第七章 谷の住人

しとしとと雨が窓を叩く音で目が覚め、ベットから起き上がって窓の外を眺めると、遠くにある切り立ったマスロープツ山の頂が薄鼠色に煙ってぼんやりと街の上に浮かんでいる。

 今回の依頼はどうも幸先が良くないようだ、などと考えながら茫然と外を眺めていると、だしぬけにドアを叩く音がした。足音もしなかったものだから、思わずぎょっとして肩をすくめる。俺はドアの向こうに、かるく返事をするとドアを開けたのは少女である。

 少女は眼も醒めるような紺色のワンピースに、控えめなアクアマリンのネックレスを召している。

「あんた、いつまで寝ているの? もうお昼前だよ」

「そんなに寝ていたのか、俺は」

 少女は小さくため息を吐いて、

「あんたは呑気なもんだね。この後、血なまぐさい戦いが待っているかもしれないっていうのに」

「そういうお前はどうなんだ。血なまぐさい戦地にそんな綺麗な格好で行くつもりか? もっと動きやすい服にした方がいいぞ」

「いやだね。これは淑女の嗜みなんだ。服は多かれ少なかれ汚れるものなんだから、そんなこといちいち気にしてられないよ。それに、汚れたらまた買えばいいんだからさ」

 少女は得意げな顔をし、つかつかと部屋の中へ入ってきてどしんとベットへ腰を落とした。

「その服も買ったのか?」

 と、俺が訊くと、少女はワンピースの裾を満足そうに軽く指で揉みながら、うんと短く答えた。そのような金はどこにあったのだろうか、と考え立ったところで、あの森に転がっていた三人の男を思い出す。あの男どもは見かけによらず、物持ちが良かったのだな、と思っていると、

「でも高かったんだよ、これ。昨日街で見かけた時からずっと欲しかったんだよね。でも三人からくすねた分じゃ足りなかったから、昨日の報酬は助かった」

 俺はにわかに愕然として、昨日受け取った報酬を突っ込んでおいた懐の袋に手を入れた。が果たして、中はすってんてんで金貨六枚はきれいさっぱり消えていた。金貨六枚といえば、一週間以上は贅沢が出来るほどの金額なはずなのだが、いったいこの服はいくらで買ったのだろうか。それにいったいいつ俺の懐から抜き盗ったのか、いずれにせよこの娘、想像以上に手癖が悪いらしい。

 ホテルの宿泊費は事前に渡しておいたものの、あれは俺一人分であり、この少女の分は含まれていない。今回の報酬分はそれにあてようかと考えていたのだが、すぐさま散財されてしまうとは夢にも考えていなかった。少女はしばらく財布の底をはたいて買った服を、満悦そうにひらひらとさせていたが、俺がその旨を少女に伝えると、少女はやにわに首元のネックレスをもぎ取って、部屋を出て行った。俺以外の相手にはどうも律儀であるところをみると、俺は少女からあまり好かれてはいないのだろう。

 それからほどなくして、少女はオーナーを連れて帰ってきたのだが、少女の提案は受け入れられなかったらしいことが、オーナーの気色ばんだ顔から見て取れた。

「旅人さん、いくらなんでも失礼じゃありませんこと!」

 俺は、ふんふんと鼻をふかしてにじり寄るオーナーにたじろいで、

「あ、いや、申し訳ない。なにぶん手持ちが――」

「そうではありません。いくら商家の者であるとはいえ、わたくしにも人の心というものはあります。あのようなカイツの商人と一緒にしないでくださいまし。このような年端もいかないお嬢さんから金銭を取り立てることなどできません。ましてや行倒れとなっていたお嬢さんからであればなおさらのこと。お嬢さんのお代のことならお気になさらず、いくらでもここへ居てもらっても構いませんから」

 オーナーはまくし立てるように俺へ詰め寄ってきたが、ふと我に返ったように身を引くと、ちなみに旅人さんは別ですからね、と付け加えた。

 そこですぐに、これは少女が何やら吹き込んだな、と俺が悟ったのは、少女がしすました顔でこちらを見ていたからである。

 オーナーは部屋を後にする折りに、昼食の準備が出来ているとだけ告げてから、足早に去っていった。

「これでお金の心配はなくなったね、よかったよかった」

 少女は嬉々として俺の顔をのぞき込むが、それに答えてやる気にはなれず、別の話を切り出した。

「それはそうと、今日の依頼はどうするつもりなんだ。別行動って話だったろう? 急に変更となると先方の計画も狂うんじゃないか?」

「ああ、それね。別にどうするもないよ。どうせ大した仕事じゃないし、一人かけたところで問題ないよ。あんただって後衛がいた方が安心でしょ? あ、もちろん前衛はあんただよ。か弱い私じゃ前衛は務まらないし」

「はぁ、それはわかってるが、そうじゃなく、あのイノシシ親父の護衛はどうするつもりなんだ。一緒についてくるって言ってただろう」

「大丈夫だよ。護衛って言っても、そいつはただの見張りだから」

「見張り? それはどういうことだ?」

 俺は少女の言葉に疑問をぶつけるも、少女はそれには答えず、

「それより早くしないと、せっかく準備してもらったお昼御飯が冷めちゃうよ」

 と言いながら、少女はそそくさと部屋を去っていった。

 どうも、あの大親父となにやら示し合わせているようだ。大親父がこの提案をしてきたのも、少女と城のアクセサリ巡りをした後のこと、何かないわけがない。

 さりとて、それを追及する気にもなれず、俺も部屋を出て食堂へ向かった。そこで朝食を兼ねた昼食を拵えてから、部屋へ戻って装備を整えてからホテルを出た。出掛けにオーナーへもしかすると二、三日は戻らないかもと伝えると、

「あまり無理はなさらないでくださいね、特にお嬢さんはくれぐれも」

 オーナーはそういって、日持ちのする食べ物をいくつか持たせてくれた。大親父へは昨夜のうちに電報を打っておいたので、このままマスロープツ山へ向かうことにする。

 外を出てみると、雨はすでに止んでおり、これ幸いと俺たちはすぐさま出発した。オーナーに見送られながら、俺たちは以前ここへ来た南ゲートとは反対側にある北ゲートへと向かった。

 再び返ってくる予定であるため、ゲートで一時外出の手続きを済ませてから、街道へ出ると、道なりに北上する。マスロープツ山はシュタットからちょうど真北のところに位置するので、このまま北に進んでいけばよい。

 シュタットの周辺は景色も穏やかなもので、灌木林に青々とした平原が地平の先まで延々と続いている。道の両脇には遮るものがなくひらけていて、これでお天気であれば、ピクニックでもして酒でも引っ掛けたいくらいである。晴れていたらこの灰色にぼかされた景色の先には、いったい何が見えるのだろうかと考えるほど、平穏そのものな広大な自然に垂れ下がる曇り空が少々憎らしかった。

 みちみちでは、ときおり血気盛んな冒険者達とすれ違うこともあり、その際は二、三言挨拶を交わしては別れていった。こうした挨拶の間にも、思わぬ収穫があったりする。情報や物々交換などはもちろんのこと、ことによっては金になりそうな仕事をもらえたりもする。前に少女に見せたアクセサリ(昨日、少女に管理を咎められたもの)にまつわる依頼も、元をたどればこういう交流がきっかけだった。俺としては集団よりも単独行動を好むところだが、袖が振り合うことにもなにかしらな因果があるのかもしれないと、こうした交流を極力持つようにしているのである。

 それはさておき、街道を歩いていくと間もなく二股の分かれ道が現れ、かたわらにある立て札には西にストレッチ・メイ、北にマスロープツ山とある。ストレッチ・メイへと続く道のほうをみると、すこしばかりまっすぐ続いているようだが、ちょっと先のほうで道からそれるようになだらかな下り坂になっているらしく、そこから先のほうがどうなっているのかここからでは見えない。一方でマスロープツ山へと続く道は直線状に続いている。むろん、俺たちはマスロープツ山へ続く道へと向かう。

 直線状の道をさらに進んでいくと、さきほどののどかな平原から一変して、まわりの趣がかわってくる。

 さきほどまで常連だった草木は徐々に姿を見せなくなり、ごつごつとしたむき出しの珪石が目につき始めた。土の柔らかみはしだいに石の硬さへとかわり、踏み込む足にたしかな重い手ごたえを感じるようになってきた。この辺りになってくると道と呼べる道はもうなくなり、険阻な岩肌をつたっていくような感じである。ちなみに、ところどころに朽ち木同然の道先案内板がひっそりと小さく立っているので、道先に迷うようなことはない。

 ふと少し上のほうをみると、乳白色に煙る薄雲の奥に、マスロープツ山の頂がうっすらと浮かび上がっている。

 そこからさらに先へ進んでいくと、あわい薄霧が俺たちの前に落ちてきた。かと思うと、たちまち周囲は霧の海に閉ざされてしまった。どうやら朝方の雨雲が山に悪さをしたのだろう。薄白い霧はまたたく間に俺たちのまわりを渦巻いて、景色をすべて薄鼠色に濡らしていく。

 こうなってくるといそがなければならない。さいわい、まだそれほど見通しは悪くないので、ところどころにちりばめられた道先案内板を見落とすことはないが、それでもこの辺りは気候の変動も激しいと聞く。このまま霧がどんどんと深くなってしまったら、景色が完全に白雲に閉ざされ、迷霧に境に陥ることだろう。

 されども進む先もゆっくりとつま先上がりになっているせいか、足取りがかなり重く感じるのだ。急ごうにも身体がうまくついてこない。かてて加えてこの霧に濡れた空気が、なんだか肺を重くするような息苦しさを覚えさせるのだ。

 俺はまだ旅慣れているぶん、こうした疲労にはある程度堪えられたが、こと少女に関しては消耗はかなりひどかった。少女は額から珠のような汗をにじませ、ときおり立ち止まっては、膝に手をついて息を切らせていたが、とうとうたえられなくなったのか、地面に崩れ落ちてそのまま動かなくなった。

「この辺りで一息入れるか?」

 俺は心配になって声を掛けるが、大丈夫、とだけ少女は答えて、むりやりに立ち上がると、息を弾ませながら歩きだした。俺は見るに見かねて肩を貸してやろうかと訊ねたが、少女は弱々しく首を横に振った。

 それから俺たちは白霧によどむ山岳のうもれている寂れた案内板をたよりに進んでいくのだが、この深い雲海の底では、この侘しい粗野な案内板でも、まるで如法暗夜を照らす一条の光のごとき心強さを感じずにはいられなかった。

 そうして進んでいくとやがて、霧海のなかから、高さ二十メートルはあろうかというほどの、立派な一枚岩の崖が現れ出でた。もしやあの案内板はでたらめだったのでは、と、一瞬疑ったがその疑念は直ちに晴れることになる。

 霧に煙る岩壁にはどうも道らしいものが認められるのだ、近づいて確認してみると、果たして岩壁には少々勾配のきつい坂道の切通しがある。付近に立てられた案内板には、ここより先マスロープツ山――と書いてあった。目的の場所はこの先になるらしい。

 切通しはかなり悪路で、かなりの急こう配にくわえ、ごつごつと岩肌は足場がわるく、その上岩肌が霧にぬれて滑りやすくなっていた。どうかすると足を滑らせて転倒しかねない。

 薄墨色の空へ続く山峡の先を見上げると、両脇の岩壁の間から、にょきりとマスロープツ山の頂が霧の海のなかに仄かに浮き彫りになっていた。一歩、また一歩と進むにつれて、さながら海底から浮き出づる伝説のアトランティカのごとく、山が地平の先から暗澹と濁った空へと伸びていく。

 一歩、一歩と湿った岩を踏み込むにつれて足が重くなってくる。

 すると突然ばたりと後ろのほうで音がした。振り返ると、少女が坂道の途中でへたり込んでうずくまり、大きくなったりちいさくなったりとを繰り返している。

「おい、大丈夫か? だからあの時無理せず休んでおけばよかったんだ」

 普段ならば言葉敵ならずにはおけない少女であるが、気息奄々たる今の様子では、そういう減らず口を叩く余裕すらないようだ。

「立てそうか?」

 と、訊くと、少女は肩を弾ませながら力なく首を横に振る。

 とはいえ霧もだんだんと濃くなってきているのである。このままでは本当に迷霧を彷徨うことになり兼ねない。俺は仕方なく少女を背負い込んだ。

 俺は強引に少女の手を取ってぐいと引き上げ、少女の身体を背負い込んだ。

 少女は拒絶の意を示したが、疲労がひどいこともあって、ただいやいやするように力なく首を横に振るだけだった。

 少女がいやいやと首を振るごとに、少女の柔らかな前髪が頬をさらさらと撫で、毛先から馥郁とした優雅で甘い匂いが鼻をくすぐり、少女のたえだえな暖かい息遣いが、火照った体温が、背からじんわりと染み入って、身体の芯をかーっと熱くさせるような感じだった。

 このような物言いでは誤解をまねいてしまうだろうが、けれど勘違いしないでいただきたい。これは決して邪な感情などではなく、なんというかどことなく庇護してやりたくなるような、父性を呼び起こさせるような、自我の底で長年凍り付いていた人間味を揺り起こす深みのあるぬくもりであったのだ。

 こうして背負ってみると、少女もどこにでもいるただの子供なのだということを、あらためてその時に実感したのだ。その一人の女の子が、たった一人で自身の肉親の生命を奪った憎き仇を追って、孤独に旅している。……

 少女の悲しき因業を想うと、俺はどうにも胸に迫るものを感じずにはいられなかったのだ。

 少女はなおも俺の背中を額で打って抵抗を繰り返したが、何度かするといよいよ観念したのか、じっと動かなくなった。

 俺は少女を背負ってどうにか坂道を登りきると、そこで倒れこむようにして地面へ膝を折った。

 ようやくマスロープツ山の足元へとたどり着いたのだ。

 すると折りから、少女はさっと俺の背中から飛び降りて、二歩、三歩と距離を取ってから、恨めしそうな眼の色でじっと睨んできた。

「まただ。頼んでもいないのに、勝手に助けて。そういう恩着せがましいことをするのはやめてよ」

 少女は苦りきった顔をして、俺を非難した。

「悪かったよ。でもあんな霧のなかでうずくまってたんじゃ迷子になっちまう、それに地べたに座り込んでたんじゃ、服も汚れるだろう? 服が汚れるのは嫌だろ?」

 俺がいくらか鼻白んだ調子でかえすと、少女は厳しい眼で鋭く睨んで、ふんと鼻を鳴らした。

「汚れたならまた買えばいいだけのことじゃない。私はあんたに恩を着せられるほうがよっぽど嫌だよ」

「ああ、そうかいそうかい。ならもう次はなにもしねえさ」

「そうして」

 それっきり少女はそっぽを向いてしまったのだが、灰色の霧ににじむ少女の横顔に、暗い翳りがよぎったことを俺は見逃さなかった。

 それはさておき、この辺りはすこし標高が高いためか霧はまだそれほど深刻ではなかった。

 マスロープツ山と平原との間には、真っ二つに割ったように切り立った谷が引かれており、谷には細い吊り橋が申し訳なくそえられている。

 山の麓は濃い霧がとぐろを巻いていて、吊り橋の先は見る由もなく、見えるのは霧の海原からそそり立つ山稜が曇天を突き刺している姿ばかり。

 吊り橋の長さは先が良く見えないのではっきりとはいえないが、約十メートルほどだろうか。麻綱の手すりはところどころ糸がほつれてあちこち毛羽だっており、橋を支えている鎖にひどく錆びついている。肝心の底板にいたっては、ところどころにひび割れが見られ、場所によっては抜け落ちているものまである。ためしに橋板の一枚に足を乗せて揺すってみると、麻綱がキイキイと悲鳴をあげて錆びた鎖に引かれながらのたうっている。

 これを渡ろうものなら、ともすれば谷底へ落下するかもしれない、そう考えると腹の底がぐっと冷たくなり、喉奥に何か詰まりものがあるような息苦しさを覚えた。

 谷の底を覗いてみても、霧で埋め立てられていてなにも見えず、さらさらと川が谷を滑っていく音だけが聞こえてくるが、たまにさっと風が吹くたびに、幽魔の遠吠えにも似た谷の鈍いうなりが不気味で仕方がない。谷につもった霧にまじって鼻腔にただよう、岩の濡れた冷ややかな匂いと土の蒸したような青臭さも相まってよりいっそう陰気臭い感じがする。

 こういう日でなければ、この絶景もさぞ見ものなのだろうが、状況が状況だけに、この景観が持つすばらしい感慨に、素直にふれることが出来ない。なにせ、これから少し先で魔族と殺し合いを演じなければならないのだから、無理もないことである。

 それはそれとして、マスロープツ山のふもとにある一本橋前にて待つ、という伝言を、シュタットから出立する際に門番からもらったが、おそらくこの場所に違いないだろう。しかし、あたりに人影らしきものは見当たらないところをみるに、俺たちのほうが早かったらしい。待ち人が来るのはどのくらいになるだろう。

 さきほど通ってきた坂道は、すでに灰色の濃霧に淀んでいて、ほとんど底が見えない。この濃霧では到着は大分とあとになるだろう。ひょっとすると今日はここで野宿する羽目になるかもしれない。……

 それにしても、魔族というのはなぜこういった場所を好むのだろうか。聞くところによれば彼らは、主に山岳や高原といった高い場所を根城としたがるが、渓谷や鍾乳洞など陰湿としたところにも集まりやすいと聞く。人間の目線からすると、住みにくくてしょうがないと思えてならない。

「魔族っていうのはどうしてこうも住みにくいところを選んでるのかねぇ」

 俺がだれともなしにそうこぼすと、

「単純な話だよ。そこに魔力の吹き溜まりがあるからさ」

 と、少女がすかさず答えた。

「魔力の吹き溜まり?」

「そう。魔力を感じることが出来る者なら誰でもわかる。あんたにはわからないみたいだけど」

「俺にかぎらず大概の人間はわからないだろ。なにせ魔法が使える人間の方がすくないんだから」

「そうでもないよ。魔法が使える使えない関係なく、感じ取ることは自体はできるよ。なんたってどの生き物も多かれ少なかれ必ず魔力を持っているからね。魔力っていうのはひとえに魔法を使うだけのものではないんだ」

「はぁ、それで?」

「魔力っていうのはね、生命の根源なんだよ。だから魔力が枯れると生き物はみな死んでしまうの。それはこの世界とて例外ではない。だから、そうならないために魔族がいる」

 少女はどこからかハンカチを取り出して、それを近くの腰かけにちょうどいい手頃な岩の上にひろげると、ワンピースの裾を折って静かに腰を下ろした。

「あんたも聞いたことがあるでしょう? この世界の流れをただす一族こそ魔族である、って。どの伝記にもそう書いてあるしね。それがこういうことだよ。こうした吹き溜まる魔力を正しい流れへ導いてあげるのが、魔族の本質。だから、ここに魔族が住み着いたっていうのも、元々ここは魔力の流れが芳しくないせいもあるからなんだ。一時的に流れを良くしたってすぐに戻ってしまう。だからここに腰を据えてるってことだろうね」

 少女はそこまで言うと、ふいに暗い顔をして、

「まあ人間――私たちにはあまり縁のない話だけど」

 魔族にまつわるこの話は、俺もかいつまんでは知っていたが、正直なところ眉唾物でしかなかったし、その認識は俺だけが例外というわけではない。しかし、少女のこの神妙な顔が嘘やでたらめを言っているようには、どうにも見えない。だが、そのような魔族の仔細についてをなぜ少女が知っているのだろう。やはり魔に近しい家系であれば、そうした事も教えられるものなのだろうか。

「そうなるとここの魔族を追っ払うわけにはいかないんじゃないか?」

 という言葉が口から出かかったが、ぐっと飲み込んだ。

 かりに魔族がそういった高尚な理由で魔族がここにいようとも、少女にとって、魔族はただの親を殺した憎き仇の一族でしかない。さらにはこの深き谷のどこかには少女の仇である者が潜んでいるかもしれないのだ。それをどうして、軽々しくやめておこうなどと言えるだろう。この齢の少女をして、復讐に身を捧げしめんとしたほどの憎悪を、どうして諦めようなどと言えるだろう。

「……ここの魔族を追っ払ったとしたら、ここら一帯はどうなる?」

 俺は飲み込んだ言葉の代わりに、この問いを少女へ投げかけた。

 少女はこの問いにすぐには答えず、しばらくうつむき、やがてつと顔をあげて、

「すぐにどうとはならないよ。ただ、歳月が経てば、かならず魔力の淀みがなにかしら悪さをするだろうね。それがどういった形で顕在するかはわからないけれど。あの山の噴火か、地下水脈の氾濫か、それとも地震か、あるいは竜巻か……前例が今までないからはっきりとはいえないけれど、でも確実にそれら災害は引き起こされるだろうと思う。まあ、だけどそうなる前にはほかの魔族が何とかするんじゃない? 彼らが絶滅していなければ、だけど」

 少女の口から放たれた最後の言葉はには、なんともいえない含みがあった。諦観とも怒りともつかぬ名状しがたい複雑な色が言葉端を震わせていたのである。

 俺はこの話を聞くや、にわかに強い罪悪感と躊躇が心に芽吹いた。

 魔族はなにも我々人間に対して、悪事や争いごとをするためにここへ住み着いたわけではなく、己が一族の本分を全うするためにここにいる。おそらく、カイツ商会に追われる以前から、この深き谷の底で世界の美しい姿を祈りながら、長い年月守護してきたのであろう。その彼らを追い立てるということは、とりもなおさず、世界に仇を成しているのと同じことではないだろうか。

 彼らがいなければ、この土地は今頃どうなっていたのだろう。かりにあのマスロープツ山が噴火したとして、この一帯はどうなる。

 俺はおもむろに、白絹のような霧の羽衣を纏う兀然たるマスロープツ山を見上げた。あの厳然な山が人間の身勝手な横暴に、火の粉の血潮を振りまいて怒り狂うことになるというのか。

 マスロープツ山の怒りを買えば、あの美しい平原も火の粉の雨に見舞われんばかりか、シュタットの風情ある街並みとてただではすまない。

 火事で次々に燃えうつる街並みに、生きたまま焼かれて、焼けただれた肌を引きづってのたうち回って悲鳴を上げる住人達、その上からどす黒い曇天から降りしきる降灰の雪が死の街を覆いつくす。

 そういうむごたらしい阿鼻叫喚の地獄絵図を頭の中で描いてみると、にわかに腹の底がぐっと冷たくなり、胸のうちには何やら異様なものがぷくぷくと膨れ上がって、肺をキリキリと押し拉ぎながら、喉元までせり上がってくるような感じがした。

 先ほどの少女の言葉端に含まれていた異様なもの憂い色も、これを意味していたのだろう。自身の敵討ちが、ひいては世界の摂理を揺るがすような災いになり兼ねないのだから、そこに罪悪感を覚えぬわけがない。

 俺たち二人の間に重苦しい沈黙が降りかかる。吃然とそびえるマスロープツ山が、霧の羽衣をはためかせながら、俺たちを見下ろしている。空はみるみるうちにどす黒い雲で覆われる。やがて、マスロープツの山峰に渦巻いて垂れ下がる暗雲は、時折、瞬雷を閃かせては、轟然たる雷鳴で俺たちをあざ笑うように二人の沈黙を引き裂いていく。

「すみません。お待たせしました。あなた方がカイツ様のおっしゃっていたお二人ですか?」

 ふいに後ろから声がかかる。耳障りの良いよく通る男の声であった。

 俺はさっと後ろを振り返ると、しっかりと兵装をした若く麗らかな男が立っていた。

「初めまして、私、カイツ様の遣いで参りました。アレンと申します」

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