紙魚の親父

 ごみごみした街の片隅。大通りから一歩入った狭い路地の中、マンションやアパートに挟まれるようにして、一見して古い一戸建てが立っている。時代がかった看板に、「清水古書店」とかかれていた。



 さて、いつからあるものかわからない。少なくとも、真由子が子供の頃からそこにはある。しかし、実際、真由子が店に入るようになったのは、つい最近のことだ。

 今は高校生の真由子は、学校帰りに、時々本を覗きにいく。清水の本屋には、とんでもなく古い本がたくさんおいてある。新しい本や漫画本はどちらかというと少ないが、なにか通好みの、とでもいえばいいのか、特定の客が捜し求めてやまないような、そんな本がおいてあることが多い。だから、案外常連客もいる。

 真由子は、というと、読書の好きな真由子だが、本好きが高じてどちらかというとマニアックなものを求めてしまう傾向にもあるので、普通の本屋では事足りないこともあった。そういう意味で、清水古書店は、とてもよい店なのだ。古本だから、安く手に入るし、新品しかない本屋では見つからない廃盤の本もある。

 あいたままの扉をくぐると、瓶底みたいな黒ぶち眼鏡をかけた初老の男が、こちらをじろりとみた。小柄だが無愛想で、ぶっきらぼうなそれが清水古書店の主だ。

「なんだ。お嬢ちゃんか、久しぶりだな」

 清水古書店の店主のおやじがそういって、無愛想ながら手を上げた。

 彼は、常連客に紙魚しみの親父と呼ばれている。清水の親父がなまって”しみの親父”になったんだろうということだが、実際、古書に埋もれそうなこの古い店で生活している親父を例えるのに、紙魚は丁度よい。

「紙魚のおじさんこんにちは」

 真由子はそう挨拶して、店に入る。黴くさい、とまではいかないが、しけった古紙の香りがする図書館の書庫の中みたいな店だ。もっとも、図書館の書庫にすわっていると、何となく落ち着いた気分になることのあった真由子には、割と好ましい環境である。

「ん? なにか探し物かい?」

「ええと、今日は昔小学校の時に読んでいたアルセーヌ・ルパンの本のシリーズを探しに来たのよ。きっと、ここならあると思って」

「おお、あれか」

 紙魚の親父はにやりとした。

「あの、なんか毒でも染み付いていそうなドギツイ表紙の奴だな」

「そうなの。それ」

 真由子は、にこりとして言った。

「ありゃあ、新しいのが出てただろ」

「ええ、でも、立ち読みしたら、なんだか昔のと違うところがあるような気がして。それに、装丁が違っちゃうと、まるで別の本を読んでいるみたいになってしまうもの」

「違いねえな」

 紙魚の親父は、妙に感心したようすで立ち上がる。

「それなら、ほれ、その辺の棚に入ってらあ。すきなの、持っていきな。安くしとくぜ」

「ありがとう、おじさん」

 真由子は、紙魚の親父に指差されたとおりの棚に目を向けた。親父が言ったとおり、例の見覚えのあるドギツイ色彩の本がそのあたりに並んでいた。なかなか品揃えが良くて、図書館に置いていなかったものまであるようだ。これは、一度では買いきれない。

 ピンチに陥るルパンにはらはらしながら読んだ小学生の自分が思い出されて、真由子は思わず苦笑した。

「それじゃあ、今日はこの三冊にするわ」

「おう。じゃあ、全部で二百円でいいぜ」

 紙魚の親父はぶっきらぼうに本を受け取って、茶色のびらびらした紙袋に本をぶち込んだ。

「二百円でいいの?」

 しっかり負けてくれているのは間違いないのだが、そんなとき、こんなに安くしてくれて、紙魚の親父は生活が成り立つのだろうか、とか、真由子は要らぬ心配を思わずしてしまう。別に意識して選んだわけじゃあないけれど、この本だって初版だから、後々うっかり価値がでることだってあるかもしれない。おまけに、古本だけどとても状態がいい。

 だが、紙魚の親父だってそんなことはわかっている。

「こういうのは、本当にほしい奴にひきとられたほうがいいんだよ」

「そう? ありがとう、おじさん」

 真由子は、とりあえず礼をいって頭を軽く下げた。と、不意に親父が読んでいる本に気づいて首をかしげた。

「おじさん、何を読んでいるの?」

「ああ、これか」

 親父の読んでいるのは、それこそ、古い本だ。なんだか漢字がびっしり詰まっていて、息が苦しくなりそうだ。

 大きな字で一行にびっしりかかれているのと、その後ろに小さな文字で一行に二行にわけてみっしり文字が詰まっているのがわかる。体裁は原稿用紙をそのまま二つに折って作ったような感じだ。なんだろう。隣に木箱がおいてあるのだが、そこに墨で漢字が書かれている。漢籍だろうか。

 じっと真由子がみているのに気づくと、紙魚の親父は、ああ、と声を上げた。

「ふふん、お嬢ちゃんには、まだちと早ええかなあ? だが、昔の人間は、こーゆーのをガキの頃から読まされていたもんだぜ」

「これは、中国の本?」

「まあ、そんなもんだ。これは、四庫全書の写しなんだぜ。ほれ、そこに箱があるだろ。昔の本は、箱にいれて紐かけて大切に保存してんだ。だから、本読むことを”紐解く”っていうだろう?」

「四庫全書?」

 歴史の教科書で読んだ覚えがある名前だ。それほど詳しくはないが、清の乾隆帝という皇帝がつくらせたものだったか。

「これは、その中でも、司馬遷の書いた史記ってやつ」

「史記って、項羽とか劉邦とかがでてきたりするの?」

「それ以前もそれ以降ものっているんだ」

 紙魚の親父は、感慨深げにため息をついた。

「史記っていうのは、人間人間にスポットを当ててるんだぜ。年表どおりになにがあったなにがあったじゃなくて、なになにっていう人はどんな奴でどんなことをしたのかっていうのが書いてある。面白いぜ。他人の一生を読むっていうのは。もちろん、すげえ省略したものだけど、俺達が影も形もない昔に、こういう人間がいたって知るのは、なんだか驚きだ。時には、共感してしまうことだってあるんだぜ。おかしいよなあ。二千年も前の人間と、俺達って、そんなに変わってねえんだ。結局人間なんざあ、どこに生きてたって、いつ生きてたって、そんなに変わらねえんだよ。そういうのを俺に教えてくれたのが、この本だったってえわけさ」

 紙魚の親父が、いつになくしみじみとそういう。

「まあそういうわけで、この本だけは、大枚はたかれても売れねえというわけでな。昔からずっと俺の手元にあるのさ」

「そうなの。大切にしているのね」

 真由子には、なんとなく紙魚の親父の感傷がわかる気がした。古い書物を読んでもなにもならないという人間もいるけれど、古い書物には、昔の人間の生き様や感情が、そのまま残っていることもある。それが文字を通して、読んだ人間に訴えかけてくることがあるのだ。まるで知らないみたことのない昔の人間と、一瞬、感情の交流が出来る。その媒介が本というものなのだ。

 紙魚の親父は、大方そういうことをいいたいのに違いなかった。

 お金を払って真由子は、本屋を後にした。がたがたと工事の音が響いている。

 ふと、後ろを振り返ると、周りで高層マンションの建築が始まっていた。あらためてみると、紙魚の親父の本屋があるほかは、皆近代的な建物だった。


 周りを背の高い無慈悲な建物に囲まれながら、それでも、紙魚の親父の店は、しっかりとそこに存在していた。



 *


「清水さん、清水さん」

 店じまいの頃、そう呼ばれて、紙魚の親父は振り返る。

 客のいない店内。

 暗くなった店内を照らすのは、古びた白熱電球だけだ。

 まるで、昭和初期にタイムスリップしたような錯覚を起こさせる店内で、親父は目を煌かせて相手を見た。

 入り口に立っているのは、数名の男達だ。暗闇でもわかるほど、彼等の敵意は激しい。

「清水さん、困るぜ。今日立ち退いてくれるといったはずだ」

「俺は同意した覚えァねえ」

 紙魚の親父は、そうつっぱねて皮肉っぽくわらった。

「この店はゆずらねえよ。今日立ち退けといわれたって、この本をどうしてくれるんだい。いきなりこんな量の本をはこぶわけにもいくめえが」

「親父! いい加減にしろよ!」

 若いちんぴらが声を荒げた。

「この土地は、俺達が買ってるんだ! 数ヵ月後にゃあ、分譲マンションがたつんだよ!」

「しったことじゃあねえ」

 紙魚の親父は、白熱電球の下でぎらついた目を相手に向けた。

「清水さんよ」

 兄貴らしい男がつかつかと歩み寄り、カウンター越しに親父の胸倉を掴んだ。

「いいか。清水さんよ。俺達は、”この店の主人だった”清水さんから、土地を買ったんだぜ。それも、清水の親父、俺達に借金をしてた。売れねえ本屋を続ける為に、達磨式に借金を増やしてたんだ。そんな中、急に体を壊してよ。それで、ようやく手放す気になったんだ。この店を」

 兄貴は、凄みながら親父を睨みつける。

「いいか、”清水さん”。清水の親父は、この店を売る契約をしたあと、”死んだ”んだぜ。家族も身寄りもなかった」

 紙魚の親父は、にやりとした。

「ほう、そうかい。そんなことがあったのかい」

「ふざけんな! きけよ! 清水の親父は死んだんだ! 後継ぎなんていねえ! テメエ、一体何者だ!!」

 ふっと、親父の口元にうすら笑いが浮かんだ。

「俺が何者だろうと関係ねえじゃねえか。俺はここの店主で、てめえらには店を渡さないといってるんだ。それで十分だろう? 第一、店の常連客だって何もいってないだろう。皆、俺を紙魚の親父と信じているじゃねえか」

 紙魚の親父は、乱暴に相手の手を払った。思いのほか強い力に、不意をつかれた兄貴は手を離してしまう。

 親父は、どっかとカウンターの椅子に座って、男達をにらみつけた。

「本っていうのには、人間の一生が詰まっているんだ。面白いぜ。他人の一生を読むっていうのは。そいつが何を考えていたのか、どんなことを伝えたかったのか、文字を通してひしひしと伝わってくるんだ」

 親父は、手近にあった古い本を手に取った。表紙には、何も書かれていない。ひらりと親父は指で一ページ目を開いて笑った。そこにも、何もかかれていない。

「兄貴、もういいだろう。始末しちまおうぜ!」

 弟分たちはいきりたっていた。既に手にきらりと光る白いものが握られている。それが、白熱電球に照らされて、夢のように、きらきら、ちらちらと、目に映った。

「俺を殺す気か。ヤクザ共!」

 紙魚の親父は、虚ろに笑った。

「いいだろう。それじゃあ、俺も考えがある。おめえらが、二度とこの店に手出しできないようにしてやるぜ!」

 そういうと、紙魚の親父は手にとっていた本をかざした。開かれたページは、何も書かれていない白紙だ。

「さあ、俺がお前らを”書いて”やる! てめえらのような世の害虫どもでも、”読み物”になれば多少は面白いに違いねえからなあ!」

 不意に空間が歪んだ。古い映画の世界のように、古びた本屋が粘土のように歪んだ。男達は、初めて悲鳴を上げた。ぐにゃぐにゃと棚が歪んでいく。床も激しく動いて、たっていられなくなる彼等の頭上から、紙魚の親父の高笑いが聞こえていた。



 *


 その日も、真由子は帰り道、清水古書店によることにした。

 この前のルパンの本は読んでしまったし、お小遣いも余ったことだから、何か新しい本を仕入れたかったのだ。

 清水古書店は、相変わらず、ビルの真中に知らぬ顔で突っ立っていた。周りが近代化しようがなんのその、一軒だけ別世界にあるように、静かな威厳を湛えている。

「こんにちは、紙魚のおじさん」

 相変わらず、カウンターにすわっている紙魚の親父に声をかけると、親父は、にやりとして真由子を見た。

「なんでえ、お嬢ちゃんか。この前のはもう読んだのかい?」

「ええ、面白くって、すぐに読んじゃった」

 真由子はそう答える。

「他のも読んでみたくなっちゃってね、それで来てしまったの」

「いいぜいいぜ。おめえさんみたいな子のために、俺の店はあるんだから」

 親父は、目を細めると、瓶底めがねをはずして、服の上着で拭いていた。

「おや、真由子ちゃんじゃあないか。珍しいところで会ったね」

 と、聞き覚えのある声に気がついて、そちらをみると、通学路の家でいつも庭の手入れをしている紳士然とした中年、顔見知りのミネさんが、向こうの棚の前の椅子に座っていた。椅子にだらりとだらしなく座った姿だが、何かミネさんがやると様になる。日向ぼっこ中の猫みたいだ。

「あら、ミネさん、こんなところにきているの?」

「ああ、紙魚の親父とは、古い知り合いなんだよ」

 ミネさんは、そう答えて親父の方をゆったりと見やった。

「ここのところ、親父の店に質の悪い連中がやってきているというからね、様子を見にきたんだが。ほら、ここ、このところ開発がすすんでいるから、強引に開発を進めたがるやつらが、親父に立ち退きを要求してたんだが」

「まあ、そうだったの?」

「まあなあ」

 紙魚の親父は、そっけなく答えると、なにやら本を熱心に読んでいる。表紙には何も書かれていない。けれど、中には文字がびっしり書き込まれていた。そんなに古い本でもなさそうだ。

「それで、大丈夫だったの、おじさん」

「よくわかんねえが、ちんぴらが数人行方不明になったとかでよ。連中、騒いでてこっちに手を回す暇もねえそうだ。抗争とかそういうのかもしれねえんだが」

「それは物騒ね」

 真由子は眉をひそめたが、思い返したように、

「でも、おじさんの店がなくならないならよかったわ。だって、お店がなくなったら、私、寄り道する場所が減ってしまうもの」

「へへへ、お嬢ちゃんにそういわれるとありがてえな」

 紙魚の親父は、少しは照れているのか、そう答えてにやりとした。

「おじさん、何を読んでいるの?」

 余りに熱心に読んでいるので、真由子が本についてきいてみる。

「ああ、これか。これは、地上げ屋一家の一代記さ。……なかなか興味深いぜ。ほら、敵を知り、己を知れば百戦危うからずッてな、孫子っていう、えらい戦争の先生もそういってらあな」

 紙魚の親父がそういうのをきいて、ミネさんは、なにやら面白そうににやついていた。

 ふと、真由子が、何かに気づいてきゃっと悲鳴を上げた。真由子の足元を小さなネズミが走ったのだ。

「真由子ちゃん、大丈夫かい?」

「なんだ、ネズミか。びっくりしたわ……」

 胸をおさえてため息をつく真由子に、紳士的に手をさしのべつつ、ミネさんは紙魚の親父に言った。

「なあ、親父さん、相変わらずネズミが多くて困るよ。ちゃんと、駆除しておいてくれよ。大切な本がかじられてしまうだろう」

 紙魚の親父は、忌々しげに舌打した。

「それじゃあ、オメエが駆除してくれよ。得意だろ」

「ダメダメ。僕は、真由子ちゃんの前じゃあ、そんな下品なことはできないよ」

 ふと、話についていけなくなって、真由子はきょとんとミネさんと親父を交互に見た。けれど、二人は説明をする気はないらしく、知らん顔をしている。

「で、今日は何の本を探しにきたんだ、お嬢ちゃん」

 話をそらすように、紙魚の親父は、本を閉じて真由子に目を向けた。

「ほしいのをいってみな。大概のはそろってるし、安くしておくぜ」

 親父の安くしておくぜ、という言葉は、魔性の言葉だ。そういわれると、買わないわけにはいかなくなる。けれど、それでいい。安いのは本当だし、本当に欲しいものがここにはそろっているのだ。

(まるで魔法の本屋さんみたいねえ)

 真由子は、のんきにそう思うと、改めて探しにきた本の名前を告げた。

 

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真由子と隣の異人達 渡来亜輝彦 @fourdart

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