純愛に生きる女

海沈生物

第1話

 降りしきる大雨の中を走っている。私の肌に絡みついてくるような雨は、まるで私が今まで囚われてきた「因習」のようだった。その因習から「逃避」するため、私はただあの場所へと走っていた。



# # #



 私は、生まれた時から両親によって「許嫁いいなずけ」の男を決められていた。その男はとても優しい方で、転んだ私に対して「大丈夫?」と手を差し伸べてくれるような善人だった。女学生時代に初めてデートをした時も、キスを迫ってきたのについ「無理!」と鼻をパンチして鼻骨を折ってしまったのに、苦笑いを浮かべながら「……無理矢理キスしてごめんね、良子りょうこさん」と笑顔で謝ってくれた。

 

 彼との結婚は「因習」によるものだった。しかし、そんな因習の中でさえも彼という存在は結婚するのに過分ない方であることは間違いなかった。それなのに、私はこの大雨の中、そんな彼からも「逃避」している。


 ふと耳を澄ますと、背後から私の父様と母様の叫び声が聞こえてくる。


「はやく戻ってこーい!」

「今なら、まだ向こう方も許してくださると言っている。うちに戻るんだ、良子!」


 二人の意見は「正しい」ものである。私があんなに優しい彼から逃げ出しているのは、道理として「間違った」行いである。多分、今から家に戻ったのなら、彼は「大丈夫」と笑顔で言って、私のことを許してくれるだろう。きっと、私が彼を殴っても、蹴っても、叩いても、笑っても、泣いても、その笑顔を一向に崩さないで、許してくれるだろう。まるでセメントで顔面を固めたような「笑顔」で許してくれる。――――私は、そんな笑顔彼が怖かった。同じ「人間」であるはずなのに、「人間」じゃない。まるで感情というものが極端まで排除された、アンドロイドのような彼。そんな彼が怖いから、現在の私は彼から「逃避」している。


 過去の私は、家から離れた池の近くでよく泣いていた。あんな怖い人間と、どうして結婚する必要があるのか。絶対結婚したら、DV振るってくるタイプの人間だ。自分の言うことを聞かない人間に「どうして妻なのに、俺の言う事を聞かないんだ?」と笑顔で聞いてくるタイプだ。私は無理だった。それが彼から私に対する「純愛」――――「好きな相手のために命を捧げる」ような愛であったとしても、どうしても私の心は彼という完璧超人な「人間」を拒絶していた。


 そんな時、私は「人外」に出会ってしまった。その人外は灰色の楕円形をしていた。池の近くで泣いている私に近付くと、ぬちょぬちょと音を鳴らし、私の頭に乗ってきた。そして、その生き物は私が当時「大切」にしていた黒色の髪をもしゃもしゃと食べはじめた。「ピィー!」と嬉しそうな声を上げるその人外に、髪だけが因習にまみれた日常の中で唯一無二のものだと思っていた私は、思わず「あああぁぁぁ!」と悲鳴をあげた。その人外を両手で髪から引き剝がすと、ポイッと池の中に放り込んでやった。

 頭を擦ってちょっと禿げてしまった部分に気付いてショックを受けていると、その人外はぬちょぬちょと音を立てながら、また私の方へと近付いてくる。口元と思わしき部分ではまだ、千切った髪をもしゃもしゃ食べていた。


 私はその人外に責任を追及してやろうと見下ろしてやると、「何か問題でも?」というように、こてっと身体を横にして見せた。私はその「因習」もなく「自由」に生きられている姿に「怒り」が込み上げてきた。どうして、私の髪を喰ったようなやつが自由に生きることができているのか。なんで、なんで私はこんな「不自由」な日常の中で生きなければいけないのか。

 そんな怒りについて頭の中で考えている内に、その人外は私の足元に近付いてきた。「また私の髪を食べる気なのか」と身体をつまんでやると、「むぅー!」と不満げな声を上げてジタバタと暴れはじめた。この人外も、私と同じように「怒り」を覚えている……のだろうか。確かな「感情」を持っているのだろうか。

 

 不意に隙をつかれてつまんでいた指先から逃げられてしまうと、その人外は「もわぁー」とさっきまで怒っていたのを忘れたのか? というぐらい気の抜けた声を出した。その声に、さっきまで「怒り」を抱いていたはずの私は、いつしか「ふはは」と腹を抱えて笑った。腹が痛くなるまで笑った。許嫁に向ける愛想笑いではなく、下品ではしたない笑いを浮かべていた。そんな私の一方でまた髪を食べようと狙ってくる人外に、「おっ、食べさせないぞ?」と振り払ってやった。

 

 それから、私の日常は大きく変化した。許嫁とのデート中も、家の中で家族とご飯を食べている時も、ずっとその人外のことを考えていた。私がいない間、勝手に野垂れ死んでいないか。池の中の魚たちに食べられていないか。寂しく思っていないか。そんなことを不安に思いながら、それでも、そんな人外のことを考えている間はずっと心がドキドキして楽しい気分になれた。

 あれだけ大切だった髪も、その生き物が美味しそうに食べている姿を見ると、ついそのほとんどを与えてしまった。ショートカットになった時はさすがに許嫁も笑顔に陰りを見せると思ったが、そんなことはなく、ただ「仕方ないよ」と笑顔を見せるだけだった。私はそんな彼の不気味さを恐れ、よりその人外にのめり込んでいった。


 しかし、そんな日常も長くは続かなかった。髪を与えたり、あるいは家からこっそり持ち出したお米をあげている内に、その人外は大きく成長していった。私の身体を乗せられるようなサイズになった頃には、村の中でも「池には恐ろしく巨大なバケモノが住んでいて、村人を喰っている」と噂になり、両親や村人たちは、私が池に行くことを非難するようになった。ただ、許嫁の彼だけは「俺は気にしないよ」と笑顔のままでいた。


 私は変わらず、池に通い続けた。その人外は私がやってくると、いつも私を食べようとしてくる。多分、まだ私より小さい頃に髪を食べようとした癖が抜けきっていないのだと思う。私はそれを華麗に避けてポカポカな背中に乗ると、「むぅー!」と不満げな声をあげる。「あげる髪がなくてごめんねー」と背中を撫でてあげると、次第にその声をは小さくなっていき、やがて「もわぁー」と気の抜けた声を出すようになる。


 その声を出すようになってくると、人外のポカポカな背中の上で寝転んだ。その温かさに段々眠くなっていくと、人外の中から聞こえてくる鼓動を聞きながら、そのまま小一時間ほど背中の上で眠らせてもらうのだ。時々私が昼寝中に人外が池の中に戻ろうとして溺れかけたこともある。そういう時は散々とお説教を垂れていたのだが、分かったのか分かってないのか分からない「もわぁー」という声を出されると、「まぁこんなものでいいか」と許してあげていた。



# # #



 大雨の中を「逃避」していった末、ついに「池」へと到着した。そこにはあの人外が、いつものように私を待ってくれていた。私はいつもの「癖」で食べられる前に人外にギュッと抱きつくと、そのポカポカな温度の心地よさに心がとろける。私は人外……いやの顔を見上げると、目をとろりんとさせる。


「……ねぇ、キミ。純愛ってなんだと思う?」


 その声に、は「むぅー!」という不満げな声しかあげない。耳を澄ましても、今日は鼓動が聞こえない。


「私ね、もう因習の中で生きられないの。この因習しかない世界の中で生きるぐらいなら、純愛……”好きな相手のために命を捧げる”方が良いと思っているの。だから――――!」


 その瞬間、私の身体は彼の中に取り込まれた。一体何が起こっているのかと思った時、彼が「ピィー!」と今まで一緒に過ごしてきた中で、一番嬉しそうな声をあげているのが聞こえた。その時、私は気付いた。

 彼にとって、私はどうでもいい存在だった。そして、今から私はただの「食べ物」として消化されてしまう。最近行方不明になっていた村人たちと同様に。周囲にはまだ溶けきっていない、誰かの骨が浮かんでいた。


 ボコボコと肉体が解けていく音が聞こえる。身体が溶かされていくというのに、どうしてこんなに心地よいのだろうか。私は自然と口元をとろけさせていた。まるで羊水の中にでも回帰しているような安らぎを感じながら、私の意識はそのまま現実ではない場所へと「逃避」していった。

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