過ち ーゴースト特別編ー
菜尾
第1話
俺は来月、二十五になる。『心身ともに強くあり、当家の然るべき後継ぎとなるよう』。両親の切なる意思を汲み取り、俺は十七の年から日々勉学、鍛錬に精を出してきた。そんな俺の努力を、両親は認めてくれたのだろう。両親はお家の更なる繁栄を望み、俺は同意した。
今日、俺は祝言を挙げる。
俺には三つ上の兄がいた。物腰の柔らかな人だった。小柄な体から見くびられることもあったが剣道の達人で、ちょっかいをかけられても返り討ちにしていた。『あのか細い体から、一体どうしてあれだけの力が』。人々はそう囁いた。兄の実力は界隈で有名となり、やがて兄をからかう者はいなくなった。
学力も申し分がなかった。常に一番の成績を誇り、さすがは我が家の跡取りだと両親は兄を自慢に思い喜んだ。容姿端麗、成績優秀、柔らかな物腰ながらも芯が強い。小柄である点を除けば、まさに両親の理想と表すのに相応しい跡取りだった。だが兄自身がそれを鼻にかける様子は全くなく、俺にはとにかく優しい人だった。俺もそんな兄を尊敬し、慕っていた。
その感情を、いつまでも大切に抱いていれば良かった。
十五になるころだった。級友から近所に住む女子への想いを聞かされ、大人になる扉が一つ開いた気がしたのを覚えている。顔を赤らめ、懸命に言の葉を紡ぐ級友を眺め、俺にもいつかそんな人が、と頭の中で呟くと同時に、何やら得体の知れない感情が生まれた。級友に先を越された悔しさだろうか。級友を取られてしまったような寂しさだろうか。決着のつかない胸中のまま、俺は家路に就いた。
家には兄がいた。兄の柔和な笑みを見るや否や、その感情の正体は襲いかからんばかりに姿を現した。級友の抱く感情と同じものが、自身の中にあることを知ったのだ。だが、それは決してあってはならない感情だ。その戒めは感情の芽生えと同時に生まれていた。だからこそ、俺は十分察することができた自身の感情を理解できないでいたのだった。
俺はその感情に蓋をし続けた。決して持ってはいけない感情だ。人であるためには、その感情を捨ててしまわなければならない。だが、その感情は俺の中に棲み続けた。
俺は兄を守ることにした。いくら剣道の達人でも、夜に何人かで囲まれてしまえば、太刀打ちできないこともあるだろう。なら、少しでも絡まれる理由を失くしてしまった方がいい。俺は兄が夜に外出する時は決まってついて行った。そうすることで、兄への感情を昇華してしまおうと思ったのだ。
そうして、二年が経過した。
ある日、両親が遠縁を見舞うため、一晩家を離れた。
俺の中はもう、歪な感情で埋め尽くされていた。胸の中は真っ黒で、手に何やら触れてはいけない、武器のようなものを持っている気がした。燃えるような感情でありながら、乾いているようでもある感情。その感情を抑える術がもう、俺にはなかった。俺は廊下を歩き、兄の部屋へ行った。
兄はまだ起きていた。もう床に就こうとしていたようだ。薄暗い灯りの中で、兄を見つめ、俺は、人の道を外れた。
兄は俺を拒んだ。駄目だ、駄目だと何度も俺に訴えた。だが、俺は兄の声を通さなかった。
普段、柔和な様子を覗わせながらも、毅然とした態度を崩さない兄が、体を震わせ泣いた。だが俺はもう、人の道を外れた怪物でしかなかった。兄の必死の願いは俺の耳に届かず、俺は兄を手に収めた。
目が覚めれば、兄の姿はなかった。暫しの間、兄の床で眠ってしまったようだ。まだ朧げな意識のまま、俺は兄を探した。
俺は呼吸を忘れた。風呂場で、兄が倒れていたのだ。俺が慌てて兄を抱き起すと、手がぬるりと濡れた。水の感触ではない。俺はすぐに灯りを点けた。
兄の首が真っ赤に染まっていた。赤い液体は兄の白い寝間着までをも赤く染め、それとは裏腹に兄の顔は青白くなっていた。
俺は何度も兄を呼んだ。必死に首元の傷を押さえ、兄の意識に訴えかけた。兄からの返事はない。助けを呼ばなくては。俺は自分の寝間着を兄の首に当てたまま、一度その場を離れた。
まだ明け方にもならない時刻に下男を叩き起こし、近くに住む叔父に使いをやった。そうして叔父が来るまでの間、風呂場に戻り兄の首を押さえ続けた。
まだ、僅かに息があった。その弱い音に、俺は何度も呼びかけた。すると兄はほんの僅か、意識を取り戻した。
『もう、疲れたんだ』
兄の口から、音が漏れた。擦れた、耳をそばだてなければ聞き取れないくらいの弱い音だったが、確かに兄はそう言った。
兄は、ずっと無理をしていたのだ。ただ本当に、強い人ではなかったのだ。その細い体で両親の期待を一身に背負い、ずっと無理をしていたのだった。俺はそれに気がついていなかった。そうして、俺は兄を追い詰めた。
それでも、生きてくれと願った。どんな罰でも受ける。これからは兄のために生きていく。だから、生きてくれと願ったのだ。
晩に、夢を見た。
『かわいそうに。間違えたんだね、かわいそうに』
その声は、俺を強く痛めつけた。『かわいそうに』と言いながらも、俺を責めているとしか捉えられない声。そうだ、俺は間違えた。実の兄を辱めるなど、決してやってはいけない行いだ。同じ性を持ち、同じ血を持つ者と交わるなど、幾重にもなる過ちに違いなかった。
幸い、兄は一命を取り留めた。だが、それは決して喜ばしいものではなかった。
なぜ、あの時気がつかなかったのだろう。俺は医者と両親が話すのを、盗み聞きしてしまった。
兄は、自身の『男』を切り取っていた。兄は屈辱と絶望から、『男』を切り取ったのだ。首の血だけで、寝間着があれほどまでに赤く染まるはずがなかったのだ。なぜ、気がつかなかったのだろう。
俺は兄に会わせてもらえなかった。両親は、何があったのかを察していながら、俺に一切の詰問、叱責をしなかった。そうしてお家の暗い一夜を、葬り去ったのだった。
兄に会わせてもらえないまま、半年が経過した。兄の見舞いから帰った母が、赤い眼を床に落とし、言った。
『おまえの兄は、もういません』
それだけを告げ、母は足早に俺の前から姿を消した。俺を見られるわけがない。俺も母の顔を見られなかった。どうしてかは決まっている。俺が兄を殺したからだ。
俺は兄を殺した。あの高潔で美しい兄を辱め、殺したのだ。そうして、両親の希望をも殺してしまった。
このまま、この家は終わってしまうのか。有望な跡取りを失ったこの家は終わってしまうのだろうか。
俺が、なるしかなかった。自分が優秀でないことは百も承知だが、跡取りとなれるよう、ただ励むしかない。両親を絶望から救い出し、死んだ兄に赦しを乞い続けるには、そう努めるしかない。俺にはそれしかできない。たとえ血が滲もうとも、精神を砕かれようとも、今後俺は家のために、生きるしかなかった。
その日から、俺は必死に努力した。優れた兄の足元にも及ばないだろうが、それでもただひたすら、家のために尽力した。
半年前、母の遠縁にあたる女性を紹介された。三つ年上だと聞かされたが、俺に両親の提案を拒む術はなく、俺はその人に会った。
一目で気に入った。――と言うのは、表向きの感情に過ぎない。彼女を目に映すなり、俺は足元から崩れ落ち、泣き叫びたいのを必死で堪えた。紳士の面で彼女といくつかの言葉を交わしたが、何も覚えていない。俺はただひたすら、自身の内に湧き上がる声を堪えていた。俺の精神はただひたすら、彼女の足元に跪いていた。
この人を迎えるため、俺は日々努力を積み重ねてきたのだ。両親は、こんな俺にこのような方を引き合わせてくれたのか。なんということだろう。有り余る光栄だ。幸せになってはいけない俺が、幸せになるなんて。感謝などという言葉では表せないほどの情が押し寄せた。
これからは、彼女のために生きていく。俺は彼女に忠誠を誓い、服従したのだった。
今、俺の隣には彼女が座っている。ちらりと傍を覗えば、彼女もちらりと俺を覗った。白無垢に白い肌がよく映える。眉を引き、紅をさし。兄と同じ顔が、俺を見ている。
「幸せでございます」
彼女の唇が、小さな音を作る。そうして首に薄っすら赤い傷を持つ彼女は、その美しい顔にこの上ない笑みを浮かべた。
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