葡萄のような首吊り幽霊たち

ぶざますぎる

葡萄のような首吊り幽霊たち

 私は心霊体験をしたことがない。

 幼時より怪談話が好きで、幽霊を見たいと切望してきた。今日に至るまで幽霊を見るための努力は続けてきたが、未だ成果はあがらない。

 ネットで見つけた降霊術を試してみても効果はなし。幽霊みたさに心霊スポットへ泊ったこともあるが、柄の悪い連中に追い回されたり、警察沙汰になったりしただけで、幽霊は見られなかった。


 曩時の勤務先は曰くつきの場所で、どうも同僚たちには怪現象が多発していたようだが、私には一切、不思議なことは起こらなかった。一度、幽霊を見たと言って職場の人間が集団ヒステリーを起こしたことがあったが、その場に居合わせておきながら、私にはやはり何も起きなかった。ここまで来ると、最早私自身が霊的な存在から拒絶されているとしか思えない。

 だがそれでいながら、私はその怪現象が引き起こした騒動によるとばっちりを受ける羽目になったのである。 


「これやっとけよな、アガろうなんて考えてんじゃねえぞ」

 朝9時前。Sが私を恫喝するように言う。

 先ほど出勤してきた日勤の女性が、離れたところから気の毒そうに私を見つめている。

 往時、私は関西のホテルのフロントスタッフとして働いていた。夜勤がメインで、19時から9時が就業時間。

 私は日勤の女性に引継ぎを済ませ退勤しようと、つまり""アガろう""としていた。そこへSがやってきて、私に仕事を振った。

 喫緊の内容ではない、私に対する嫌がらせである。

 Sは少し前に他店舗から異動してきた。前のところでトラブルを起こしてこちらへ来たらしい。小太りな中年の男。初めて来た時から周囲を威嚇するような態度で振舞っていた。ただ、それは私のような立場の弱い人間に対してだけで、幹部たちに対しては平身低頭の限りを尽くし阿っていた。簡潔に言えば、パワハラ上司だったのだ。

 私は基本的に気が弱い人間である。

 怒張声を出されれば、縮みあがってしまう。それなりにガタイは良い方であるが、生来の臆病さのせいであまり役に立たたない。こういう人間のことだから、Sのようなタイプからすれば恰好の餌食なのである。

 今思えば、いくらでも対策のしようはあったが、まだ私も若く世間識らずだったので、Sのイビリに対して、されるがままだった。また不思議なもので、パワハラをする人間というのは得てしてある種の巧妙さも持ち合わせており、ギリギリ周りから非難されない塩梅、上層部に気づかれないタイミングを計ることに長けており、実際、Sのそうした手練手管によって、私はひどい目に合わされていたのである。


 半泣きになりながら押しつけられた仕事に取り組んでいる裡、清掃スタッフの女性陣が出勤してきた。

 リーダ格の佐々木が「あれ、〇〇(私のこと)君まだ居るの」と訊いてきた。

 私がわけを話すと彼女は「それは大変だ」と上辺だけの返事をした。そして更衣室にて仕事着に素早く着かえ、部下のスタッフを引き連れて客室清掃へと向かった。

 それから30分ほど経った。

 詰所で仕事をしていた私は、フロントに居た日勤女性から呼び出された。

 行ってみると、フロントには血相を変えた佐々木が待っていた。

「〇〇君、ちょっと来とくれ」佐々木は口調激しく言った。

 日勤女性が私にアイコンタクトをした。

 Sから押しつけられた仕事があるのに……。

 だが佐々木の剣幕に断ることもできず、私は「はいぃ」と蚊の鳴くような声で応じた。

 エレベータで3階へと向かう途中、私は佐々木から以下の説明を受けた。


①掃除スタッフの一人が305号室の清掃中にパニックを起こした

②そのスタッフの悲鳴を聞いて他のスタッフが駆けつけたが、彼女たちも室内でパニックを起こした

③佐々木と無事なスタッフで、パニックを起こしたスタッフたちを部屋から運び出した

④305号室の清掃について、パニックを起こしたスタッフはもとより、無事だったスタッフも気味悪がって清掃をしたがらない

⑤リーダである私には他になすべきことがあるため、清掃に手を回せない

⑥よって、君に該客室を清掃してもらいたい


 3階についた我々は、まず305号室を覗いた。

 内部は殆ど手がつけられておらず、どうやら清掃に取り掛かって直ぐ、パニックを起こしたらしい。

「パニックって、ここで何があったんですか」私は訊いた。

「直接、本人たちに聞いとくれ。私はよく分からない」佐々木は答えた。

 佐々木に案内されて非常階段へと向かった。

 パニックを起こしたのであろうスタッフたちが、身を寄せ合うようにして座っている。

「あの部屋以外、この階は終わってるから」

 佐々木は座り込んだスタッフたちを横目で見ながら私に言った。

「後は頼むわ」

 私は該客室の清掃を早急に済ませて、すぐにSから押しつけられた仕事に戻るべきだった。

 仕事を放り出したことがバレたら、どんな目に合うか分からない。清掃を肩代わりするためです、なぞという言い訳は通用しない。奴はこちらをいびることが目的である以上、たとえ理由が親の危篤であったとしても、仕事を放りだした""責任""を追及してくるに相違ない。

 ただ、私にも最低限の人情はあったので、まずは恐怖に震えて非常階段に蹲るスタッフたちに対し、優しい口吻で励ましと労いをの言葉を述べた。加えて、不謹慎ながら私はこの集団ヒステリーに対して強く興味を惹かれたので、彼女たちからパニックの詳細について訊き出すことにした。


 ――顔が真っ黒だったのぉ。たくさん人が居て、みんな首を吊ってたのぉ。顔が真っ黒になった人たちが、首を吊ってたのぉ。


 彼女たちの話を要約すると次のようになる。まず、清掃員1が清掃中に「部屋いっぱいに吊るされた、顔がどす黒く変色した首吊り死体たち」を目撃した。

 清掃員1の悲鳴を聞いて清掃員2と3が駆け付けた。

 その時点で、2と3には首吊り死体は見えなかった。

 ところが、腰を抜かした1の側に寄り添っていたところ、急に「部屋いっぱいに吊るされた、顔がどす黒く変色した首吊り死体たち」が出現した。

 これにより1はもとより、2と3もパニックを起こした……。


 皆さんが私の立場だったとして、この状況でこのような話を聞かされたら、どのような反応をするだろうか。

 私は心が躍った。冒頭に述べたように、私は幽霊を追い求めていながら、心霊体験がなかった。

 それに曰くつきのホテルで夜勤をしていながら――しかも同僚たちにだけは心霊現象が多発していた――私は幽霊の気配を霞ほどにも感じたことがなかったのだ。

 ひょっとしたら、先ほど佐々木と入った時には何もなかったが、これから私が一人で該客室の清掃をすれば、その「部屋いっぱいに吊るされた、顔がどす黒く変色した首吊り死体たち」とやらに遭遇できるのではあるまいか。

 転帰、期待というよりは長年の夢に対する祈りのような感情を胸に、私は305号室へ向かった。

 部屋を見渡し、浴室をのぞいた。何もない。とりあえずスーツの上着を脱いで、私は清掃に取り掛かった。まだ望みは捨てられな。、ひょっとしたら清掃中に幽霊が出てくるかもしれない。

 私は変に気分が高揚していた。


「おい」

 気がつくと部屋の入口にSが立っていて、私を睨んでいた。

 私はサァっと血の気が引いた。

 先ほどまでの浮ついた気持ちが一気に失せた。

 Sはドスドスと間合いを詰め、私の近くまで来た。

「お前、なにやってんの」Sは私にガンをつけながら間近で訊いてきた。

 私は清掃を肩代わりすることになった旨、Sに説明した。

「いや、関係ねえんだわ」Sはまだ私を睨んでいる「おれの言いいつけをサボるってのはさ、おれのことを舐めてるってことだろ」

 なぁ、と続けながらSは私を威圧した。

 私はとりあえず蚊の鳴くような声で謝ってみたが、それが逆効果だったのか、はたまたSの加虐心を刺激したのか

「なぁ、なめてんのかって」と言いながらSは私の頭を叩いたのである。


 先だって、私は自身の性格を説明する際に「基本的に気が弱い人間である」と含みを持たせた書き方をした。

 わざわざ「基本的」という語を挿入したことからも分かるように、私の気の弱さにも例外がある。

 私の父はよく暴力揮った。そのせいか、どうも私は身体的暴力を受けることに人並み以上の苦手意識があり、不意に頭を打擲されると、癇癪を起すというか、パニック状態になってしまうのだ。この悪癖のせいで、私はそれまで散々な目に合ってきた。

 決して身体的損傷を受けるような威力ではなかったが、Sが揮った暴力により、私はパニックと憤怒のカクテルのような感情にすっかり全身を支配された。

 私は隅落としのような塩梅でSをテイクダウンし、床に組み伏せてから彼の耳元で怒鳴りつけた。

「てめええええええええええええ、ぶっころすぞおおおおおおおおおおおおおおお」


 今思い返すと、暴力を揮われたことによるパニックと怒りに加えて、私の裡には、起きたかもしれなかった心霊現象を台無しにされたという、恨みの気持ちもあったのかもしれない。


 話をすっ飛ばして、爾後のことを簡潔に記そう。

 癇癪によるものだとは言い条、私はSを打ちのめしたことにより、変な自信を得た。Sは、激高し我を忘れた私に成す術もなく組み伏せられてしまった。何故、今までこんな無力な男のことを恐れていたのだろう。私はこの出来事のあと、最早恐れるに足らなくなった中年男の恐怖から解放され、実に清々しい心持になった。

 解放されたのは恐怖からばかりではない、私は職からも解放されたのである。

 ただし、馘にされたわけではなかった。

 職務中に上司を組み伏せ恫喝するという大事件を起こした私は、幹部連中の裁きを受けることになったが、夙に述べた通り、Sは別の職場で問題を起こした前科があった。それに加え、私へ行われていた職場内虐待の数々には目撃者がいた。

 以前よりSの横暴に辟易としていた他の従業員たちが、これを奇貨として反Sの旗印を上げ、幹部連中に物申し始めたのだ。こうしたことから、幹部たちも本件の処置には慎重にならざるを得なかった。復、幹部のなかには、この一件を社内での勢力争いに利用しようと画策したものもあったらしい。

 話が長くなったが、とにかく、この件に関して私は殆どお咎めなしとなり、よって今までと何の変りもなく仕事をすることができたし、Sに関する問題も、先述したように、既に私は彼を恐れていなかったし、幹部連中のSに対する監視の目も強まったことから、むしろ以前よりも労働環境は改善したのである。

 そうでありながら私が職場を去ることになった理由。これは自業自得としか言いようがない。

 私はこの一件で調子に乗ったのである。

 パワハラ上司を打倒した己が力に酔った私は、上司や幹部に対して徹底して反抗的な態度を取り始め、転帰、職場で孤立する羽目になり、身から出た錆の状況に半ば逆ギレをするようにして、辞表を叩きつけた。


 このホテルを去ってから数年後。ある書店にて立ち読みをしていた私は、急に肩を叩かれた。

 振り返ると、ホテル時代の同僚が立っていた。

 彼女は背が高く、長い黒髪が似合う綺麗な女性だった。その美貌から、彼女は職場でも相当に目立っていた。退職から数年経過していたにも関わらず、肩を叩いてきたのが元同僚だと気づいたのは、彼女のそうした特徴による。

 軽い挨拶を交わした後、彼女は私に言った。

「〇〇(私のこと)君が辞めちゃって、みんな超寂しがってたよー」

「最後はひどい辞め方をしちゃいました」

「まぁ、いろいろあったからねー。〇〇君のことが好きだったアレも、〇〇君が辞めてから出なくなっちゃんだよー」


 彼女がいうには、勤務中の私にはずっと、右肩と右脚と首が滅茶苦茶に捩じれたスーツ姿の男がつき纏っていたのだという。

 その男というか幽霊には心当たりがあった。

 個人的な因縁が有ったわけではない。

 入社当時、私は先輩社員からホテルの怪談のひとつとして、スーツ姿で体の節々が捩じれた男の幽霊について聞かされていたのである。その幽霊は何年も前からホテルの至る所に出没し、従業員や宿泊客から目撃されていたという。

 知らぬ裡、私は名物幽霊から気に入られていたようだ。彼女を含めた従業員のなかには、稀に私につきまとうその幽霊を目撃する者もいたそうだが、親切だか不親切だかは判らないが、誰も私には教えてくれなかったのである。

 

 冒頭に書いたように、私は心霊体験をしたことがない。

 私が去ってから、その幽霊はホテルに現れなくなったそうだが、ホテルから幽霊が私に憑いてきたのだとしても、今のところその存在を感知できていない。

 これまで一切、私は霊障の類や命に関わる災厄にも襲わていない。

 仮に今も幽霊が私に憑いているとして、呪っているわけでもなさそう。

 となれば、孤独な私にとってそれは長い年月を共に過ごした同伴者のようなものである。

 今これを書きながら、私は目に見えぬ友に――そしてその友は体の節々が痛々しくも折れ曲がっている――向かって強い紐帯と友情を感じつつ、

「一緒に頑張ろう」と、心の中で呼びかけてみる。


<了>




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