置き去りにされた女

烏川 ハル

置き去りにされた女

   

「なんで私がこんな目に遭うの? 陽くんのバカ! 絶対に許さない!」

 麗子はブツブツ文句を言いながら、暗い山道をトボトボ歩いていた。

 舗装された道路ではないけれど、車が通れる程度の道幅であり、地面はしっかりしている。街灯は設置されていないが、空には星がまたたいており、少しは足元も照らされていた。

「さっきまでなら『きれいな夜空ね!』って思えたのに……。もうそんな気分じゃないわ!」


――――――――――――


 少し前まで彼女は、恋人の陽介と一緒に夜景を楽しんでいた。

 街から車で十五分くらい山に入った辺りにある公園だ。市内を一望できる場所になっていて、ちょっとした夜景スポットとしても知られているが、今夜は誰もいなかった。

「素敵! まるで私たちの貸し切りね!」

「ああ、ロマンチックだな」

 そんな言葉も交わすほど、良い雰囲気だったはずなのに……。

 事件は帰り際に起こった。

「ずっと座ってたら、少し寒くなっちゃった。ちょっとお花摘みに行ってくるね」

「こんな夜中に花を……? ああ、トイレか」

 そんな隠語が必要な間柄ではないが、麗子は何度もトイレを「花摘み」と言っていたので、陽介も理解。

「女は立ちションできないから不便だな。ああ、行っといで。俺は車で待ってるから」

 ところが、駐車場のトイレから玲子が出てくると、陽介の車は消えていたのだ。

「……え?」

 一瞬わけがわからず呆然としてしまうが、すぐに理解する。

 置き去りにされたのだ。

「ひどい!」

 腹が立った麗子は、山をくだる方向に歩き始める。

 一刻も早く陽介のところへ行き、文句を言ってやろうと思って。


――――――――――――


 スマホや財布が入ったポーチは、車の中に置いたままだった。

 着の身着のままで歩くうちに、少しは頭も冷やされてくる。

「陽くんったら、どういうつもりなのかしら? もしかしたら、この間マンガで読んだアレかな?」

 タイトルも覚えていないが、陽介の部屋にあった漫画だ。大学のサークルを舞台にした話で、確か主人公の妹が初登場するエピソードだったと思う。デートの途中で彼氏に置き去りにされた妹が、電車賃を借りたくて主人公に電話をかけてくる、という場面だった。

 その「主人公の妹」の友人たちの間では、そのようなデート中の置き去りが流行はやっているのだという。そういう試練を乗り越えることで、愛が深まるのだという。

「でも、そんなのマンガの中だけの話だわ。現実じゃ聞いたことないもん! でも、きっと陽くん、に受けちゃったのね!」

 現実と漫画を混同するのも愚かだが、そもそも今の状況は、あの漫画よりも過酷だ。漫画のエピソードでは、電車賃があれば一人で帰れる場所と時間帯だったけれど、ここは夜の山中なのだ。

 ただでさえ女性の夜の一人歩きは危ないというのに、それが山の中ともなれば「危ない」の意味合いも大きくなる。野生動物の危険性が加わるのだ。

 車ならば市内からすぐなので忘れがちだが、こうして歩いてみると、完全に山の中であり、人間の世界とは隔絶された感があった。もはやここは熊や猪のテリトリーであり、いつけものに襲われるかわからないのだ!

「本当に酷いわ、陽くん……。帰ったら、懲らしめてやる!」


――――――――――――


 二時間ほど歩くと、ようやく山道は終わった。街中まちなかに入った辺りには交番もあり、麗子はそこに駆け込んだ。

 交通費を借りたり、相談実績を作っておいたりしようと考えたのだ。

「おまわりさん、助けて下さい! 命の危険がある状態で、放置されて……」

「どうしましたか、お嬢さん?」

「はい、最初から順に話しますと……」

 わざと大袈裟な言い方で始めてから、麗子は詳しく事情を説明する。途中で交番の警官は「なんだ、ただの痴話喧嘩か」と言いたそうな顔になったけれど、それでも親身になって聞いてくれた。

「なるほど、確かに危険な状況でしたね」

「そうでしょう?」

「彼の方に、あなたを害する意図はなさそうですが……。一歩間違えれば、大きな事件に繋がりかねない。一応こちらから、一言注意しておきましょうか」

 親切な警官たちだった。パトカーで麗子を送り届けてくれるだけでなく、途中で陽介のアパートにも立ち寄ることになり……。


――――――――――――


「どうした、麗子? おとなしく家に帰ったんじゃなかったのか?」

 部屋の扉を開けた陽介は、酷く驚いていた。

 麗子とその後ろの男たちをチラチラと見比べている。恋人が制服の警官を伴ってやってきた、という状況に戸惑っているらしい。

「どうしたじゃないわよ! 陽くん、あんな山の中に私を置き去りにして!」

「いたずらにしては少し度が過ぎていますからね。少しお話を聞かせてもらえますか?」

「は……?」

 間抜けな声を上げて、呆然とする陽介。

 しかし、すぐに我に返って否定し始めた。

「ちょっと待ってください。置き去りって、いったい何の話ですか? 確かに今夜、俺は麗子と夜景を見に行きましたけど……。ちゃんと車に乗せて帰ってきましたよ」

 言葉遣いから考えて、警察に対する発言なのだろう。

 しかし警官より先に、麗子がこれに反応した。

「嘘言わないで! 私のこと、あそこで置き去りにしたでしょう? 私がトイレに入ってる間に!」

「おいおい、それこそ嘘だろ? トイレのあと、お前、車に乗って……。帰りは気分悪そうだったから、俺『あんまり話しかけないで、そっとしておこう』って気遣ったんだぜ。それなのに……」

「ええ、確かに帰りは気分悪くなりましたよ。暗い山道を、一人で歩いてきたんですからね! 陽くんに置き去りにされたから!」

「いや、だから置き去りって何の話だよ?」


「まあまあ、二人とも落ち着いて」

 二人の言い合いは埒があかず、警官が割って入ったが、そのタイミングで陽介がハッとした表情を見せる。

「そうだ、車載カメラだ! あれが証拠になる!」

 彼の車に取り付けられたドライブレコーダーは、車外だけでなく車内も記録するタイプだった。

 早速みんなで確認してみると……。

「ほら、ちゃんと写ってるだろ!」

「でも、これ……。私じゃないわ」

 カメラの角度的に、助手席は一部しか映像に入っていない。誰かが座っているのは確かだとしても、その顔は全く見えていなかった。

「何言ってんだ? 俺、お前の家まで送り届けたんだぜ」

「だって、着てる服が違うもの。ほら!」

 麗子は自分の服をつまんでみせる。車載カメラの女と同じく、薄黄色のブラウスとベージュのスカートだが、麗子の方は所々にレースの飾りがあるのに対し、助手席の女にはそのような装飾は全くなかった。

「陽くん、私の服に無頓着なのね……」


「つまり……。間違えて別の女性を乗せてしまった、というわけですな?」

 よく似た服装の女が、たまたま同じトイレに入っていて、麗子より先に出てくる。トイレの前の駐車場に車があったので女性の方はヒッチハイクのつもりで、陽介の方では麗子と誤解して乗せてしまう。

 陽介はいつも通り麗子の家の近くで降ろしたし、女性の方では「ヒッチハイクだから、どこまで乗せるかという決定権はドライバーにある」と受け取って、素直に降りた……。

 警官たちはそのように結論づけて、最後に、

「今後は気をつけてください。車に人を乗せる時は、よく顔を見て、間違えのないように」

 と言い残し、帰っていった。

 部屋に残された二人は、どちらも釈然としない顔をしており……。

「なあ、麗子。あの時、あの公園にいたのは、俺たちだけだよな? 女子トイレも、他に誰もいなかっただろ?」

「うん。確かめたわけじゃないけど……」

「じゃあ、あの女、いったい何者だったんだ?」

「そんな女性ひと、本当にいたのかしら?」

「だって、車載カメラには……」

「ねえ、陽くん。その女性ひとが降りたあと、助手席のシート、濡れてなかった?」

「おい、やめろよ。そんなタクシーの怪談みたいな話……」

 二人は背筋が寒くなり、まるで示し合わせたかのように同時に、体をブルッと震わせるのだった。


――――――――――――


 それから三日後の夕方。

 デートの途中、急に雨が降ってきたので、麗子と陽介は近くの喫茶店へ。

 麗子がアイスティーを、陽介がコーヒーを飲んでいたところで、陽介のスマホが鳴る。親友の健二からの電話だった。

「どうした? 何か急用か? 俺、今、麗子と一緒なんだけど……」

 たいした話でないならば、陽介はすぐに切りそうな雰囲気だ。少しの間だけ待つつもりで、麗子は窓の外に視線を向ける。

 空は分厚い雲に覆われており、しばらく雨はみそうになかった。

 彼女に聞こえるのは陽介の声だけで、健二が何を言っているのか、麗子にはわからない。それでも構わないと思っていたのだが……。

「ええっ、優子が!?」

 陽介が大声を上げたので、麗子は驚いて彼に向き直る。他の客も彼に注目するほどの大声であり、麗子は少し恥ずかしいと感じたが、それどころではなかった。

 陽介が真っ青な顔をしていたのだ。

 それに、優子という名前にも聞き覚えがあった。

「陽くん、どうしたの?」

「ああ、うん」

 陽介は声をひそめて、麗子にギリギリ聞こえる程度の小声で伝える。

「知り合いの女の子がさ、自殺したんだって。三日前の夜中に」

 陽介は「知り合いの女の子」という言い方で誤魔化したけれど、麗子はきちんと知っていた。優子というのは、以前に陽介が付き合っていた、いわゆる元カノの一人だ。

「三日前の夜中? それって……」

 驚きながら聞き返す麗子に対して、陽介は頷きながら答える。

「ああ、例の置き去り事件があった夜だ。死亡時刻も、ちょうど俺が謎の女性を乗せて帰った頃だったらしい」

 陽介の「ちょうど俺が謎の女性を乗せて帰った頃」という言葉を聞いて、麗子はふと考えてしまう。

 同じ頃、自分は陽介の文句を言いながら山道を歩いていたが……。自分よりも優子にこそ「陽くんのバカ! 絶対に許さない!」という気持ちが残っていて、だからわざわざ最期に霊として彼のところに現れたのかもしれない、と。




(「置き去りにされた女」完)

   

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置き去りにされた女 烏川 ハル @haru_karasugawa

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