自分らしく、君らしく
@superojisu
自分らしく、君らしく
僕は歩き方が「変」だ。
正しくは「変」だと人から言われる。
何か引きずっているような、庇っているような歩き方らしい。
自分では分からない。
まったく生活に支障はないし、困ってはいない。
ただ、新しい環境に入るたびに、新しい人に出会うたびに
「脚、悪いんですか?」と聞かれる。
また、それを聞くことが悪いみたいで、遠回しに聞かれることもある。
笑って、これが普通ですよ。
みんなが変なんですよ。
なんて笑ってごまかす。
思い当たる節があるとすれば、卓球部の際に痛めた脚かもしれない。
僕はスマッシュの度に、地面を足で叩く。
体育館に地鳴りが鳴り響く。
地面が揺れれば僕がスマッシュを打った合図。
その時に何かしら脚を痛めたのかもしれない。
地球と戦った痕跡として。
当時は初めてだったらしい。
我が校の卓球部インターハイ出場。
いわいる高校生の青春の最高峰の一つ、全国大会出場だ。
私の在籍していた公立高校の卓球部は創部50年と歴史はあるが、学校をいれて特に力を入れているわけでもなく、平凡な戦績を残す、普通の卓球部だった。
男子、女子と一応分かれているが、練習に参加した部員が少ないと一緒に練習したり
もちろん顧問の先生も同じだった。
なにか運動的なものができればいいなあと考えていた。
ただ、家庭の事情で、遅くまでは活動できない、バイトも検討していたので
練習が強制でなく、程よく緩い程度のものがいいなあとぼんやり考えていた。
そんな中、条件が重なったのが卓球部だ。
卓球は小学校のクラブ活動でやったことはある。
その時にもらった古い公式用のラケットを手持って入部届を提出した。
練習は週3日。月、水、金
いずれも、同じ体育館を共有して使用するバスケットボール部、バレーボール部と
交代制で使用するため、練習開始時間がバラバラだった。
なぜか卓球部はその中でも少ない時間帯しか与えらず
当時マイナースポーツだったから止むを得ないという雰囲気を
少なからず感じながら部員はそれを受け入れていた。
一方、卓球部のメンバーは意外と鮮やかで、みなそれぞれの個性を輝かせいていた。
上階生は2名、2年生は4名、新しく入部した僕たちは5名と、最下級生がもっとも
多いという構図だった。
一見、卓球部ですか?と勘違いするくたい体つきのいい先輩や、スタイル抜群のイケメン先輩。
面倒見のいい、クラスの人から告られまくっている先輩など、今までのイメージと違った卓球部の面々がそこにはいた。
ははは、先輩達の笑い声。
楽しく練習できそう。
僕は完全初心者という格好で練習を開始した。
時は過ぎ、3年生、最後のインターハイ予選。
僕のあとで入部した後輩、いわいる経験者入部の台頭で2年生の時は
インターハイ予選に出場すら叶わなかった。
インターハイ予選は通常の試合と違い、各高校から出場できるメンバー数というのが決まっているのだ。
3年になり、実力で勝ち取った予選出場枠。
もちろん全国大会のスタートラインですらない、まだまだ県予選に出ることができるという権利。
十分に練習をすることができたとは言えなかったが、自分の生活の中で練習に充てる時間を考えに考え、無駄なく、けれども努力を惜しまず卓球に取り組んだ。
僕は最高に仕上がっていた。
いわいるボールが見える状態。
適当に振ってもボールにあたる感触。
最高のスピン。
無双だった。
県大会で優勝した。
地区大会でも優勝し、正真正銘実力で勝ち取ったインターハイへの切符だ。
きついと思ったことはあったけれど、自分で考え、考え抜き、取り組めば叶うと思った最初の出来事でもあった。
神奈川県で開催されるインターハイの本大会。
自分の住んでいた県からは日帰りで行けず、前泊かつ新幹線といった工程を挟む必要があるほどの遠い距離だった。
もうすぐ大会、とせまった日。
お父さんは死んだ。
もたなかった。
バイト、練習に明け暮れ、あまりお見舞いは行っていなかったと、今思い返せば、思う。
お父さんは僕が中学生の時に体調を壊し、入退し、その後も入退院を繰り返していた。
多くの病気が見つかり、余命宣告のようなものもされていた。
これが最後の入院になるかなと、母と言葉を交わしながらも
どこか、まだ死は先かなと、ぼんやりと考えていた。
母は一家の柱となり、パートを掛け持ちし、家庭を支えてくれた。
痩せた華奢な体で頑張る姿には子供ながらにみていて辛いものがあった。
それでも僕の前では辛さを見せずに懸命に働き、お父さんの病院へお見舞いに行き
ほんとうに大変だったんだなと思う。
僕はバイトと練習を優先し、お見舞いはというと、服の入れ替えやちょっとした届け物ついでに見舞う程度で、回数自体は少なかった。
それでもお見舞いに行くとお父さんは喜び、ありがとう、ありがとうと連呼していた。
そして、すぐにお前も自分のやりたいことがあるだろうと、優しく返そうとしてくれた。
ほんとはもっと一緒にいたかったけれども、その言葉に甘え、バイトへ向かった。
自分のバイト代はお父さんの治療費と生活費に充てた。
何か特別なことをいしているという自覚はなかった。
母がずっと働いていたからだ。
自分は学校で勉強もしながら、部活もしていた。
それだけで感謝してもしつせなかった。
バイトは隣駅のファーストフード店で20時まで働いた。時給は600円台だったと思う。
高校生ということでそれ以上遅い時間は働けず、その分、夜の時間は地元の体育館を開放してもらい練習をしていた。
ただ、その後、高校生は夜は遅くまで働けないが、朝は働けるということで24時間営業のスーパーの早朝便の荷出し、整理のバイトを見つけ働いた。高校3年生のことだ。
そんな中、数少ない見舞い回数の僕が見舞った時にお父さんは死んだ。
看取ることはできた。
母は一度、自宅に帰り仮眠をしていた時のことだった。
インターハイ出場を決めたが、遠く神奈川県まで行く旅費はうちには無かった。
自分の中でも、どこか遠くで開催されるインターハイに出場するというイメージはなかったと思う。
ただ、地方の大会で優勝して、お父さんに報告する。
それが目標と感じていたと思う。
実際に、優勝してうれしかったし、達成感はひとしおだった。
それで終わり。
顧問の先生に辞退する旨、伝えた。
お父さんの葬儀から時間も経っていたので、気遣いをいただいたが
理由は旅費だと言うと、顧問の先生が旅費を立て替えてあげると申し入れてくれた。
僕は丁重に断りをいれた。
返すあてもなかったし、実はお父さんの延命治療で他にもお金を借りている状態だった。
そんな中、贅沢なんてできないし、バイトもしないといけないと心のなかで考えていたのだ。
しかし、事情を知らない学校関係者から出場を決めて辞退することに対してクレーム的なもの多く入り、対応をしていた。
事情を知ってくれていた一部の先生方が説明をしてくれ、その後後援者、OBからの寄付で旅費を賄ってくっるということになった。
しかも前泊代も含んでいた。
母に相談し、もちろん行っておいでと背中を押してくれた。
痩せた母へ申し訳ない気持ちと、インターハイ出場を決めてからまったく練習をしていない不安のなか、僕は旅費代を先生からもらった。
学校では全校集会の時に、壮行会のようなものを開いてくれて、当校初の個人競技種目インターハイ出場という格好で見送ってくれた。
「優勝してきます!!」と力強く宣言したことを記憶している。
日本の壁は厚かった。
僕は1回戦で敗退した。
相手は強かった。
地方の有名私立のエース。
後で知ったがこの後オリンピックに出たらしい。
フルセットまで粘り、すべてデュースゲームと自分の中では善戦したが、負けは負け。
後援会の方達から頂いた、旅費は新幹線代とビジネスホテル代プラスアルファ。
僕は夜行バスでチケットを購入し、会場の近くのファミレスで試合時間まで時間を過ごしていた。
余ったお金はお母さんに渡すつもりだった。
夜行バスでの移動というハンデ無しでも勝てなかったと思う。
地方公立高校出身の無名選手の挑戦はあっけなく終わった。
行きの夜行バスで考えていた。
どうせ全国大会出るのならある程度上まで進んで有名になりたい。
そうすればお母さんも喜んでくれるかな。
天国のお父さんも喜んでくれるかな、と思ったりしていた。
しばらく、他の選手の試合を見ていたが、徐々に寂しさが募り
気がつけば駅前の広場まで来ていた。
帰りの夜行バスのチケットはまだ買っていなかったが、時間はまだまだあり、コンビニでクリームパンとジュースをかった。
味は覚えてない。
涙が溢れていたので、泣いているの通行人に見られないように、我慢して、
それでも塩の味が鼻を通じて感じながら俯いていた。
僕がもっと早くからしっかりしていたら、お父さんにインターハイ出場を見せてあげられたかな、2年生の時にもっと頑張っていたら、見せることができたかな。
もっと勉強していたら、推薦でもっといい高校にお金を特待生でお金がかからずいけてたのかな
お父さんや、必死で働くお母さんへ申し訳なく思い、とにかく悲しくなった。
自暴自棄になりかけていた。
ふと、駅の東側の広場で募金活動がされていた。
3歳の女の子の海外での心臓移植に募金をお願いします。と書かれた横断幕が目に入る。
5億円を目指しているらしい。
僕はせめて誰かの役に立ちたいとふと思い、帰りのバス代を全額募金した。
帰りは歩いて帰ろうとか、ヒッチハイクで帰ろうなんて浅はかな思いでいた。
冷静になって、歩いて帰ったら1日や2日では帰れないし、お母さんに心配かけてしまうのではないかと、凄まじい後悔に襲われた。
今から、事情を行って返してもらおうか、
今なら間に合うかなとぼんやり考えていた時
顔は相当青白かったらしい。
顔面蒼白で腫れ上がった目。
変な生き物のようだったらしい。
広場の花壇の横で死んだ目をした僕に
話しかけてくれたのは60歳くらいのおばちゃんだった。
どうしたの?具合悪いの?
優しく話しかけてくれた。
僕はまた泣いた。
声をあげて泣いた。
わんわん泣いた。
涙で本当に前が見えなかった。
おばちゃんは新横浜駅まで付き添ってくれて新幹線のチケットを買ってくれた。
その時はよく分からなかったがグリーン車のシートだった。
切符に書かれた号車の指定の席に座るのよと背中を叩かれ、駅弁を買ってくれた。
必ずお返しするので、連絡先を教えてくださいと申し入れたが、「いらない」の一言だけだった。
あなたはいつか日本をもっと住み良い国にしてくれるから、それで返してれればいいと。
優しいおばちゃんに救われ僕は帰ることができた。
あれから20年。
母は他界したが、孫の顔を見せることができた。
本当に喜んでくれた。
あの時のおばちゃんにはまだ会えていない。
横浜に出張に行った際は
必ずあの広場に足を伸ばす。
募金活動はしていないが、僕が座った花壇はまだある。
日本はよくなっただろうか。
特段、大きなインフルエンサーにはなれないが
「一生懸命に生きる、ちゃんと前を向いて生きる」
ことだけはやってきた。
困っている人がいれば必ず助ける。
どんな時でもポジティブに生きる。
それだけは貫き通す。人生をかけて。
すべての人にありがとう。
この気持ちだけは常に忘れず今日も生きたい。
自分らしく、君らしく @superojisu
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