怪談~眺めつづけし老木の花の頃
オボロツキーヨ
御痔の薬あり
(一)
花のお江戸、谷中の門前町に住んでいながら、気づかなかったわ。近所に一軒間口の小さな店があって「
「ここの
狆を撫でながら、冷やかしで声をかけてみた。
痔の薬の他に、爺たちが書いたらしい大橋流の習字の手本も売っていた。誰が買うのかしらね。狆はしっぽを振って迎えてくれたけど、爺たちは、にこりともしない。こんなきれいな若い女客が来たっていうのに。感じ悪いったらありゃしない。すぐ店を出ようとしたけど、奥に座っている一人の爺と目が合ってしまって、
あたしは痔持ちじゃないから、行きつけの呉服屋のちょっと気になる
その昔、筑前福岡の城下で知らぬ者はいないほど、武芸に秀でた若侍の
二人は互いに惹かれ合い義兄弟の契りを結んだ。つまり
だから二人は脱藩して、
衆道は若い時分だけの事で、ふつうは弟分が前髪を落として元服して、兄分が嫁をもらえば、そこで男同士の恋は終わり。その後は親友として付き合うようになると聞いたけど。あの二人は筋金入りの衆道者で女嫌いなのよ。ちなみに、その呉服屋の大旦那は奥様と死に別れてから、衆道にはまったらしいわ。きっと、
(二)
「よし、少ない髪で、なんとか
近頃、歳のせいか物忘れがひどくなったと思う。
「兄さん、
「そう、それだ」
六十六歳の半右衛門は慣れた手つきで、六十三歳の主水の白髪を若衆風に結い上げた。仕上げには白梅のような、甘く爽やかな香りの鬢付け油をなじませる。
脱藩してから数十年。主水は相変わらず十代の若衆の髪形をしていた。房楊枝で丁寧に歯を磨く。髭を抜く。若衆の身だしなみを欠かさない。暮らしのために、藩士時代の上等な着物や道具はすべて売り払ったが、若衆の華やかな振袖と袴を
「兄さん、得意先の大旦那へ薬を届けてくるよ。夕方までには帰るからね」
「すまない、腰の具合が悪くて歩けない。気をつけて行って来てくれ」
「ゆっくり寝ていてよ。久しぶりに薬代がたくさん入るから、夕飯に何か美味い物を買うよ」
うだるような夏の日、扇子が手放せない。空色の木綿の
(三)
「暑いから、帰って来たらすぐに行水させてやろう」
半右衛門は、猫の
「よし、こうして、盥に水を入れて日に当てておけば、わざわざ湯を沸かさなくとも、水は
ひと仕事をした半右衛門は、庭に面した狭い縁側にごろりと寝ころんだ。
どれぐらい眠っていたのだろう。目を覚ますと。あたりは暗くなっていた。薄暗がりの庭に、ぼんやりと人影が浮かぶ。こちらに背を向けて人が立っている。
「主水、帰ったのか」
声をかけたが返事が無い。
人影は半右衛門を誘うかのように、後ろ向きで両肩を見せてから背に滑らすように、着物を脱ぐ。ほっそりとした後ろ姿。白い
「おかえり、疲れただろう。背中を流してやろう」
そう言いながら半右衛門は近寄り、濡れ手ぬぐいで首筋や背を撫でる。
「ありがとう。気持ちがいいよ。あの、兄さん、半右衛門様、お願いがあります」
「何だ、あらたまって」
「わたしと心中していただきたいのです。いつの間にか歳をとりました。昨日は少年、今日は白頭。もうこれ以上、長生きするのがつらいのです」
背を丸めて、首をうなだれる。
「どうした、体が冷えている。水が冷たいのか。いや、そりゃ誰でも皆歳をとる。
半右衛門はそう言いながら、尻を撫でまわし、褌の前のふくらみに手を入れる。
「今すぐ兄さんと一緒に死にた、あ、ちょっと、やめて。真剣な話しているのに」
悪さをする手をばちんと叩く。
「む、好きにさせぬというのか。
半右衛門は立ち上がり怒鳴りつける。
それに答えるかのように、突然、雷鳴がどどろき
「死ね、半右衛門」
「く、苦しいやめろ。誰だ、おまえ」
足をばたつかせて、のけぞる半右衛門の頭が土にめり込む。
「好色な爺め。おまえに恨みがあって、こうしてあの世から戻ってきた。その昔、博多小女郎主水を奪い合い、ついには果し合いをして切り殺された。
歯をむき出し、目を大きく見開き凄む。
「そうか、横恋慕してきたおまえか。哀れ幽鬼となり果てたか。こうして主水に化けて現れるとは、まことにしつこい」
腰を痛めている半右衛門は、仰向けのまま起き上がれないで、もがくばかり。赤い顔の幽鬼を睨みつけ、締め付けてくる手を解こうとするのが精いっぱいだ。狆の
「
聞きなれた、やや甲高い男の声が響く。
主水が帰って来た。夏菊をひらり飛び越え、腰に差した脇差をすらりと抜き、幽鬼の背に「えい」と振り下ろす。幽鬼だから手ごたえはない。そもそも本物の刀ではない。刀身が竹製の見せかけの刀。だが切先は鋭くとがっていた。主水は敵の前に回り込むと、刀を握り直す。そして、己に似た幽鬼の目を思いきり突く。
「ぐわっ、目を狙うとは卑怯者。主水よ、おまえは昔からそうだった。情け容赦ない残忍な若衆。だが、そういうところも好きであった。地獄で待っておる」
目から赤黒い血を流した幽鬼は、そう言い残して、しゅるしゅると萎み、夕闇に消えていった。もう雷は止んでいる。
「待っているだと。愚か者め。わしらにかなうものか。あの世でも、また返り討ちにしてくれるわ。はははは」
半右衛門はそう叫んで
「兄さん、幽鬼を庭で行水させるなんてどうかしている。しっかりしてよ」
「いや、薄暗かったから、よく見えなかった。でも、近くに寄ってよく見たら、おまえではないと、すぐ気づいたぞ」
「気づいていたなら、いいけど」
主水がふくれっ面をする。
「それにしても、数十年前にその手で亡き者にした男に、今だに執着されているとは。つくづくおまえは、もてる」
半右衛門が恨めしげに言う。
「へっ、兄さん、やきもちかい。起き上がれますか」
「ああ、すまん、手を貸してくれ」
「兄さんの好物、鰻の蒲焼を買ってきたよ。冷めないうちに早く食べよう。長い行列に並んで買ったんだ」
主水は半右衛門を抱き起して、髷や浴衣に着いた土をはらう。主水の薄い肩を借りて立ち上がった。
「ほら、肩につかまって。ゆっくり歩くよ」
「うう、博多の横恋慕幽鬼にやられた」
「お
「いや、拝み屋に払う金はない。わしらで適当に供養しよう」
「そうだね」
二人の後ろには、
「ところで、兄さんはどうして、わたしじゃないと気づいたのですか。あの幽鬼は、わたしそっくりに化けていたのに」
半右衛門は知っている。主水の背中は痩せて骨ばっている。腰から下は皺とたるみがある。だが、幽鬼が化けた主水の背と腰は、なめらかで張りがあった。あれは二十年前の裸体。このことは主水には言えない。
「昨日の少年、今日の白頭」
心の中でつぶやいた。
「そ、それはだな、香りだ。おまえなら良い花の香りがするはず。ほら、あれ」
言葉につまる。
「花の露」
主水が笑いながら言う。
その邪気の無い笑顔は、今も博多小女郎など足元にもおよばないほど美しいと、半右衛門は思う。二人は仲睦まじく一匹の蒲焼をつつきあう。
(了)
怪談~眺めつづけし老木の花の頃 オボロツキーヨ @riwa
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