そうにも見渡せない。だから、できれば今日は霧が晴れるのを待って様子を見たいが……」

「そうですね」

「それにしてもアレンくん、君はよくこの霧のなかここまでこれたね。道中なんにも見えなかったろう?」

「ああ、それ」

 アレン氏はにこりとしてこともなげに、

「僕はこのあたりが地元でしてね。道にはだいたい慣れているんです」

「地元?」

「ええ、そう。でも今はその話はよしましょう。僕の身のうえ話なんてしても、場がしらけるだけですからね。ああ、いや。もう白けているんですけれども」

 と、アレン氏は辺りをきょろきょろしながらおかしそうに笑った。こいつはどこか食えぬ男である。

「してお話を戻しますが、この先はどのように? ああ、この濃霧でしたらお気になさらずに。僕ならある程度、この山の道は知っていますので、移動には困りませんよ」

「ああ、なら進めるところまで進もう。霧が深いうちに動けば魔族の連中に気取れることはないし。ときにアレンくん、君はここにいる魔族のことを何か知らないか?」

「何か、といいますと?」

 俺は少女に一瞥をくれて断りをいれると、

「この魔族がどこから流れてきたのか、とか。相手らの素性だとか、特徴だとか……」

「はあ、素性……ですか? さあ僕にはわかりかねますね。魔族のことなど知ろうなどとも思えませんから」

 アレン氏の眼に、ただならぬ怨憎の輝きが瞬いたように見えたが、次の時には元のたおやかな眼に戻っていて、

「知っていることと言えば、魔族はこの谷底――渓谷に住み着いている、ということと、あとは谷底までの道のりですね。それぐらいしか知りませんよ。なんたって魔族が住み着いている土地なんですから。そんなところへ足繁く通う人間はそういませんからね」

 アレン氏は困ったような眼を谷の方へ投げかけて、小さく息をついた。

「だから渓谷のどのあたりに居ついているかなどか、誰も知らないんですね。ですが、陽動するポイントはもう決められていますよ」

「陽動?」

 俺はアレン氏の言葉を聞きとがめると、

「それは私も聞いたよ。城の中で大親父様から」

 と、少女がそばからくちばしをいれる。

「でもそううまくいくとは思えないけれどね。私は」

「しかし、陽動がうまくいけばやつらを一網打尽にできます。試す価値はあると思いませんか?」

「さあね」

「ちょ、ちょっと待ってくれ。どういうことだ、なにか作戦があるっていうのか? 俺にもわかるように説明してくれ」

 俺を置いて話を進める二人に慌てて割って入ると、アレン氏は困惑の色をうかべて、俺と少女とを見比べて、

「あれ? 僕はてっきりこちらのお嬢様から、お話を伺っているものかと……作戦がないとは言ってませんよ」

 と、やや狼狽気味に言った。

 彼が言うのは、つまりこういうことである。

 渓谷に住む魔族たちをあるポイントまで彼らを惹きつけて、ポイントまで誘導出来たら、彼らが岩山の上からたっぷりの銃弾の雨を降らせて奴らを残らず仕留めるというらしい。その後は、魔族の集落に火でも放って焼き払い、一網打尽にしてしまうのだという。

 アレン氏は得意げに作戦内容を説明してみせたのだが、その内容はあまりに杜撰で不安を覚えずにはいられなかった。これでは少女がうまくいくとは思えないというのも無理はない。

 たしかに伏兵による奇襲は効果的ではあるが、うまく陽動できるかもわからない上に、それほどの人数を引っ張ってこれる気がしない。武装した男がひとり、相手に何十人も出払うとは到底思えないのだ。

 それにその過程で俺が討ち死にしてしまっては元も子もない。また、全てがうまくいって全員陽動できたとしても、鉄砲玉で魔族どもをやれるのかも甚だ疑問である。大親父の話では、武闘派の魔族を引き連れているといっていたが、武闘派の魔族がその程度で倒せるのなら、おそらく十年前、戦争にすらなっていないだろうし、武器商人も兼ねている大親父自身も、そう手を焼くことはないように思える。

 懸念はまだある。そもそも俺はまともに戦うことが出来るのか。この特別な剣があったとしても、これがどこまで通用するのかは未知数なのだ。何故といって、俺は魔物や人間とはそれなりに戦ってはきたが、魔族との交戦経験は皆無であるからである。

 以上のことから、アレン氏にはもう少し様子を見てから判断させてほしい、とだけ伝えた。俺の意見に、彼は悩ましげな眼ですこし考えこみ、ややあって、アレン氏は、わかりましたとだけ答えた。

 こうして、様子見から始めることとなった俺たちは、渓谷へと降りて、周囲の状況を確認することにした。さいわい、アレン氏はこのあたりの地理に明るかったため、道のりに困ることはない。

 けれど、それには大きな難関を超える必要があるというのだ。難関というのはいうにおよばず、この朽ち木同然の吊り橋のことである。

 渓谷へ降りるには、この今にも風に巻かれて木っ端微塵になりそうな橋を渡り、脇にある道を壁伝いに下っていかねばならないらしいのだが、

「なぁに、この橋は今でも現役ですから心配なさらずに。ハッドやフォースイからシュタットへ来る者たちはみなここを通ってきているのです。それに落ちても下は河ですから、運が悪くなければ何とかなりましょう」

 アレン氏は晴れやかな表情でそういうと、ならば私が先に行きましょうか、と付け加えた。どうも俺たちの引き攣った顔を見て、気を利かせてくれたようだ。俺は彼の申し出を受け入れ、彼に先頭を譲った。

 アレン氏はまったく躊躇することなく、泰然たる足取りで橋を渡っていく。アレン氏が進むたびに、橋はいやだいやだと地団太する子供のように横に揺れ。しゃんしゃんやらぎーぎーやら橋を支える綱や鎖がわめき散らしている。やがて、彼の姿は白い霧のなかに、消えていき、あとに聞こえるのは橋がわななく声だけである。

 俺たちも呆けているわけにもいかず、彼の後に続くことにした。俺はこの橋の上の冒険を生涯忘れることはないだろう。

 谷を覗き込んだ時には気がつかなかったが、この谷底、呻くような轟然たる河の音がたえず響いてくるのだ。どうやら朝の雨の仕業であろう。これでは落ちてもまず助かることはない。抜け落ちた底板の隙間からは、霧にしめった冷たい風がしきりに突き抜けてくる。この風の勢いが思いのほか強く、おもわず平衡を崩しそうになるからもうたまらない。

 がくがくと膝を震わしながら、橋板から乾いた音が聞こえる度に腰回りにひしとばかりにしがみついてくる少女の手を引きながら、ゆっくりと前進しなければならないもどかしい恐怖と、谷底から吹いてくるつむじ風に戦慄しながら、一歩、また一歩と、俺たちは芋虫のごとく橋の上を這うように進んでいく。

 それでも長い時間をかけてようやくたどり着くと、アレン氏がそばにある大岩に寄りかかって遅いといわんばかりにうたた寝をしていた。彼は俺たちの存在に気が付くと、ぱちりと目を覚まし、

「いやぁ、結構かかりましたね。こういう橋は初めてですか?」

 何食わぬ顔で訊ねてきたが、俺も少女もこれには答えなかった。業がわいたとかではなく、反駁する余裕もなかったのである。アレン氏は仰々しく肩をそびやかしてからがっくり落として、ため息をつくと、

「では、先を急ぎましょうか。雲行きもだんだん怪しくなってきましたし、陽が暮れてしまうとこの辺りはまったく見えなくなってしまいますから」

 アレン氏は俺たちの返事を待たずして踵を返すと、きびきびとした動作で歩きだした。それに俺たちも無言のままに追随するのだった。

 濃霧の海に閉ざされ十歩先すらも弁じえないにもかかわらず、アレン氏は迷うことなく道なき道を進んでいく。ともすると、アレン氏の姿すら白昼の夢のごとく霧のなかに立ち消えんばかりである。彼を見失わぬようついていくのがせいぜいであったが、歩いた感じからするとどうも蜿蜒とした坂道を下っているらしかった。

 先ほどから気にせぬふりをしていたが、少女が俺の服の裾をつかんで離さないことに、俺は一抹の驚きを覚えずにはいられなかった。彼女は今どんな顔をしているだろうかと、見るともなしにちらりと顔を窺ったが、霧でかすみがかっていて表情がはっきりと見えてこない。しかし、その姿に、まるであの奇怪な夢に出てくる女を見るようで、胸中になにか一種異様な熱いものがせりあがってくるのだった。

 さて、くたびれるほどの何度目かの折り返しをむかえると、アレン氏が次の折り返しで野営をしようと提案してきた。むろん、俺たちに説得力のある異論を唱えられるわけもないので、二もなく賛成する。

 霧のなかを進み続けて次の折り返しに着くと、アレン氏はやにわに左手を伸ばしてなにやら探るような仕草を見せた。するとすぐにアレン氏の左手が何かに触れる。それはごつごつとした岩壁であった。アレン氏はそのまま岩壁に手を添えて壁伝いに歩いていくので、俺たちもそれについていく。それからすこしすすんだところで、ふいにアレン氏が立ち止まって、こちらを振り返って無言のまま壁のほうを指さした。

 指し示されたところを見てみると、なるほど、岩壁にぽっかりと人が一人通れるくらいの穴がぽっかりと空いている。どうもここが野宿のあてであるようだ。

 穴の中を覗いてみると、狭い入口とは裏腹に、中はそれなりに広い空洞になっていた。広さにして俺がシュタットで寝泊まりしていたあの部屋よりちょっと狭いぐらいであるが、三人程度であれば寝泊まりに事欠かないだろう。

「はぁ、これはなかなかなもんだなぁ。この広さなら三人いても十分に寝泊まりできそうだ」

 と、俺が感嘆をこぼすと、アレン氏はすこし驚いたように、

「驚きました、こんなに暗いのによく見えるものですね……」

 と、感心し、

「ここの洞穴は、冒険者などがよく野営で使ったりしているのですが……」

 訝しい色をして俺の顔をじっと見て、

「もしかして、ここへ来たのは初めてではない? とか」

「いや、初めてだよ。まあただ暗がりでも目が利くってだけで」

「目が利くっていってもここは真っ暗ですよ? いくらなんでも見えすぎでは……まるで魔族みたいですね」

 眉をひそめるアレン氏の瞳には異様な光がほのめいている。

「そういえば聞いたことがあります。魔族の中には、人間に紛れて暮らしている者がいる、と。あなたまさか……依頼を受けるふりをして、奴らと示し合わせていたり……」

 じっと見つめるアレン氏の眼が、いよいよ銀粉を振りまいたようにギラギラとした危うい光をおびてくる。

初めはなんの冗談かと思ったが、彼のおもてに浮かぶ色があまり異様だったので、

「な、なにをバカなことを。そんなことがあるわけないだろう」

 と、俺があわてて否定さた。

 一瞬間、気まずい沈黙が落ちてきたかとおもうと、ふいにぷっとアレン氏は吹き出して、

「あっはっは、なにを真に受けているんですか。冗談ですよ冗談。さあ、早く中へ入りましょう。多分、もうじき降ってきます」

 と、笑いながら俺と少女を中へ押し込んだ。

 しかし、俺にはどうもあの脂の浮いたような、凶暴なひらめきが走った瞳が冗談とは思えなかったのだ。

 呆気に取られる間もないまま、空洞へと入った俺は、とりあえず懐から火起こしとランプを取り出して、火を灯した。

 橙に揺らめくランプの明かりが、洞穴に埋もれていた暗闇を隅へと押しのけ、ときおり、壁に焼きつけられた俺たちの姿が、ゆらゆらと陽炎のように揺れている。

 それからほどなくして、洞穴の外からざっと雨が地面を叩く音がしたかとおもうと、またたくまに車軸を流さん勢いのけたたましい大雨がどっと降ってきた。

 空を瞬く雷鳴が轟々と鳴りはためき、大地を大きく震わせている。

 雷雨の勢いは収まるどころか激しさを増すいっぽうで、雨足はどんどんとひどくなり、殷々たる稲妻がおぞましい閃光とともに幾重にもわたって空を引き裂いていた。

 これほどの雷雨に見舞われることもまれである。渓谷に流れる河もこの分ではいよいよ穏やかではあるまい。

「ああ、まったくひどい雨ですね。このところ、マスロープツ山はいつもこうなんです。酷いときはこういう雷雨が三日ほど続くこともあるそうです。どれもこれも、魔族がここへ住み着いてから起こるようになったとか」

 アレン氏は、涼しい目元を崩さないまでも暗い表情をして、

「ですから、ここを行き交う者も安易に通ることが出来ないのですよ。むろん、我々行商人もです。彼らがここへ来たせいで、とんだとばっちりですよ。ああ、一刻も早くやつらをこの渓谷から追い出して、ここの平穏を取り戻さねば。もともと地盤のよい所ではないうえに、もってきてこの大雷雨。山崩れだって頻発しています。このまま放っておけば、今に大変なことがおこりましょう」

 俺はこの話を聞くさなか、さきほどの少女の話を反芻せずにはいられなかった。 少女もまた悄然たる面持ちで彼の言葉を聴いていた。

 彼女の話では、魔族というのは世界各地にある魔力の乱れを正して回っているという。そういう彼らがこの地へ一度ならず二度までもやってきたということは、とりもなおさず、この地に溢れかえっている魔力の滞りがいよいよ看過できるものではないことを意味しているのではないだろうか。そして、少女のこの表情。……

 この三日も続く大雷雨に、山を渦巻く不穏な暗雲も魔力の乱れが原因にちがいない。あるいはこの渓谷にうず巻く霧海も魔力の乱れが引き起こしているのではあるまいか。

「ともかく、この雨が止むまではこの洞穴で過ごすとしましょう。幸い、こんなこともあろうかと食料やらは私が持ってきていますので。まあカイツ商会印の携帯食ですがね。結構いけるんですよ」

 俺たちの気掛かりなどつゆ知らず、彼は涼しい顔で俺たちにクッキーのようなブロック型の携帯食料なるものを配った。

 俺と少女は、オーナーが持たせてくれた物があるから、と携帯食料をいったん断るも、アレン氏は念のためお持ちください、とにこやかに答えたので、仕方なく受け取ることにした。だが、このような心持ちで飯を食う気にもなれず、壁に背を預けて座りこんで、閃光がひしめく暗い空を呆然と眺めるのだった。

 外を眺めているうちに、いつのまにかうとうとしてしまったようで、気がつくと外からあふれんばかりの光が差し込んでいた。どうも明け方までぐっすりと眠ってしまっていたようである。このところ、あの奇怪な夢のせいで寝付けなかったせいであろう。

「相変わらずよく眠る人だこと」

 という声がするので、声のした方へ眼をやると、へたり込むように地面にすわっている少女の姿が眼に入った。少女はアレン氏の持ってきた携帯食料をほそぼそとかじっている。

「最近どうも寝つきがわるくてな。ベットが合わなかったのかもな」

「私はこんな岩の褥よりも宿屋のふかふかベットのほうが恋しいよ」

 俺はそこでふとある事に気がついてあたりを見回した。どうもアレン氏の姿が見当たらない。

「アレンくんはどこへ行ったんだ?」

「あの人なら先に出て行ったよ。なんか逐一あのスケベに報告をしなきゃいけないんだって。それと、いろいろと確認したいことがあるみたい。だから、先に渓谷へ向かってくれって」

「渓谷へ向かうったって、道案内なしじゃ無理じゃないか」

「このまま降りていくだけだから問題ないらしいよ。霧も昨日よりはマシみたいだし」

「はあ、ならいいけど……。それで、お前はついていかなくてよかったのか? 本来であれば、アレンくんと行動するはずだったんだし」

「私はあんたと行くっていったでしょ。あとから合流するって言っておいたから大丈夫」

「結局合流することにしたのか?」

 俺の問いに少女はちょっと押し黙ると、それからいくらか鼻白んだ調子で、

「いちいち細かい男だね。そんなの建前に決まってるでしょ。とはいっても、この地図じゃ場所もわかんないから、結局合流するにもできないけれどね」

 少女は一枚の紙を人差し指の中指ではさむと、持ち上げてひらひらして見せた。

 少女の元へ寄って紙をのぞきこんだが、これはどうして読めないものだ。何本かの線が交差したり折れたりとのたうっており、これが道を示しているのだろう。目的地らしきポイントには大きな黒点が打たれているが、おそらくこのあたりに詳しいものでない限りはおよそわからないだろう。実に不親切なマッピングである。

 それから少女は、アレン氏はもしかすると明日まで帰らないかもしれない、と結んだ。

「とにかく、俺たちは渓谷の方へ向かうとしよう。とはいっても昨日の雨だ。もしかすると川には近づけないかもな鉄砲水にでも見舞われでもしたらたまったもんじゃない。もし危険なようだったら、ひとまずここで待機でもしていよう」

 俺の言葉に少女も異論はないようで、無言でうなずいた。

 俺はオーナーの包んでくれたパンをいくつかかじって腹ごしらえを済ませると、おそるおそる洞穴の外へ出た。

 外を出た瞬間、まばゆい陽光がさっと眼に刺さり、とっさに腕をかざして眼をぐっと細める。しだいに、光にも慣れてきて、細めていた眼を開く。まだわずかに霞が景色を覆っているものの、昨日の濃霧に比べれば大分と落ち着いていた。

 折れ曲がったいくつかの坂道の先に、荒れ狂った河川が白いあぶくと共に岩々を食んでいるのが見える。上を仰いでみると、白い岩壁にこれまた蛇のように曲がりくねった坂道が延々と続いている。こう見ると、かなり下まで降りてきたように思える。視線を少し左へ寄せると、あの臨終間近の老いぼれ吊り橋が、気息奄々たる様子で谷の間をぶら下がっている。あの激しい嵐の中をよく生き延びたものである。俺は橋のしぶとさに感心を覚えていると、ふいに、少女が早くいくよと、と声を掛けてきたので、ばっと少女の方を見ると、いつの間にか少女は坂道を下っているところであった。

 坂道はそれほど急こう配ではなく、なだらかでもない道が五十メートルほど続いて、それがまだ何重にも折りたたまれている。しかし、昨日の雨のため、地面はあまり芳しい状態ではなく、土が嫌にぬかるんでおり、どうかすると足を滑らせてしまいそうになってしまう。俺たちは足元に十分注意しながら、ゆっくりと蛇の坂道を下っていく。

 渓谷をながれる河川が足先まで迫っている。昨日の豪雨により土色に濁った河川の水は、まるで無数の蛇がうごめいているかのように、激しい勢いで流木やらを飲みこみながら渓谷の間を縫って流れていく。坂を下るにつれて、やかましい河川の音も輪をかけてひどくなる、はては耳まで口を寄せねば話す声すら聞こえないほどの大きなものとなり、思わず耳の中で小豆でも洗っているのかと疑ってしまう。いくら魔族といえども、こんな危険な状態にある川の付近にいることはあるまい。

 濁った河川から顔を出す岩々が荒波に洗われる姿を横目に、少女の耳元へ顔を寄せて声を張った。

「やっぱりこれ以上は危険だ。これじゃとてもじゃないが川へは近づけない。下手に近づいて川へさらわれでもしたら一巻の終わりだぞ」

 少女は答えず、納得のいかぬ表情でじっとつま先に迫った河を睨んだまま動かない。

「どこか別の道を探そう。もしかしたら、昨日のような洞穴がどこかにまだあるかもしれない」

「わかった」

 少女は釈然としない色をうかべつつも、俺の意見を呑んだ。

 俺たちはいったんもと来た道を引きかえし、そのさなかで、岩肌やら茂みやらをのぞいてどこかに抜け道がないかをくまなく調べていった。

 そうするうちに、どこかの坂道の切り返しの折りから、とつぜん、少女があっ、と叫び声をあげたので、慌ててそばへ駆け寄ると、

「ここ、道がある」

 と、少女は岩壁を指さして、少ししゃがれた声で言った。俺はぎょっとして、指さされた先を見るも、そこは何の変哲もないところどころ苔の生えたでこぼこした岩肌で、道などどこにもなかった。あまりに疲れすぎて岩の影が道に見えでもしたのだろうか。

「いや、これはただの岩だぞ。お前、ひょっとして疲れてるんじゃないか? 少し休むか」

 俺が心配の声を掛けると、少女はぎろりと横目でにらんで、

「違うよ、わからないの? これだからポンコツなおじさんは」

 と、詰るように返してきた。

「ここ、魔法が掛けられてる。ちょっとした封印術式の応用だけれど」

「えっ」

「魔力の痕跡もご丁寧にほとんど消されてる。かなり慎重に術を施しているみたいだね。さっき通った時はまったく気づかなかった」

「はあ、つまり?」

「ここに道がある」

 少女は呆れたような調子で、言葉すくなに答える。

「そうなのか」

「もう……あんたそんな感じでよく今まで生きてこられたね。途中で罠にかかってそうなものを」

「そりゃもう、よくわからんスキルのおかげじゃないか。無駄に多いスキルのさ」

「無駄に多いのはスキルだけじゃなく、口もそうみたいだね。そんなことはともかくとして、これほどしっかりと術が施されているんだ。ここは魔族にとってかなり重要な場所ってことになる」

 少女の言葉にようやくはっとした。すっかり失念していたが、魔法を使うのはなにも少女だけではなく、魔族もまた魔法を行使できるのだ。いや、むしろ、こと魔法に関していえば彼らの専売特許であり、少女の方が特殊なのである。

「ああ、なるほど。つまり魔族たちにとってむやみに立ち入られたくないところってことか。つまり……魔族たちはここに住み着いてるってわけか」

「そこまではわからないけれど、彼らにとっては大事な拠点か、もしくはそれに通じる道か、それか……」

 少女はそこまで述べると、ふいに口をつぐんだ。

「それか?」

 だしぬけに切られた言葉の先が気になった俺は、少女の言葉を復唱して先をうながす。

「……それか、この先に魔力の吹き溜まりがあるのかも」

「この先に魔力の吹き溜まりが……」

 少女の言葉につられて、俺も口のうちでつぶやくような調子で繰りかえした。

「確証はないけれどね。実際、私自身はそういうものを見たことがないからどんなものかわからないから。ただ口伝にそういうものがあるって話を父親から聞かされていただけだから、それが実際にどこにあるのかは私も知らない。まあ……魔族の者のみが知るってことなのかな」

 ふと少女のおもてに、一種異様なもの憂い影が落ちてきた。それを見た俺は心のうちでおや、とつぶやいたが、少女はたちまち元の調子を取りもどし、

「話がそれちゃったね、とにかくこの先道もないし、ここを通る他なさそうだ」

 と、いって岩肌へと手をふれた。

「通る他ないっていっても、封印術式だっけ? が施されてるんだろう。通れないじゃないか。それともまさか、その術式を解くことが出来るのか?」

「当たり前でしょ? 私を誰だと思ってるの? 私はお父さんの娘なんだから!」

 その刹那、少女の周囲に見たこともないような幾何学模様の円がいくつも浮かびあがった。浮かんでいる円の下にはこれまたよくわからない言語がミミズのようにのたくっている。幾何学模様の円は、少女の周りをただよいつつ消えては現れ、また消えては現れと、明滅をくりかえすと、やがて、ガラスが割れたような乾いた音を立てて砕け散った。

 すると、少女が手を触れていた岩がすぅっとしだいに色を失っていき、透明となって、やがて清らかな泉に落ちる白露の雫のごとく風景へとけていった。

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