転がるセミの日常
「……ピアノ、惜しかったね」
会場から出た帰り道、気まずそうに絢音が言った。
必死にフォローしようとした結果から出た言葉なのだろう。しかし実際の演奏はというと、あまりの酷さに聴くに堪えない最悪の出来だった。震えで何度もミスをしたり、テンポがぐちゃぐちゃだったり、なんなら一度演奏が止まったりもした。課題曲を練習する前の方が遥かに良かった。
演奏後すぐに先生が飛んできた。
「何があったの、立鹿君。本当にどうしちゃったの」
練習の時よりも酷くて、過去最低レベルのゴミみたいな演奏をしたのに、先生はそのことを全然咎めず、むしろ俺のことを心配してくれた。
それが本当に辛くて、悲しくて、申し訳なくて。
先生のお陰でここまで来たのに、不義理なことばっかりして、結局全国っていう夢も叶わなくて。
でもさ、言えるわけないだろ? もうすぐ死ぬんだぜ、俺。
今もすぐ後ろにいてさ、いつ触られてもおかしくない距離にいるんだぜ? そんなの仕方ないって。きっと俺みたいな立場になったら誰だってこうなるだろ?
それに、必死に足掻いて藻掻いて、なんとかこいつの手から逃げ切ったとしてもさ、それでまた絢音のところに来たら意味ないじゃないか。その結果先生も巻き込まれるかもしれないしさ。
だからさ、これが一番良いんだよ。むしろこうするしかなかったんだよ。
「——あぁ、そうだな。折角絢音が来てくれたのに、不甲斐無い演奏でごめん」
「別に謝ることないよ。久しぶりにこーくんがピアノ弾いてるところが見れて良かった!」
絢音が気を遣ってくれている。俺にはその優しさが痛かった。
それからはお互いに無言の時間が続いた。
俺は気丈に振る舞いたいのにどうしても声が揺らぐから、それを絢音に悟られないように黙っていて、一方絢音は、多分俺があんなゴミ演奏をして落ち込んでると思って、あえて黙ってくれているのだろう。まぁ、落ち込んでるのはそうなのだが、他にも要因があるとは思われていないはず。
ただそんな時間が続くのは、いつもの帰り道の雰囲気とはかけ離れていて、俺だけでなく絢音も嫌なんだろうなというのは容易に察せられた。
途中、1匹のセミの死骸が歩道脇に転がっていた。
周りには誰もおらず、独り寂しく死んでいる。たった1週間しかない命の果てがこの有様とはなんとも物悲しい。
このセミは、この1週間で何をしてきたのだろう。虫取り少年時代に覚えた性別の見分け方によると、多分こいつはオスだったはず。
ならこいつは、暑い夏空に力一杯鳴き叫んで、無事につがいになれたのだろうか。
それとも、意中のメスに見向きもされず、その灯火を消してしまったのだろうか。
……そうじゃなかったらいいな。
「——なぁ、絢音」
俺は立ち止まって、思い切って言うことにした。
「ずっとさ、絢音に伝えられなかったことがあるんだけど」
「ん、何?」
絢音が不思議そうな顔を浮かべる。
まぁ無理もない。俺もついさっき思いついたんだ。きっと驚くだろうけど。
でもせめて、最期くらいは俺の我儘を許して貰えないかな。
「俺さ、絢音のことが好きなんだ」
直後、絢音の顔に驚きの表情が広がっていく。
「ずっと前から、絢音と会った日から、ずっとずっと好きでした」
ここで全国の切符獲れてたらかっこよかったんだけどな。情けない結果で雰囲気とかガン無視でごめんな。
でも、もう今しかないからさ。
「……実はね、薄々気付いてたの」
深い沈黙の後、絢音はニコッと微笑んだ。
「私と他の子とでは話すときの表情がちょっと違ったし、何かと私のことを心配してくれるし」
そして、頬を赤らめながら夕日を一身に浴びる彼女の笑顔は、
「私もこーくんと会った日から、ずっとずっとずーっと、こーくんのことが大好きでした」
——哀しいくらいに美しかった。
「そう、だったのか」
なんだ、単に俺の意気地がなかっただけだったのか。絢音の人気ぶりから俺と絢音は釣り合わないって思ってたのに、そんなこと関係なかったのか。俺が絢音を見ていたように、絢音もいつも俺のことを見ていたのか。
あぁ、クソったれが。
「だったら、もっと早く告白すればよかったな」
そうすれば、もっと絢音との思い出を作れたのに。
「そうだね。ずっと待ってたんだよ? でも、それももうおしまい。これからは、もっとこーくんと一緒にいられるもんね」
それができれば、絶対に最高なんだろうな。
「ねぇ、まだ夏休み入ったばっかなんだからさ、いろんなことしようよ。海とかプール行ったり、お祭り行ったりしてさ!」
「それは今までもそうだっただろ」
「違うよ、あれは家族ぐるみだったじゃん。今年はこーくんとふたりで、ふたりだけで行きたいの。……ダメ?」
小首を傾げながら絢音は上目遣いで訊いてくる。
本人としては無自覚にやってるのだろうが、そんな可愛すぎる仕草で訊かれたら誰だってNOとは言えない。
でもそうだな。きっとそういうのも——。
「良いかもね」
——叶うとしたら、の話だけれど。
「でしょでしょ! 絶対に行こ! ふたりで最高の夏にしよーぜー!」
絢音は右腕を軽く上げて、楽しそうに笑顔を見せた。
きっと俺と過ごすこの夏のイベントの数々に想いを馳せているのだろう。もしかしたら夏を終えて文化祭だとか、クリスマスだとか、あるいはもっと先の未来のことにも。
胸がズキズキと痛んでくる。素敵で甘美な妄想に溺れたくて仕方ないのに、現実はそれを許してはくれない。
絢音が俺のことを好きだって知って、本当に嬉しかった。これから絢音といろんな日々を過ごせたらどれだけ幸せなんだろうなって、本気で思ってる。
なのに、なのにっ……!
「……あっ、そうだった。ごめん、絢音。ちょっと先生と反省会するんだったわ」
「あ、そうなの。終わるまで待ってるよ」
「いや、ちょっと長くなると思う。もしかしたら夜になるかも」
「そうなの? あー、じゃあ今日はもうここでお別れかぁ」
残念そうに絢音は呟いた。
彼女に嘘を吐いたせいか、胸の痛みがさらに強まった気がした。
「まぁ、でもいっか。近いうちに遊びに行こうよ、前言ったDSJのチケットの期限もあるし。明日、は無理って話だから、えーっと……」
「そういうのは後でラインで話そう。絢音もバイトあるんだし」
「そうだね、分かった。じゃあまた夜に!」
「オッケー、じゃあな」
俺は手を振って来た道へと足を戻す。
ごめん。本当にごめん。
約束までしたのに、君は幸せな未来の話ばかりしてくれるのに、俺は君の過去にしかなれない。
でもそんな俺をどうか許してくれ。君の希望を奪ってしまう俺の悪辣さを、叶うはずの願いを捨て置く俺の愚かさを、どうか許してくれ。
でもさ、これだけは嘘じゃないんだ。
「絢音!」
俺は振り返って力の限り叫んだ。
「大好きだよ」
遠くに見える彼女の表情はとても嬉しそうだった。
「私も!」
絢音はそう叫ぶと俺にぶんぶんと手を大きく振った。
それが最後の別れとも知らないで。
「……っ!」
目を伏せ、俺は会場の方角へと走った。
……絢音はまだ俺を見ているだろうか? あの信号まで行けば大丈夫だろうか?
1分くらい走って、はぁはぁと呼吸を整えつつ、後方を確認してみる。
流石に絢音の姿は見えなかった。
その事実に安堵しつつも、俺の胸中には寂しさが残る。
——もう、絢音には会えないんだ。
「あぁ、そうだよ。よく耐えたよ、俺」
視界が歪み、瞳から水滴がとめどなく溢れてきて、思わず口角が上がってしまう。
やりたかったことはたくさんある。悔いが残る人生だったことは否めない。
でも、彼女の前でかっこつけられたんだ。それならもう良いじゃないか。
絢音は死なずに済んで、周りにも死にそうな人はいない。俺が死ぬだけで解決するんだ。安いもんだろ?
「あぁ、でもなぁ……」
そうは思いつつも、やはりいろんなことが脳裏を過ぎる。
もっとピアノを上手く弾けたらなとか、告白はあれで良かったのかなとか、いややっぱり絢音のことを思えば告白しない方が良かったかもとか、でも絢音から『好き』の一言が聞けたから別に良いかとか。
……あっ、そういや遺書とか何も書いてなかったや。お父さんもお母さんも、俺のためにいろいろ尽くしてくれたのに、何も返せてないな。親より先に死ぬとか本当俺親不孝だよ。
先生にも何もお返しできてないよ。何よりも俺のことを優先して考えてくれたのに、もっと話とかしたかったのに。せめて全国行けてたらなぁ。拍手喝采で金賞獲ってさ、先生に恩返ししたかったのにな。
他にも友達とか、教室の知り合いとか、学校の先生とか。みんなのお陰で毎日が楽しかったのに。
そして、やっぱり。
『——私も、こーくんと会った日から、ずっとずっとずーっと、こーくんのことが大好きでした』
「ああああああぁぁぁぁぁぁぁあああああぁぁぁっ!!!!!」
足が震えに震えて、膝から崩れ落ちてしまった。
路上に両手を着けるなんて、子どもの頃走って転んだ時以来だ。
しかしそこから立ち上がろうにも力が入らない。
道行く人々からの無数の視線を感じる。みんな俺のことを変な奴だって思ってるんだろ。俺も多分そんなやつ見たら何やってんだろアイツ、って思うよ。
だけど、もう意味ないんだよ。
俺の背後の影がさ、あの日あの公園で見た少年の時くらい近くなってるんだもん。今更何やっても無駄。数分後には三途の川でも渡ってる。
あぁ、絢音。君と出会えてよかった。君との学校生活が、帰り道が、俺にどれだけ幸福をもたらしてくれたか、きっと分からないだろう。
君が俺のことを好きでも、それ以上に俺が君のことが好きなんだから。
まぁ、だからこうなったんだけどさ。それでも俺の想いの全ては伝わらないだろ。
そう、伝わらないんだ。伝わらないんだよ。
もっと君の隣に立ちたかった。
もっと君の笑顔を見たかった。
恋人繋ぎとかしてみたかった。キスの味も知りたかった。
君への願望が瞼の裏に映し出される。その姿は瞬間瞬間毎に表情も服装もポーズも違っていて、全部が全部どんな芸術作品よりも美しかった。
一歩、背後のソレが近づいた。
……そうだよ。君という存在が、俺のすべてだったんだよ。
実はさ、俺が今日までピアノを続けられたのも、絢音のお陰だったんだぜ?
親に無理矢理習わされたのに頑張ってたのは、昔絢音が俺の演奏を褒めてくれたからなんだぜ? かなり前のことだからもう覚えてないだろうけどさ。
俺の生きる意味は、価値は、そのすべては、絢音がいるから成り立っていたんだよ。
一歩、背後のソレが近づいた。
だから、君が死ぬ必要はないんだ。
君を捨てるようなクソみたいな俺のことはとっとと忘れて、もっと君を大切にしてくれる素敵な男を見つけなよ。
一歩、背後のソレが近づいた。
思えば、俺は幸せ者だったんだな。あんなに可愛くて良い子と幼馴染で、両想いの関係で。ラブコメかっての。んでそんな最高のヒロインを救うために陰ながら奮闘する俺はラブコメの主人公か? それともミステリーとか何かだったりするのかな。ははは、おもしろ。
ははは、はは、はは。
半歩、背後のソレが近づいた。
絢音とのDSJ、どんな風だったんだろうな。あいつ、絶叫系大好きだからちょっと前にできたジェットコースターとかどれだけ並んでても真っ先に乗りそうだよな。それか朝イチで入園して最初に乗りに行こうとしたのかもな。
あーあ、一緒に行きたかったなぁ……。
きっと楽しいんだろうなぁ……。
約束、守りたかったなぁ……。
あーあ……。
『——これからは、もっとこーくんと一緒にいられるもんね』
………………あぁ、やっぱり。
どれだけ心を落ち着かせようとしても、どれだけこの状況を正当化しようとしても。
やっぱり。本当は。
「——じに、だく、ないよぉ……!」
その時、俺の頭に何かがポンと触れた。
誰かが手を当てているような、そんな感じだ。
手はそのまま優しく動いて、俺の頭をゆっくり撫でる。
振り返ってみると、その手の正体は俺が疎んで厭って忌まわしく思っていた黒い影のものだった。
死神なはずなのに、イメージしていた感触と違って柔らかさを抱く。
影は俺の顔を見ていた。俺も影の顔を見ていた。
表情も見えないくらいソレの顔は真っ黒いというのに、その目からなんとなく表情が読み取れるような気がした。
影は笑っていた。嘲りや慰みのない、慈愛に満ちた笑みだった。
そうして影は口を開き、こう言った。
「——」
その時だった。
「あ、あぶないっ!!」
向かいの通りから男の叫びが聞こえた。
直後、金属がアスファルトの地面に落ちる嫌な音が聞こえ、バットで殴られたような衝撃が頭上を襲った。けれども痛みは何故か来ず、頭から伝わる手の暖かさが何だか心地良かった。
そして俺の視界はいつの間にか真っ黒に染め上がり——こうして、俺の日常はありきたりな非日常で幕を閉じた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます