第2話
私は今年、五十二を迎えました。それなりの名家に生まれた私はほどほどに恵まれた青春時代を過ごし、二十二の年に結婚いたしました。
相手の方は、さる華族のお方でございました。商才に長け、威厳に満ちた、他所の方には少々堅苦しく映る方だったようでございますが、私にはとても良い夫でございました。少々不器用なところがおありでしたが、懸命に私を気遣い、労わり、愛してくれる、そんな夫が私は好きでございました。そして、今でも愛しております。
少々お話が過ぎてしまいましたね。そうして私は、二人の子供に恵まれました。私も夫も、元気で可愛らしい子供に恵まれたことを、心の底から喜びました。
ただ、私は二人の子供に恵まれることを、その子たちが生まれる前から知っていたのでございます。
私の母の故郷には、さる有名なお方がおりました。結婚前、私は母に連れられて、そのお方にご挨拶に伺いました。
そのお方は、丸髷を結っておられました。お年は既に八十に届いていたのではないかと思います。白い髪には不思議と枯れた様子がなく、むしろ雪解けの様に輝いていたと記憶しております。
気難しい方とお聞きしていたのですが、そのお方は随分私を気に入ってくださいました。そのお方は八十とは思えぬ背筋で私をご覧になると、皺のあるお顔に、ますますの皺をお作りになり微笑まれました。
『子供は二人生まれるよ。一人は女の子、もう一人は男の子だ。家は栄えるよ』
ですから、私には子供の数が分かっていたのでございます。ただ、そのお方は一つ、間違えてしまったようです。子供は二人とも、男の子だったのですから。
二人の息子はすくすくと育ちました。上の子は少しばかり体が小さくて、本人同様、私もそちらを気にかけておりましたが、息子はそんな欠点を打ち消すかのように、様々な努力を怠りませんでした。強い子に成長したのでございます。
下の息子は、やんちゃでございました。力は強かったものの勉学はめっぽう苦手で、夫と二人、幾度となく溜め息を零したものでございます。
私は幸せでございました。優しく頼もしい夫、優れた長男、逞しい次男。小さな問題はあれど、絵に描いた幸せとはまさにこのことだと信じて疑いませんでした。
上の子が、十二を迎えたころでございましょうか。私は夢を見ました。
『かわいそうに。間違えたんだね、かわいそうに』
何のことか分かりませんでしたが、私は夢の中で、知らない声に何度もそう囁かれました。一体誰だったのか、今でも分かりませんが、その言葉が何を意味するのか、私は後々知ることとなったのでございます。
上の子は、なかなか体が逞しく育ちませんでした。ただ背が伸びないだけではなく、か細かったのでございます。ところが軟弱だったのかと問われましたら、答えは『否』でございます。剣道の腕は師範が舌を巻くほどで、『あの細い体のどこからそれほどの力が』と人々は噂いたしました。
上の子は、ほっそりした体のまま育ってゆきました。『なに、これからだ』と夫は言ってくださいました。十代のころは、まだ体が男に成りきらないのだ。二十を超えるころには逞しくなるだろうよ。夫はそのように考えていたようです。――が、なぜだか私は息子が『男』にならない気がしたしました。
ある日、私は上の息子を探しておりました。
息子は私の部屋におりました。珍しいことと思いつつ、私は息子に声をかけようといたしました。
ですが、私は息子を呼べませんでした。その子の動作から目が離せなくなったからでございます。
息子は、鏡台の前に座っておりました。息子はちらちらと辺りを覗うと、引き出しから紅入れを一つ取り出しました。息子は蓋を開け、じっと紅を眺めておりましたが、やがてスッと、小指で紅を拭い取ったのでございます。
私は動けなくなってしまいました。息子がなぜ、紅を。私の喉に、硬いものが流れてゆきました。
息子はじっと自身の小指を見つめると、さっと頭を振り、立ち上がりました。その音に意識を呼び覚まされ、私はすぐにその場を離れました。息子を探していたことなど、もうどこかに飛んでいっておりました。
私は書斎に逃げ込むと、その場に崩れ落ちました。
私の体は恐怖に震えておりました。息子がなぜ、紅などに興味を示すのでしょうか。
(好きな女の子ができたのかしら?)
好きな女の子への贈り物を探したくて、私の鏡台を開けたのではないかしら。私は一度そう考え、終わらせようとしました。が、ますます私の体は恐怖に凍り付きました。その思考が逃避でしかないことを、既に悟っていたからでございます。
息子の動作は、とても自然なものに感じられました。年頃の女子が化粧品に興味を示すのは自然なことでございます。その意識と何ら変わらぬ感覚で、私は息子の動作を見ていたのでございます。私は息子が化粧品に興味を示したことが怖かったのではない。息子が化粧品に興味を示したことに、何の不自然も感じられなかったことが怖かったのでございます。
先程の、息子の顔が思い出されました。悲しそうに、紅を見つめる息子の姿。
『かわいそうに。間違えたんだね、かわいそうに』。あの夢の言葉は、このことを指していたのでございましょう。
あのお方は、お告げを間違えたのではなかった。間違えたのは私だったのでございます。私は、間違えて『息子』を生んでしまったのでございます。
ああ、何ということでしょう。私は赤子の様に声を出して泣きました。女中がすぐに私の声を聞きつけ、様子を見にきましたが、私は咄嗟に近くにあった文芸雑誌を手に取り、悲しい話を読んだのだと下手な誤魔化しをいたしました。
それからも、上の息子は何事もなかったかのように毎日を過ごしました。何事もなかったかのように振舞ったのは当然のことでございましょう。私が見ていたことなど、知らなかったのですから。
息子は毎日、お家の然るべき跡継ぎになれるよう、努力を怠りませんでした。申し分ない学力、人望も厚く、気品があり、類稀なる剣道の才を受け。誰もが羨む跡取り息子として成長してゆきました。
私はそんな息子を眺め、あれは何かの間違いだったのではないかと思うようになりました。ちょっとした好奇心から、それこそ女子に対する関心から起こした行動だったのだ。いつしかそのように片づけたのでございます。
その日は泊りがけで、夫の遠縁を見舞いに行きました。幸いその方の怪我も大したものではなく、夫と私は久しぶりに会う親族と語り合い、楽しい夜を過ごしました。
ですが次の日、私は激しい後悔に襲われました。息子二人を残して家を離れたことを、死を意識するほどに後悔したのでございます。
家に戻れば、上の息子が瀕死の有様でございました。義弟の計らいで呼ばれた主治医から告げられたことは、今でもどんな言葉だったのか思い出せないくらいでございます。それくらい、私は狼狽しておりました。
数刻の後、やっとのことで息子が『男』を切り取り、自害しようとしたことを理解いたしました。それを理解した私の頭に蘇ったのは、かつての息子の姿でございました。私の鏡台から紅を取り出し、自身の唇にひくのを思いとどまったあの子の姿。
やはり、私は間違えていたのだ。私が間違えたのだ。私があの子を『息子』として産んだばっかりに――。
私は声を出して泣きました。夫は私に寄り添ってくださいました。自分の教育が至らなかったせいだと、私が自分自身を責めているのだと思われたのでしょう。夫は『あなたのせいではない』と、幾度となく慰めのお声をかけてくださいましたが、その声は私に届いておりませんでした。
もし、あの子が死んでしまったら、私も死んでしまおう。私の罪を息子に被せて、のうのうと生き続けることはできない。私の頭の中は、その思いでいっぱいでございました。
幸い、息子は息を吹き返しました。ですが、もう『男』ではありません。『女』でもありません。息子は『何か』になってしまったのでございます。
なぜか、夫は息子を責めようとしませんでした。叱りつけもしませんでした。ですが、労わりもしませんでした。慰めもしませんでした。息子が『何か』になってしまったせいなのでしょうか。
夫は上の息子と何の言葉も交わすことなく、上の息子を別荘にやってしまうよう私に告げました。ここに居ても好奇の目に晒されるだけだと考えたのでしょう。私は渋々ながらも夫の声に同意し、息子を別荘に移すことにいたしました。
息子が別荘に移ってからも、私は足繁く息子のもとを訪れました。
目覚めた後も、息子は屍のようでございました。ぼんやりと窓の外を眺めたりしながら、ただ体を癒す毎日。私の相手はしてくれませんでした。
きっと、私が産み違えたことを恨んでいるのだろう。息子に恨まれる苦痛に、一時私の足は遠のこうとしましたが、私は罪を償わなければいけません。懲りずに息子のもとを訪れました。
そうしているうちに、息子が少しずつ話をしてくれるようになりました。許してくれてはいなかったのでしょうが、返事くらいはしてくれるようになったのでございます。
長らく、外に出られなかったからでしょう。息子の体は以前より華奢となり、切らずにおいた髪は少しずつ長くなってゆきました。そんな息子を眺め、私は少しでも息子が『なりたいもの』に近づけているのではないか、と心が安らいだのでございます。
半年ほど経過したころだったでしょうか。息子のもとを訪れると、息子は咄嗟に何かを隠しました。
『親しき仲にも礼儀あり。』
私はそれを忘れ、いきなり戸を開けてしまった非礼を詫びましたが、意識はすぐに息子が隠したものに囚われたのでございます。
私が求めると、息子はそっと隠したものを私に見せてくれました。
それは、血の付いた着物でございました。もしや、まだ傷が塞がらないのだろうか。血の気が引きましたが、女の勘でございましょうか。その血がただの血ではないような気がしたのでございます。
先程の失礼はどこに行ってしまったのでしょう。私は勘の赴くまま、断りもせず息子の体に触れました。
胸に、柔らかな感触がございました。その感触を手応えとし、私は着物に付いた血が何の血か、確信したのでございます。
私の目から涙が零れ落ちました。息子は、私が絶望の淵に突き落とされたと思ったのでございましょう。『申し訳ございません』と、鈴を転がすような声で、私に何度も謝りました。
私は首を振り、息子を抱きしめました。いえ、もう息子ではありません。『娘』でございます。息子は望んだ姿を手に入れたのでしょう。なぜ、このようなことが起こったのか分かりません。この不思議に、私は涙が止まりませんでした。
今日、私の『娘』は祝言を挙げるのでございます。残念ながら、首元に薄っすらと傷が残っておりますが、それは『娘』の美しさを損なうほどではございません。
本当に、美しい『娘』に成長いたしました。少しばかり結婚が遅れてしまいましたが、大したことではございません。『娘』は愛する人に望まれ、お嫁にゆくのでございますから。
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