煉獄の道標
戦ノ白夜
お先真っ暗、けれども炎は明るすぎた
人間の皆様、ごきげんよう。
……ああ、申し訳ございません。驚かせてしまいましたか。
そこの貴方、私がどんな仕事をしているか、興味がおありで? それならお教えいたしましょう。
それはもう、とてもいいお仕事なのですよ。迷子の魂が正しい道まで戻るための手助けをして差し上げるのが私の役目。どうです、素晴らしいでしょう? 私がお勤めをしているこの森が、『導きの森』というふうに呼ばれるようになったのはそういうわけでございます。どなたがつけてくださったのかは存じ上げませんが、素敵なお名前ですねぇ。嬉しくて
……おや、失敬。そんなことをお話ししている間に、今夜もどなたかいらっしゃったようですよ。
それでは暫し、おいとまさせていただきます。また後ほどお会いいたしましょう。
◇
「おいおい……どうなってんだ、これ。壊れたか?」
男がいくら睨みつけてみても、小さな四角い画面は黒い沈黙を破らなかった。
隣県の格安ホテルへ行先を定め、そこへ向かっていたのだが――山の中で突如カーナビがだんまりを決め込んでから、さて、何分経っただろう。「およそ7キロメートル道なりです」というナビの遺言に従い、男は車を走らせ続けていた。
一向にナビが復活する気配はなし、おまけにスマホは圏外。道に迷った、というより、軽い遭難である。
日が落ちてからそれほど時間は経っていないはずだが、覆い被さるように木々が枝を伸ばすこの道路はかなり暗く、ハイビームの光がくっきりと浮かび上がる。厚みを増す暗闇はしつこく纏わりついてきて、気分的に「一寸先は闇」。何が立ち現れるか分かったものではない。反射してフロントガラスに映る車内灯の光の点すら、獣の目に見えてくる。
舗装こそされているものの、電柱は一本も立っておらず、道路標識すら見当たらない。こんな道、一体誰が通るというのだろうか。都合がいいと言えばいいのだが――
ふざけんなよ、クソ、と、舌打ちと共に吐き出したときだった。
道が消えた。
ブレーキ音が鳥の金切り声のように響いた。
道路は、本当にぷつりとそこで途絶えていた。包丁で切ったかのように。
奥には鬱蒼と茂る森。道の終わりには、何やら消えかけた文字の覗える、傾いだ看板。
「何だ、あれは。……の森? 何の森だ?」
よく見えない。車を降り、スマホのライトで看板を照らした。
端が焼け焦げている古びた木の板には、雑に引っ掻いただけのような覚束ない字が刻まれていた。
『導きの森』
導きの森。どこかで聞いたことのあるような、ないような名前だ。何の捻りもなく、普通にそこらのゲームに登場しそうなくらいの軽さ。だが今の男にとってはありがたい名前だった。本当に導きが現れて、この現状から抜け出す方法を教えてくれるなら万々歳である――
「こんばんは。道案内はご入用ですか?」
唐突に、眠りを誘うような柔らかい声がした。
「誰かいるのか?」
「ええ、おりますよ。貴方さまの足元に」
反射的にザッと音を立てて一歩下がれば、そこには濡れたように羽を艶めかせる者。人間のものと遜色ない声は、その鳥の
「……鴉?」
「そうでございます、これは
随分流暢に喋る。変な鴉だと思った。それでも、その声の不思議な温かみ、奥深さ、心地よさゆえなのか、吐き気のような恐怖は感じなかった。
「それでは元に戻らせていただきます……いち、にの、さん」
しかし、次の瞬間にははっと息を呑んだ。
鴉の姿が消えたかと思うと、ぬっと黒い影が立ち上がったのである。
見上げるほど背が高かった。それが纏っていた、鴉の羽と同じ色、袖と裾の長い衣は、いわゆる死神を想起させる。だが、大鎌は持っていなければ、ひょろひょろしてもいない。死神よろしく被った頭巾の下から覗くのも、頭蓋骨ではない。ぼうと赤く光る三日月型の目と、真っ黒な顔の下半分を覆う白布だった。
なるほど、いきなりこれに話しかけられたら、腰を抜かすのも無理のないことだろう。そこまで恐ろしくはないけれども、この世の生き物でないことは、確かだ。
「はい、改めましてこんばんは。私は、迷子の人間さまが正しい道へお戻りになられるための、お手伝いをさせていただいている者でございます」
元々細い目を更に細く引き伸ばして微笑みながら、黒き異形は、その巨体に似合わぬ優雅さでふわりとお辞儀をした。
「ようこそ、『導きの森』へ……」
あからさまに胡散臭そうな目を向けられて、異形はふふ、と声を漏らす。
「ええ、貴方さまのお気持ち、よくわかりますよ。私のことも、この森のことも、怪しく思わない人間さまはまずいらっしゃいませんから。しかし、ここで慌てふためかないご様子からして、貴方さまはなかなか大胆な心をお持ちのようです。……さて、そんなことはさておき、本題に入りましょうか」
ゆさゆさと身体を揺らしながら喋り立てた後、異形はすすす――と男に近付いた。
「先程も申し上げました通り、貴方さまには元の道へと戻っていただかなければいけません」
「ああ、分かってる。道案内してくれるんだろう? 早くこの山を越えて隣町まで行きたいんだ」
気が急いた。そう、こんな薄気味悪い場所はさっさと抜け出してホテルに行きたいのだ。そうしなければ色々とまずい事情が男にはあった。
「でもアンタ、その背だから車には――」
「いえ、言葉が足りませんでしたね。私の言う『道案内』というのは、人生の道案内でございます」
妙に白い手袋を嵌めた手を、袖から少しだけ出して申し訳なさそうに擦り合わせる異形。目は困ったように赤いハの字を描いた。かと思うと、すぐにひっくり返って緩やかな弧に戻る。
「きっと、何かうまくいっていないことがおありでしょう? 実はこの森、そういう方だけがいらっしゃる異空間なのですよ。難しいことはお考えになりませんよう。……貴方のお悩み、どうぞお聞かせくださいな」
秘めた胸の奥底をざわりと撫でる風を、男は感じた。身を屈めて覗き込んで来る異形の顔は、近くで見ればありえないほど平坦で、それどころかフードの中の影と同化しており、底知れぬ気味悪さを禁じ得なかった。
「そうしてくだされば、貴方さまの未来は明るくなりますからね。全部吐き出してしまうことが肝心でございます。少々お待ち下さい、今、火を呼びますから……」
そう言うと異形は、トン、と長い人差し指で皺の深い男の額を突き、空中で振って、その指先にポッと炎を灯した。仮面のような顔も相まって、手品師のようだった。
「浄化の炎……
終始、物穏やかな口調で促されている間に、始めこそ身構えていた男も、この救いに縋る気になったらしい。訥々と語り出した。そして最後には、悲嘆の決壊になった。
「――そうでしたか。それは随分と、お辛かったでしょう……典型的なパワハラ上司ですものねぇ。ああ、私、こんな見た目ですけれど、人間さまの世の中の事情については結構詳しいのですよ。この森の番人としてのお仕事ももう長いですし、たくさんの迷い人を見てきましたからね。職を失った不安も、ちゃあんと分かるつもりです。おまけに寄り添ってくれる人すらいなくなってしまったとなれば、絶望するのも当然のことでございます」
男は闇の中に希望を見た。赤く輝く炎が己を導き、どん底から引き上げてくれると信じた。この黒き異形が天使であると信じた。
「お気の毒に……ですが、本当にそれで全部でしょうか?」
突如、拳の大きさほどだった炎はゴオッと燃え上がった。
「私、申し上げましたよね。全部、吐き出してくださいと……」
細い目はかっと見開かれ、灼熱の光で男を射抜いた。
「貴方、上司と同じことを自分の部下にもなさりましたね? 寄り添ってくださった方を差し置いて、違う方へ手を出したのはどういうことです? それに貴方が乗っていた車、人から盗んだものでしょう。 お財布もそうだと思うのですけれども、違います? ……ふふ、なぁんにも間違っていませんでしょう、私」
炎が笑う。ごうごうと音を立てて笑う。
「ふふふふふ。ほら、熱いでしょうけども、お顔を背けないでよぉく見てください。この火の中に映っているものは何ですか? これは貴方の……」
「ああああああああ!!」
白布がぺらりと捲れた。炎が牙を剥いた。
――異形は、少し寂しそうな溜息をついた。
「残念ですねぇ。素直に打ち明けてくれさえすれば、よかったのですけれども……はぁ、またお仕事失敗です」
◇
こんばんは、ただいま戻って参りました。
おや、そこの貴方、随分と私のお仕事に興味津々なご様子。嬉しいですねぇ。
お教えいたしましょう。結局私は何者なのか、と。
少しばかりキザですが、煉獄の使徒……とでも名乗りましょうか。迷える子羊の前に、導きの炎を灯して差し上げる者でございます。まだ『手遅れでない』方に、正しい道を歩み直していただけるよう、お手伝いをしておりまして。
ええ、もしも貴方さまが少しばかり道を外れてしまわれましたら、そのときはこの森へお招きいたします。ですが、清めの火は気性が荒いですから……焼き殺されないように、どうぞお気をつけて。一歩お間違えになると、こんがり焼かれて生贄の羊ですよ。ふふ。ふふふふふふ。
涎が止まりませんねぇ。
……さて、私はそろそろ次のお仕事に。
それでは、ごきげんよう。
煉獄の道標 戦ノ白夜 @Ikusano-Byakuya
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