生者に送る鎮魂歌
『次は、4番。立鹿 香一さん、演奏お願いします』
喜ばしいような、緊張で気持ちの悪いような、複雑な心境で遂に本番を迎えた。
覚悟を決めて、なんとか昨日のレッスンで先生を納得させたお陰で手に入れることができた、最初で最後の全国を賭けた片道切符。それを無駄にしたくはない。
尤も、あれから何度も泣きじゃくり、嘔吐して、メンタルはボロボロに近いのだが。
俺は舞台へと出て観客にお辞儀をした。
なるべく優雅に、品を感じさせるように。
こんな状態でも、コンクールではこう言った所作も採点の対象になるため、軽率な行動はできない。それにこれが最後の演奏になるんだから、不格好なまま終わりたくもない。
拍手で迎えられ、顔を上げる。
今までのコンクールよりも、圧倒的に観客が多い。数百人という観客から注目という名の重圧を与えられる。みんながみんな、俺の演奏がどんなものかと目をぎらつかせているのだ。
だが、その程度でたじろいだりはしない。どうせ今日中に死ぬんだ。人の目なんか気にしてられるか。
それに、今日は絢音が来てくれている。
絢音が俺の演奏を待っていると思うだけで胸が躍り、勇気が湧いてくる。
そうだ、絢音はいつだって俺の希望なんだ。君がいてくれるだけで、俺はなんだってなれるんだ。
ピアノの前に座り、数秒程瞑目する。
嫌なことはたくさんあった。そしてこれが終わった後も最悪な事が待ち受けている。
でも、今はこれだけに集中しよう。今この瞬間を最高の時間にしよう。
そうして金賞を獲って、最後に先生にありがとうって伝えるんだ。
——さぁ、素敵で馬鹿げた生前葬を始めよう!
壊れかけの心を奮起して繋ぎ合わせてた俺は目を開け、鍵盤に指を落とそうとして——ピタリと止まった。
静かな空間、誰もが俺の最初の1音を待っている。
広いホールの中だ。自宅や外みたいにセミや環境音なんかまるで聞こえない。真の静寂があるとするのならばまさにこの状況がそうなのだろう。
だからこそ、ありありと感じられるのだ。
死という根源的な恐怖が。それが具現化した影の姿が。
「うわっ……」
その音にドン引きするような声が客席から聞こえた。あるいは俺の声だったのかもしれない。
でもそんな声が漏れ出るのも仕方ない。なにせ1音目から音を外したんだから。
それだけじゃない。2音目、3音目、すべてが狂い、弾きたい音が何も出なくなってしまっている。
不協和音は始まりだしたら止まらない。視界に靄がかかっているせいで楽譜が読めず、ピアノから稚拙な旋律が流れ出す。それはもはや弾くべき課題曲の原型を留めておらず、鍵盤を叩く度にコンクールという大切な場を侮辱してしまっていた。
——やめろ、やめろやめろやめろ!
震える指に、際限なく涙を流す涙腺に、そう訴えかけるも身体は言うことを聞かない。
絢音から受け取った勇気はどこかへ消え失せ、先生への恩義は心の奥底で引っ込んでいる。
ふたりから貰った物はたくさんあるのに、ふたりの期待に応えられないのだ。
最後の演奏なのに、もうピアノに触れられないっていうのに!
地獄の演奏はいつまでも続く。
ただでさえボロボロだった俺の心は狂った音に嬲られ、審査員の視線に潰され、観客の小さな騒ぎ声にギタギタに引き裂かれて、完膚なきまでにボコボコにされて。
そうしてすべての演奏を弾き終えた後に残ったものは、義務感に駆られた拍手の音だけだった。
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