第4話

 私は今年、五十五になった。もう三十年以上前になる。私は父の会社を継ぐべく、毎日修行に励んでいた。商才に恵まれたようで、仕事をこなせばこなすほど、私は父に優秀な跡取りとして認められた。


 父は私に更なる希望を描いた。妻帯を求めたのである。更なるお家の繁栄を願ったのだ。私は父の更なる願いを叶えるべく、見合いをすることにした。


 実のところ、私は乗り気ではなかった。仕事が楽しく、結婚など考えている余裕がなかったのだ。だが、家庭を持たない男は社会的信用を得るのが難しい。そんな時代だった。私は身辺を整えるくらいの気持ちで見合いに臨んだ。


 美しい人だった。私は付き合いで花街に繰り出すこともあり、美しい女を目にする機会は多かった。だがどうだろうか。胸を劈かれるような感情を覚えたことは一度もなかったのだが。


 形ばかりを整えようとしていた私はたちまち彼女の虜となり、私の脳は仕事の機械から生き物の核に変化した。私はその美しい人を妻にし、大事にした。


 子供は二人生まれた。どちらも男の子だった。上の子は少々体が小さくか細かったが、母親似の綺麗な顔をした子だった。下の子は私そっくりで、悪戯の過ぎる子だった。どちらも大事な息子に違いなかったが、下の子の腕白ぶりと勉学への意欲のなさには悩まされたものだ。


 上の子は出来が良かった。小さな体を物ともしない強靭な精神、優秀な頭脳を持ち合わせ、跡継ぎに相応しく成長していった。私は上の息子を眺めながら、我が家の未来に『安泰』という文字を見たのだった。




 あれは、次男が十五になったころだったか。私はどうも次男の様子がおかしいことに気づいた。妻は気がついていなかったようだが、私は次男の視線が気になっていた。


 次男の目は、長男を追っていた。誰かに気づかれる前に視線を外していたようだが、私はその一瞬を見逃さなかった。そして、その両眼の色が何を意味するのか、それにも気がついていた。次男の両眼の色は、かつて私が妻に向けていた色と同じものだったからだ。顔が似ているからなのか、私はすぐに次男の心情に気がついたのだった。




 ある日、遠縁の怪我を見舞うため、妻と二人、泊りがけで出かけた。妻は息子二人だけを置いて家を空けるのはどうだろうかと迷う姿を見せたが、私は知っていた。そのころ天気に恵まれず、妻が退屈していたのを。私は、妻に憂さ晴らしをさせてやりたかったのだ。息子たちだってもう子供というほどでもない。離れに女中や下男もいるのだからそう心配するな。そう説き、妻を連れ出した。


 それが、あんなことになるなんて、思ってもいなかった。


 家に帰れば、長男が瀕死の状態だった。次男は俯き、私と目を合わせようとしなかった。これは勘でしかない。だが、私は次男が人の道から外れたのだと悟った。


 妻は半狂乱になり泣いた。私は身を切らんばかりに自身を責めた。なんということをしてしまったのだ。私が無理に妻を誘ったばかりに。私は次男の感情や気質を知っていながら、目を逸らしたのだ。二人して家を空ければ、昂りやすい次男が何かしでかすのではないかと想像できただろうに。いくら腕白な息子でも人の道を外れるような行いはすまいと、安直に判断したのだ。


 私は妻を懸命に慰めた。あなたのせいではない、と。だが、私のせいだとは言えなかった。




 その夜、夢を見た。


『かわいそうに。間違えたんだね、かわいそうに』


 誰の声か分からなかったが、その声は私の心臓をこれでもかと言わんばかりに刺した。


 そうだ、私は間違えた。過ちを犯したのだ。たとえ妻と二人で出かけるとしても、弟を呼び寄せ母屋に寝泊りさせるなどして、警戒していれば良かったのだ。私は妻に何かしてやりたいという意識にばかり気を取られ、優れた跡継ぎ息子を失ってしまった。




 息子の容態が安定したのを機に、私は息子を別荘に移すよう妻に告げた。


 一言、息子に声をかけてやりたかったが、何も言えなかった。息子は、私に捨てられたと思っただろう。優秀な跡継ぎ息子ではなくなったことに、私が失望したのだと思ったに違いない。その誤解を解いておきたかったが、私は罪悪感から、息子と顔すら合わせられず、窓から息子の背を見送った。




 それから一年近くが経過したころだった。妻が、長男に会いに行かないかと誘ってきた。


 私はまだどんな顔をして会えば良いか分からず、訪問を渋った。だが、それまでずっと塞ぎ込んでいた妻が珍しく明るい顔色を灯していたので、私はその顔を崩したくない心情から妻に従った。


 息子の部屋を前にして、私はぐっと拳を握った。最後に見た息子の背は栁の様に痩せ細っていた。少しは、体が戻っているのだろうか。私はどんな言葉をかけてやれば良いのだろうか。息子は私の顔を見て、どんな声をかけてくれるのだろうか。


 部屋に入るなり、私は過去の幻影に襲われた。目の前には、出会ったころの妻がいたのだ。もし本物の妻が傍にいなければ、私はその幻覚に呑み込まれていただろう。


 妻によく似た娘は、私の『娘』だった。何がどうして、そうなったのか。どんな奇術を使ったのか、全く分からない。だが、息子は『娘』になったらしい。それだけをやっとのことで理解した。




 『娘』の体が落ち着いたころ、私は『娘』に土産を一つ持って行った。小間物屋で見つけた紅だ。昔、初めて妻に贈り物をしたのも紅だった。女の喜ぶものなど何一つ知らない私が、初めて小間物屋に入り買った記憶が蘇った。


『ありがとうございます』


 『娘』は頬を染め、嬉しそうに笑んだ。あの時の妻と、同じ顔だった。


 私はとても誇らしい気持ちになった。こんなにも美しく、可愛らしい『娘』の父なのだから。どこに出しても恥ずかしくない『娘』だ。


 なぜだか分からないが、それが自然なように思えた。あの優秀な跡取り息子の方が夢だったかのように、ずっと昔から、私には『娘』がいたような気になったのである。




 『娘』に会った帰り道、女の童に声をかけられた。


『おじちゃん、それをおくれ』


 童は私の懐を指さし、そう言った。随分と不躾な童だったが、私は懐に入れていた飴玉を思い出し、童にやった。


『ありがとう』


 童は早速、飴玉を口に含んだ。童はすぐ飴玉に夢中となった。私はそのまま童を撒くことにした。


『おじちゃん、次は間違えちゃ駄目だよ』


 その声に堪らず、私は振り返った。童の玻璃の様な目が私を見ていた。


『何の話だい』


 放っておけば良かったものを。私が童に尋ねると、童は変わらず私を見つめてこう言った。


『息子のことだよ。おじちゃん、息子がいるだろう?』


『ああ、それが?』


『連れ添いのことだよ。間違えちゃいけないよ』


 気がつけば、女の童はどこにもいなかった。あれは何だったのか。逢魔が時の妖か。


 ただ、私は童の声を捨て置けずにいた。『次は』と告げた童の声がいつまでも張り付いていたのだった。




 夜、私は部屋に次男を呼んだ。いや、今ではもう『長男』か。


 跡取りとしての自覚を持った息子は、あれから随分落ち着いた。嫌っていた勉学にも懸命に励むようになり、かつての跡取り息子ほどではないが、それなりに認められる跡取り息子となっていたのだ。まだまだ修行は必要だが、そろそろ所帯を持たせてやらねばなるまい。その思惑から、『長男』を呼んだのだった。


 私は、息子に問うた。誰か好いた者はおるのか、と。いるのであればその者との縁を結んでやらねばなるまい。いないのであれば、世話してやらねばなるまい。


 息子は『おります』と答えた。だが、息子はその者と添い遂げることはないと、弱い音を零した。


『その方は、数年前に亡くなりました』


 俺のせいで、死なせてしまいました。そうして息子は、涙を堪えた。


 息子は、まだ想っていたのだ。だからこそ、自身が優れた跡取りとなれるよう、懸命な努力をしていたのだ。ただ跡継ぎを失ったお家のことを考えてのことではなく、死なせてしまった想い人への罪滅ぼしから、努力を積み重ねていたのである。


 息子を下がらせた後、私は悩んだ。彼らを添い遂げさせて良いものか、と。性の壁がなくなったとはいえ、血の壁は残酷なまでにそびえ立つ。同じ血から生まれた者たちを、添い遂げさせて良いのだろうか。


『次は間違えちゃ駄目だよ』


 童の声が耳から離れなかった。これは、どちらが間違いなのだろうか。きっと、世間は同じ血を持つ者同士の結婚を、『過ち』と言うだろう。そう、それは過ちなのだ。




 娘は、訪れた私を見て微笑んだ。妻と同じ顔で、私に微笑みかけたのだ。


『恨んでは、いないのか?』


 かつて、私は問うた。私は一度、『息子』を見捨てている。『事』の発端はさておき、私は傷ついた『息子』を古道具の様に別荘へ追いやってしまったのだ。


 娘は頭を左右に振った。優しい笑みを湛えながら、私を許してくれた。


 そして、泣いた。娘は愛しい人を想い、泣いたのだ。娘の願いを叶えてやりたい。私はこの娘の父だ。子の幸せを願わぬ親など、どこにいる。




 今、私の前には、息子と娘が並んでいる。思ったとおり、美しい花嫁姿だ。私と妻が祝言を挙げた時の光景を見せられているかのようで、懐古の情が押し寄せた。


 私は、間違えたのかもしれない。同じ血を持つ二人を添い遂げさせるなど、あってはならない。


 だが、そもそも人の性が変わることからして、ありえないことなのだ。なら、娘の血肉だって、以前と同じものなのかどうか分からない。血の構造を調べる技術がない今、二人の血が全く同じものであるかどうかを調べる術はない。


 だから私は、またもや目を逸らすことにした。此度は確固たる意志を持って逸らしたのだ。


 息子と娘が、目を合わせ微笑み合う。息子は照れ臭そうに、娘ははにかんで。私の子供はどちらも幸せになった。これからも二人で、より幸せな人生を歩むだろう。


 この先、たとえあの声が聞こえたとしても、私の心は決して揺るがない。私は、間違えていない。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

過ち ーゴースト特別編ー 菜尾 @naonyasuke

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ