真由子と隣の異人達
渡来亜輝彦
猫と紫陽花の三日月の夜
学校の通学路である一角に、綺麗な紫陽花の咲く庭がある。
真由子は、小学生のころからそこの道を通っていた。今年もこの家の庭の紫陽花は、きれいに咲き誇っていた。青に紫、それと中途半端な色合いの紫陽花。
紫陽花は土が酸性かアルカリ性かで花の色が違うと、真由子はどこかできいたことを思い出した。
「やあ、真由子ちゃん」
不意に声をかけられて、真由子は立ち止まった。紫陽花の前に一人の男が立っている。年のころは、四十から五十ぐらいに見える上品な紳士風の男だった。いつもめがねをかけていて、なんとなくお洒落な男前だった。
まだ高校生の真由子でもそう思うのだから、見る人が見るととてもいい男なのだろうなあと思う。
「あら、おはよう。ミネさん」
真由子は、そういって笑いかけた。
ミネさん。そういわれる男と会うのはこれが初めてではない。ミネさんは、時折、ふらっとこの家の庭先に現れて、庭の草木に水をやっている。
この家は普段は人気がなくて、まるで誰も住んでいないようにも見えるけれど、ミネさんが手入れをしている庭だけはいつもきれいだった。総合してみると、けして空き家には見えなかった。
けれどここしばらくは、ミネさんの姿さえ見なかったのも本当だった。
ミネさんといえば、いつも神出鬼没だ。気まぐれに真由子の前に姿を現すけれど、気がつくといなくなっている。まるで、道でみかける野良猫みたいな存在だった。
「ミネさん、しばらく姿を見なかったけれど、どこかに行っていたの?」
真由子がきくと、ミネさんは苦笑した。どこかキザで大仰な動作をとると、ミネさんはにやりとした。
「ああ、実はね、少し遠出をしていたんだよ。それでしばらくここにいなかったんだ。おかげで雑草が伸びてしまった」
そういうと、ミネさんは、むしって集めた雑草の入ったちりとりを指差した。それに、何本かきれいに咲いた紫陽花の花が、切り刻まれた無残な姿をさらして混じっているのを真由子は見咎めた。
「あら、これ、どうしたの? きれいに咲いているのに」
「はは、留守が長かったせいで、いたずらされたみたいだよ」
そういうミネさんの顔は、少し悲しそうだった。彼の視線をたどると、一見きれいに丸く整えられた紫陽花のいくつかが切り取られている。真由子が最初に見ていなかった場所では、ほとんど切り刻まれて丸坊主といったところだった。
「まあ、ひどいことをする人がいるのね」
「仕方がないさ。でも、そういうわけで、今日は庭をきれいにするんだよ」
ミネさんは少し背伸びをして大あくびをすると、のんびりと続けた。
「面倒だけどね」
「そうなの。がんばってね、ミネさん」
「ああ、ありがとう真由子ちゃん」
ミネさんは、さわやかな笑顔でそういうと手を振った。
そういえば、ミネさんの家は、いつからああだったのだろう。
不意に真由子はそんなことを思い出した。ちょうど、数学の授業のときだ。数学が苦手な真由子には、ここのところの授業はちんぷんかんぷんだった。ノートをとってもなかなか理解できない。大体、とっかかりを理解できていなければ、応用問題なんて理解できないものだ。そして、今はちょうど応用問題を解説している時間だった。
そんなともすれば眠たくなるような時間、真由子はそんな考え事で時間をつぶすことにした。
ミネさんの家は、多分真由子が生まれる前からある。
小学生のときは、確かおばあさんが一人で住んでいて、猫を数匹飼っていた。家の事情で猫を飼えない真由子は、おばあさんの家に友達数人と子猫を見にいかせてもらったことが数度ある。そういえば、おばあさんにはお気に入りの長生きをしている猫がいて、とてもよくかわいがっていたものだ。けれど、おばあさんお気に入りの大人猫より、子供たちは子猫にかまいたくて仕方がなかった。真由子も多分そうだったと思うが、友達に子猫をとられてさびしい間に、おばあさんのお気に入りの猫に煮干をあげていた。とても賢い猫でかわいげはないが、どこかクールなたたずまいが、真由子は割りと好きだった。頭や顎をなでてやると、さらさらした猫の毛が心地よかった。
けれど、小学校も高学年にあがるころには、おばあさんは施設に入ったとか、親族に引き取られたとかで、家から姿を消していた。たくさんいた猫たちも、姿を消した。あのお気に入りの猫も消えていた。
そして、その代わりにいつの間にかミネさんが庭先に現れるようになった。中学生のころにはよく出会った。おばあさんの残した空き家に入ったのがミネさんということらしい。
おばあさんがいたころから、紫陽花の花がきれいな庭だったけれど、ミネさんがきてから手入れが行き届くようになったよね。
真由子はそう思い出していた。ミネさんは、ガーデニングがよほど好きでうまいのだろう。
黒板の√を使う計算問題を見やって、その意味のわからなさにため息をついて、真由子は一度考えを打ち切った。ミネさんのことを考えてみようとしたけれど、どう推測するにしてもミネさん自身の情報が少なすぎた。
おばあさんの息子にしては、なんとなく風体が似てないし、そうでないとしたらただ後で空き家に入ってきた住人というだけだ。その程度の推測しかできないのなら、残りの授業時間をつぶせるだけの力はなさそうである。
仕方がないから、少しまじめに授業をきいてみよう。
真由子はそう思い直して、教科書をめくった。
数学の時間もどうにか過ぎて、ホームルームも終わり、学校の退屈な一日が終わった。掃除当番だった真由子は、ほうきをもって廊下を掃いているところだったが、クラブ活動に向かう生徒の話し声が不意に耳に入った。
「そういえば、このところ、近くで猫の死体がよくみつかるんだってなあ。あの公園んとこだってさ」
「えー、気持ちわるーい」
「あーいうのって、なんか犯罪の前触れだっていうぜ。こええよなあ」
「そんな物騒な話しないでよね。あたし、今日部活で遅くなる予定なんだから!」
「お前なんか狙うやつなんていねえって! あ、ちょっと、冗談だよ!」
その年齢の少年少女にありがちな取り留めない会話だったが、なんとなく真由子は気がかりになった。
その帰り道、あの家の前を通りがかったが、庭はきれいにされていて、ただミネさんだけが姿を見せなかった。
*
今夜は三日月だった。猫の細い目のような、そんな頼りなげな三日月だ。
そんな夜は、ほとんど闇夜と変わらないぐらいに暗かった。
彼は、その家を隠れ家にしていた。仲間を連れてくることもあったが、今日は一人だ。懐中電灯をちゃぶ台の上において、ゆったりくつろぎながら彼はため息をついた。
「チェッ、つまらねえな。誘ったのに、あいつらこねえんだもん」
まだあどけなさの残る口調でそういってタバコをふかすと、少年は血のついたナイフを家にあった布巾でぬぐった。
もう何年も人の住んでいないような家だ。かといって、少し埃っぽいだけで、廃墟というにはしっかりしているから、彼らが隠れ家にするにはちょうどいい。
少年はナイフをちらつかせながらため息をついた。今日殺した二匹は、前に万引きをとがめたスーパーの前に放り出してきた。ただ殺すのも楽しいが、そうやって嫌がらせをするのはもっと楽しく思えていた。自分が犯人だとすぐにはわからないだろう。そう考えるとつかまるかもしれないという恐怖心は、快楽に簡単に超越されてしまった。
「また殺したのか?」
不意に声が聞こえて、少年はびくりとした。
一瞬、仲間かと思ったが、それとは違う男性の声だった。
「お前はそろそろ報いを受けなければならないな」
「誰だ!」
と、暗い家を見回すと、ぼんやり窓から入る明かりで人影が見えた。中年男性らしい人影だった。
「どこのおっさんだよ?」
「餓鬼だと思って様子を見てきたが、これ以上、この家に血のにおいをつけるのは許さん。ここは私の大切な場所なのだ」
「何が許さないだ? 第一、ここには誰も住んでねえんだ。てめえの家でもないんだろ?」
答えは返ってこない。ただ、ふと男の気配が消えていた。
少年は少し怖くなった。なんとなく、寒気がした。
「おっさん、どこにいったんだ! どこにいったんだよ!」
突然、フーッと獣の息が聞こえた。
しかも、すぐ後ろで聞こえた気がした。少年は、いよいよ色を失ってわめきながらナイフを振り回した。けれど、どれも空を切るばかりで、手ごたえがない。
星明りに照らされて、らんらんと光る目が向こうのほうで彼を見つめていた。少年は、短い悲鳴を上げた。
ぎゃあっという獣の咆哮が、誰もいない室内に響きわたった。
*
みぃちゃん、どこにいったの? おいで。
彼は、主人のひざの上が好きだった。正直抱かれるのは嫌いだが、ひざの上にのって、滑らかな毛皮をゆっくりなでられるのが好きだった。
みぃちゃん、紫陽花の花がきれいよ。ごらん。
そういって主人は、彼をなでやって目を細める。
でもねえ、私はもう年だから、きれいにお手入れしてあげられてないから、気の毒だわ。
でも、それでもきれいでしょう。みぃちゃん。みぃちゃんが人間なら、きっと気に入ってくれるわね。この庭はね、私と夫が一生懸命作ったものなの。みぃちゃん、このお家を守って頂戴ね。
みぃちゃん、ふふふ、お前の名前はみねきちっていうんだけど、どうも呼ぶときにみぃちゃんになってしまうわねえ。みねきちっていうのは、死んだ息子の名前だけど、みぃちゃんがあの子の生まれ変わりだったらとおもうときもあるわ。
主人は、時折そんな風に語った。主人は彼にその話が分からないものだと思っていただろうが、彼はそのころには人の言葉を理解していた。
おばあちゃん、猫見せて!
そういって小学生たちが家にやってくる。
みぃちゃん、元気だった!
その中の一人の少女が家にあがってきて彼に笑いかける。
おだやかで幸せな時間だった。
*
次の日も次の日も、一週間ぐらいだろうか。梅雨だったせいか、ミネさんに会わなかった。
ミネさんは、なぜか雨の日には現れない。そういえば、雨にぬれるのは嫌いだといっていた。
あれから、庭には異変がなかったし、同級生がいっていた猫が殺されるような事件もきかなかったけれど、ああ、そういえば、この間、十代後半の青年が一人、川で溺れ死んでいたとか聞いた。何かに引っかかれたようなあとがあったとか。野犬に襲われてあわてて川に飛び込んだのだろうというもっぱらのうわさだった。
知らない人物だったけれど、まだ若いのに気の毒な話だと真由子は思う。
真由子は、今日もミネさんの家の前を通る。そして、その時ようやくミネさんと会った。
と、今日はミネさんは庭の手入れをしながら、彼女のほうをみていた。家は、ほかの家の石垣や塀に隠されている場所だから、ミネさんからは真由子がやってくるのは見えないはずだが、なぜかミネさんは、彼女が来るのをわかっていたようだ。
ミネさんは割りとそういうところがある。前に聞くと、足音でわかるといっていた。
「やあ、真由子ちゃん」
「おはよう、ミネさん」
真由子はそう答えて庭を見た。
また庭の紫陽花は、きれいに咲き誇っていた。いたずらされた箇所もきれいに剪定されており、しばらく時間がかかるがまた花が咲くだろう。
「どうだい、きれいなものだろう。特にこの時期はね」
「ええ、本当にこのお庭はきれいだわ」
真由子が素直に答えると、ミネさんは得意げに笑った。そういう顔をすると、とても年不相応な子供っぽい感じさえした。
「ミネさんは、紫陽花が好きなのね」
「ああそうだね。昔はかじりそうになって怒られたものだけど」
「え?」
「ああ、なんでもないよ。お菓子みたいで食べたいような色をしているね、ってこと」
ミネさんは、いささかあわててそう答えた。
「今日もお庭の手入れ?」
「ああそうだよ。雨の間にさぼってしまったから、晴れている間に済ませてしまわないとね」
ミネさんはそういってにやりとした。
ふと、真由子は、ミネさんに、ずっと昔どこかであったような気がした。けれど、そんなわけはない。ミネさんにあったのは、小学生も高学年に上がってからに間違いないのだから。
デジャヴというやつかしら。真由子は、そんなことを思って、ミネさんに笑みを返した。
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