第3話

 私は二十八になりました。私は本日、お嫁にゆきます。少しばかりとうが立った花嫁でございますが、お相手の方は快く私を受け入れてくださいました。


 お相手の方と出会ったのは、私が三つの時。お相手は生まれたばかりでした。私たちは同じ家で幼少期と思春期を過ごしたのでございます。


 では、なぜ頃合いに結婚をしなかったのか。そう思われるのも無理はございません。これまで私たちが歩んだ道は、決して平坦なものではなかったのでございます。




 『僕』が自分の体を変だと思ったのは、七歳のころだった。自分の腹の下にある突き出たものが、何か嫌だと思ったのだ。


 それは男子の象徴で、男子なら誰にでもあるものだった。『僕』は男子だから、それがあるのは自然なことなのに、『僕』はその突き出たものが自分に相応しくないもののように感じたのだ。


 『僕』は体を見られるのが嫌になった。女中に体を洗われるのも嫌になり、自分で体を洗うようになった。服を着替えるのも一人でやり、いつも辺りを気にしながら服を着替えた。両親はそれを『僕』の自立だと捉えた。


 『僕』は小さな体を馬鹿にされたくなくて、懸命に剣道に打ち込んだ。体が小さければ、商談でも押し切られてしまうのではないか。それでは跡継ぎが務まらない。『僕』は勉学にも打ち込んだ。『僕』はお家の然るべき跡取りとなれるよう、懸命に努力した。


 努力すればするほど、罪悪感が押し寄せた。『僕』がお家に相応しい跡継ぎ息子になろうとすればするほど、両親に嘘をついている気がして、『僕』は後ろめたい気持ちになったのだ。




 『僕』には三つ年下の弟がいた。弟は『僕』と違い、生まれつき大きな体をしていて、『僕』が十五になるころには、『僕』の背を越してしまった。


 力も強く、父に似ていた。勉強は苦手だったけど言葉が巧みで、怖いものなしに突っ走る勇気があった。生まれる順番が違えば弟が跡継ぎとなり、弟が家を繁栄させたのではないか。少なくとも『僕』より相応しい気がした。


 『僕』は弟が羨ましかった。男らしく生まれた弟が羨ましかった。弟のような姿に生まれていれば、『僕』がこんなにも自分を嫌いになることはなかっただろうに。


 でも、もし『僕』が弟の様な体になれば、『僕』はますます自分が分からなくなるような気がした。今の姿にすら違和感のある『僕』がもっと男らしくなれば、『僕』はますます自分の魂が間違った器に入っているような気がしてならなかったのではないか。より相応しい跡継ぎとなることを望みながらも、男らしくなるのも嫌で、『僕』はずっと混乱していた。




 弟は、『僕』が十九になるころには、成熟した男性の如く立派な体躯になっていた。いつまでも少年のような体の『僕』とは違う姿。『僕』は跡継ぎとしてその体を求めていながらも、その体になるのは嫌なままだった。


 弟は『僕』を慕っていた。『僕』に、何らかの危機が迫れば、自分のことなどお構いなしに守ろうとしてくれた。


 『僕』は情けなくなりながらも、弟の気遣いを嬉しく思っていた。『僕』も弟が好きだった。




 そんな感情を、いつまでも信じていられたら良かった。




 ある日、両親が遠縁宅に泊りがけで出かけた。


 『僕』は別室にいる弟を心配した。大きななりをしているが、両親がおらず心細いのではないか。いや、隙あらば悪戯をしようとする弟のことだ。ここぞとばかりに大変な悪さをするのではないかと怪しんだが、意外なことに弟は大人しくしていた。幸いだなと、心配を打ち消した。


 深夜、弟が部屋にやってきた。ああ、やっぱり少し心細かったのだな。そう捉え、『僕』は弟を部屋に招き入れた。これからお家を繁栄させていかなければならない、二人だけの兄弟だ。お家の未来を、兄弟で語り明かそうか。


 そんな『僕』の思惑は、『僕』の体が褥に押し倒されたことによって打ち消された。


 僕は何度も抗った。駄目だ、駄目だと、何度も訴えた。兄弟でこのようなこと、許されるはずがない。だけど弟の大きな体を押しのける力など『僕』にはなく、『僕』は弟の欲と力に屈してしまった。


 事が終わり、弟は『僕』を抱きしめた。謝りながら、心の内を話してくれた。その音に、『僕』はただ慰み者にされたのではないことを知った。


 その音が、じんわりと『僕』の心に沁み込んでいった。決して馴染んではいけないものが、『僕』の胸に沁み込んでいったのだ。




 弟はそのまま、『僕』のしとねで寝てしまった。


 『僕』は、どうしたらいいのか分からなかった。ただ、疲れていた。


 『僕』は何度も弟を拒んだ。そうしなければ、心が受け入れてしまうことを分かっていたから。自身の中にある、決して持ってはいけない感情から、弟を許してしまうことを分かっていたから。


 『僕』の魂は歓喜していた。その一方で、『僕』の魂はそれ以上の絶望に襲われていた。


 『僕』はこの体で弟を受け入れたくなかった。『僕』の器は間違っている。『僕』の間違った器を愛してほしくなかった。


 『僕』は、ずっと無理をしていた。器が男子であるばかりに跡取りとして望まれ、頼りない体で懸命に跡継ぎになれるよう努力していたが、自分が跡継ぎになれないことに心のどこかで気づいていた。知っていながらも、器に与えられた宿命のため、無理をしていた。


 そして、愛してはいけない人を愛してしまい、その心情を押し殺していた。周りに嘘をつきながら、ずっと無理をしていたのだ。


 もう、疲れた。疲れた、疲れた……。


 なんて醜い存在なのだろう。必死に人の顔をした、醜悪の権化だ。


 このまま生が続けば、いずれ『僕』は妻を娶らなければならなくなる。『僕』にそれはできない。『僕』には、妻を幸せにする世界が見えない。


 『僕』は父の部屋から短刀を拝借し、風呂場で『男』を切り取った。だが、そんなことをしたところで、穢れが拭えるわけもない。


 惨めだった。あまりに惨めで消えてしまいたくなった。こんなまがい物の体から、抜け出してしまいたかった。


 このまま『僕』は、人を欺く怪物に成り果てるのか。底を知らない醜悪な化け物になってしまうのか。


 こんな生は終わらせなければいけない。やっとのことで留まる意識の中、『僕』は首の筋を切った。『男』をこの世に置いていくことで、自分があの世で望むままの姿になれることを願った。


 『僕』を見つけた弟は、生きてくれと『僕』を抱きしめた。『僕』は薄れゆく意識の中、弟に全てを任せて逝くことを申し訳なく思いながらも、喜んでいた。愛する人の腕の中で死んでいけることを喜んだのだ。




 『僕』は何日も生死の境を彷徨い、夢を見た。


『かわいそうに。間違えたんだね、かわいそうに』


 誰の声だかは分からなかった。でも、その言葉は『僕』の心を深く傷つけた。


 生き長らえた『僕』は絶望感でいっぱいだった。なぜ、死ねなかったのか。なぜ、これからも生きていかなければならないのか。その絶望感に涙した。


 夢で聞いた声が頭の中を漂っていた。違う、『僕』は間違えたのではない。『僕』は間違いなのだ。間違った器、間違った生、間違った愛。『僕』に間違っていないものなど、何一つない。ただの、醜悪だった。




 父は『僕』を別荘にやってしまった。優秀どころか、跡継ぎの資質すら失った『僕』は、父の失望でしかなくなった。父の顔など見られるはずがなく、『僕』は父の目から離れた場所に行けることに安堵した。


 母は足繁く『僕』の見舞いにやってきたが、同様、『僕』は母の顔を見られずにいた。母は『僕』を気遣ってくれたが、『僕』に母を気遣うゆとりはなかった。罪悪感はあったものの、『僕』はまだ、弟のことを考えていたのだ。


 もう二度と、会うことはないだろう。弟にお家の全てを背負わせてしまった。勉強の嫌いな弟に、過酷な命を背負わせてしまった。その罪悪感に苛まれながらも、『僕』はまだ、弟を想っていた。


 夜道を歩く時、『僕』を守るように周囲を警戒していた弟。弟が『僕』をただ兄として守っていたのではなかったように、『僕』も弟をただ頼もしいと感じていたのではなかった。殿御に守られる姫君の心情で、弟を頼っていたのだ。


 あの晩、『僕』が本当に描いていたものは、兄弟の語らいなどではなかった。尋ねてきた弟を見て、私は恋人の逢瀬を夢見たのだ。でももう、そんな夢を見ることはない。


 どうして生き延びてしまったのだろう。こんな何にもなれない体で、これからどうしようというのだ。『僕』ただただ自身のゆく先を悲観した。




 鍛錬を辞めてしまったからだろう。『僕』の僅かな体の筋肉は、柔らかな肉へと姿を変えた。一日中部屋に籠りっぱなしのせいで、少し肉付きも良くなったように思う。


 腰回り、いや尻の厚みが少し増えたようだ。胸の辺りの肉も、他の部位に比べ増えたように思う。


 一番理解に苦しんだのは、『僕』の股に、窪みができはじめたことだった。その窪みはだんだん深くなり、ある日『穴』となってしまった。


 日を追うにつれ、『僕』の体が変わっていく。何でもなくなった体が、何かになろうとしていた。


 もう、諦めていた。自分がどんな怪物になろうと知ったことではない。勝手に変わるがいい。なのに、『僕』の心の奥底には、何やら煌めくものが湧き出していて、『僕』はどこまでも自暴自棄になることができなかった。




 ある日、その穴から血が漏れた。鋭い痛みはない。ただ体がだるく、頭に鈍い痛みが漂っていた。腹も妙な圧迫感で痛んだ。


 『僕』は自分の体に何が起こっているのか分からなかった。風邪なら『なんのその』で乗り越えただろうに、酷く気が滅入り、その苦痛と戦う気力すら削がれた。意識はどこか漫ろで、妙な不安に襲われ。動きたくなかったが、いつまでも汚れた着物を着ているわけにもいかず、汚れた着物を着換えた。


 それを、母に見つかった。母は『僕』の体に触れ、涙を流した。ますます母を絶望させてしまったのだと思い謝ると、母は『僕』を抱きしめ教えてくれた。母はずっと、『僕』が自分の体に疑問を持っていたことを、知っていたのだ。母は『僕』が望む体を手に入れたことを、喜んでくれたのだった。




 私は表向き、母の遠縁の『娘』ということになった。


 母は私に、様々な物を買い与えてくださった。艶やかな着物、簪、化粧品、月のものに必要な道具。まだ珍しかったドレスも買ってくださった。


 私はまだ自分の変化に戸惑っていたが、母の熱心な心遣いが嬉しかった。何より、小さなころからずっと憧れていた物が目の前にあることが嬉しかった。私はやっと、自分の心に合ったものを手に入れ、解放されたのだった。




 体の変化が落ち着いたころ、父が訪ねてきた。私はそのことを前もって聞かされていなかった。久しぶりに見る父の顔に、全身が凍り付いた。


 父は、おもむろに私から目を逸らした。そうだろう。息子が『娘』になったなど、不気味であるに違いない。


 けれど、それは私の思い違いだった。父は、私の姿に照れていたのである。父の胸中を知った私は、拍子抜けしてしまった。どうやら私は、美しいようだ。厳格な父の意外な姿を見て、頬が緩むのを堪えた。




 父は、私に紅を買ってくださった。綺麗な紅い色。昔、母の鏡台で眺めた色と同じ色だ。


 その鮮やかな色に誘われ、唇につけてみた。自分でこう捉えるのも恥ずかしいが、よく似合っていると思った。やっと、自分を受け入れられた気がした。


 父は自然に私を『娘』として扱ってくれた。父は一つだけ、『恨んではいないのか?』と私に問うた。なぜ、恨まなければならないのだろうか。何を恨むのか、まるで見当がつかなかった。


 私は、幸せだった。体が変わっても受け入れてくれた両親に、私はやっと自分そのものが愛された気がして嬉しかったのだ。




 三年くらい経ったころ、父に縁談を持ちかけられた。年頃の『娘』に、縁談が持ち上がるのは不思議なことではない。


 私はまだ、どこかで自分を特別な人間だと思っていたのだ。それは両親も同じだと思っていたのだけれど、両親は既に私を『普通の娘』として見ていたのだった。


 父の声に、私の全身から血の気が引いていく音がした。私が、お嫁に行く。知らない殿方の奥様になる。


『私は、』


 決して、知られてはいけない感情だ。たとえ性が変わったとしても、これだけは解放してはならないと自身を戒めていたのに。


『私は、……』


 今度こそ、両親に愛想を尽かされてしまう。こんな私を受け入れてくださった両親を、絶望させてしまう。でも私の喉は私の想いに忠実で、私は声を止められなかった。


『私は、あの子の、奥様になりたい』


 ずっと堪えていたものが胸から溢れ、涙となった。叶うはずもない願いを、なぜ口にしてしまったのか。でも私の切なる願いは涙となり、枯れることを知らなかった。


 両親は、私の願いを汲んでくださった。まだ、『先方』が何と仰るか分からないが、と念を押されたけれど、私は僅かな期待を胸に、成り行きを見守った。




 私の願いは叶いました。お相手の方は私を望んでくださったのです。父と同じ顔で、照れるその方を見るのは少しばかり楽しゅうございました。ただ一つだけ、釘を刺しておきましたよ。『乱暴な方は嫌いですよ』、と。お相手の方は顔を真っ赤にして、参っておられました。


 今、私の隣には愛しい方がおります。苦しい胸中を語ってからも、それなりに苦行の道でございました。にわか女子になってしまった私は生まれながらの女子より出発が遅く、それはそれは花嫁修業に苦戦いたしました。これなら竹刀を振っていた方が楽だったと思ったこともございます。


 特に母は厳しゅうございました。いつも優しかった母が鬼に見えたことも幾度か。父は随分お優しくなられたのに。性が変わるだけで、これほどまでに見えるものが違うのかと驚きました。


 ですがその甲斐あり、私は愛する方の奥様になることができたのでございます。お相手の方も、随分と努めたようです。本当に立派になられて。


 ですが私はまだ夢の中にいる気がして、そっと隣に座る愛しい方に目をやりました。


 その方も私を見ておりました。


「幸せでございます」


 私の口は、自然に言の葉を紡いでおりました。



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