10話 ここにいる意味
目が覚める。
「……、あれ?」
微睡みの意識の中で溢れる言葉。
途端に地面に膝を突いて、訳も分からずに心の動揺を晒す。
広がる視野。相変わらず青空は遠い。これから厳しい季節が訪れるというのに、太陽の光を浴びる樹葉は落ち着いた青緑色をしていて、風に吹く度に重なる葉擦れの音は大した理由なんてないのに、どこか安心を得る自分がいた。
火照る体温を。熱を帯びた心の爆発も。秋の風がそっと冷ましてくれる。
自然の色彩美が心の天気を晴れにしてくれた。
「いつの間に、私は……」
それでも周りが回るような、ふわふわした目眩に困る。
気怠さを我慢しようと未来は頭を押さえる。重い体。全身に走る筋肉痛。不満と呆然が交錯していく中で、彼女の視界の片隅に二つの影が伸びてきた。
「やあ、疲れは取れたかな?」
手を上げて挨拶をするのはお洒落に着こなす大学生、日比谷調だった。
紺色のタフタスカートを揺らし、ブーツの音が近付いた。未だに朦朧としている未来に救いの手を差し伸ばす。
「ほら、立てる?」
「あの、……ありがとう、ございます」
「いいっていいって。助け合いは基本中の基本。困ったときはお互い様だよ」
手と手が繋ぎ合わせ、伝う感触の熱はどこか懐かしくて。
何度も経験した情景。
暖かくて。切なくて。嬉しくて。悲しくて。
言葉では形にならない不思議な感覚。その心の正体を知ろうと他人に歩み寄る。繋がりが消えてしまわないように、恐怖を引き合いに、人々は絆を深めた。
一人は弱い。
本当は知っていた。そうなのかもしれないと。
ふと我に返る瞬間がある。何もない現実に怯えることだ。遠い日の将来を考えても未来の映像が思い浮かばない。嫌にも明日が来る。勝手に時間の針が進む。過る不安に頭を抱えてしまう孤独の自分は鳥籠の中で震えていた。
心の壁は脆いのに繋がりを拒絶する。
触れると自身が傷付いて、触れると他人に気付かされて。
それでも、欠けた心のピースを補おうと、他人の優しさを求めてしまうのだ。
本当は。
孤独を埋めてくれる温もりが恋しかったのだと。
(……そっか。私はただ、ここにいる意味が欲しかったんだ)
もっと知りたい。
沢山話したいことがある。
共に時間を過ごしたい。同じ景色を眺めていたい。
どんな些細な理由だとしても、他人という存在意義がいなければ『仙崎未来』の人物像は確立できない。故に背中を押してくれる人達の存在がいたからこそ、仙崎未来はここにいる意味に辿り着いた。
恐怖に怯える自分を救うのは自分自身しかないように。
孤独という闇を癒してくれる希望の光は、紛れもなく仙崎未来本人だった。
「どうかした?」
言葉を掛けてくれる。そこに重圧は感じない。
心が晴れていた。青空のように静かな気分。淀みのない本心が言える。
「いや、脱水症状で気を失っちゃったんだなって。もっと水分補給すれば良かったかなーって。初めての文化祭だったから、ついはしゃいでしまいまして……」
「何、大丈夫さ。高校生になれば文化祭の見方がガラリと変わるかもよ?」
「そうなんですけど、財布の中身が消えたのは、偶然なんですかね?」
「……答えは別腹にあるんじゃない?」
苦渋の拳を握り締める様子の未来と。
ハトが豆鉄砲を食らったかのように怪訝そうに様子を伺う調。
文化祭は楽しい。もっと楽しめるように勉強は欠かせない。バイトも怠らない。沢山研鑽を重ねて、ここにいる意味を忘れずに、真面目に生きていく。
秋の面影はすぐそこに。
歯車は加速する。止まらない。季節も。時計の針も。人々の意識さえも置き去りにして。移り行く幾千の景色はやがて消えてしまう。
悲しいことに。世界が風化することは定めだ。現実を受け入れなくては。
きっと、その先にある道に進めない。
今日を生きていく。呼吸をするのは、そういうことだ。
「調さん。ちょっと、気になることがあるんですけど」
「何かな?」
話題を変える風が吹き込む中庭。調子を取り戻す未来は大学生の先輩に尋ねる。きょとん顔の調を置いてきぼりにして、集める視線の先には。
見知らぬ人物がそこに佇んでいた。
「この人は……?」
未来はずっと気になっていたことがある。もう一人の存在。
後ろを振り返ると、伸びるシルエットの先に常皇高校の在校生がこちらに向けて微笑んでいた。三つ編みのカチューシャをした女性で、グレージュブラウンの長髪を靡かせ、疑問符を浮かべた未来の容態を確認する彼女はうんと頷くと、安心した様子で両手を合わせてはもう一度丁寧に微笑んだ。
「あー、私の妹だね」
「妹ゥ!?」
絵に描いたようなオーバーリアクションが中庭で木霊する。
二人を交互に見比べる未来。大人びた風貌を誇る大人の女性に対して、その容姿は可憐という言葉が相応しい。ゆったりとした動作は無駄が一切なく、右胸にある梟のエンブレムがより一層と高貴さを引き出しており、色々の制服と黒のスカートの絶妙な組み合わせが彼女の風格をガラス細工のように体現している。
才色兼備。
神色自若を示す揺るぎなき瞳の光。芯の強さは豪傑の言葉が相応しい。姉の調がバイタリティならば妹の彼女の場合はノーブルだろうか。
外面も。性格も。雰囲気さえ違うのに。
瞳の色は同じだった。
「何を隠そう! 日比谷祈は常皇高校次期生徒会長なんだ。今は文化祭実行委員兼生徒会長の上野椿のサポートとして副会長を務めている。……流石後輩だよ。祈の腕章がないことを見越した。相当の着眼点の持ち主のようだ」
「あのー、普通に気になっただけなんですけど……」
腕を組み、自慢気に話す調の姉バカテンションに折れてしまいそうだ。
結果的に疑問が氷解したのだが。
助け舟が欲しい。ということでチラチラと忙しない未来の視線に「あはは……」と苦笑を浮かべる女性。駄目か。そう未来が諦めかけた途端、微笑む姿を見て確信に変わる。天使だ。未来と違って心の器も一級品なのか。
存在自体が尊くて。
複雑な人間関係さえも、降り懸かる火の粉でさえも、脚本の一部にしてしまう。
そんな高潔の少女、日比谷祈は。
「……本当に。偶然だったのかもしれない」
落ち着いた声音が隣に響く。希望に満ちた端正の横顔が並ぶ。
見据える瞳は後輩と戯れる調だけではなく、聳える校舎と遠い空の表情。文化祭の活気に満ちた特別な光景を眺めていて。
内に秘めた想いは彼女にしか分からないけれど。
後悔しない選択を決めた、常住不滅の意志は、形を変えて受け継いでいる。
自分自身を信じる。
難しいことじゃない。自分が出来ることをこなすだけでいい。
仙崎未来が生きるのは、そういうことだ。
「でも、見えないだけで本当は、───『奇跡』があるんじゃないかって」
この世界は勝手に生まれただけで。
退屈が愛しくなるような当たり前の日常がなければ、絶体絶命のピンチを逆転に変える『不思議な出来事』はあくまでも結果論に過ぎない。
しかし、当たり前の日常は沢山の奇跡によって築き上げたものだった。
「時々、そう思うんだ」
ただの偶然なんかじゃない。神様の気紛れなんかじゃない。
奇跡は繋がりの数ほど起こすものだ。
家族。友達。クラスメイト。学校の先輩。親戚のみんな。関係者。将来の恋人。
手を差し伸べてくれたあの子も。
ただただ、本当は、誰かの側にいる時間が未来は好きなのだ。
「……私も」
繋がりが未来を導いてくれる。
誰かの心を拒絶しない限り、繋がる絆は困難を乗り越える。欲望に飢えた争いの絶えない世界だろうと、信じる勇気は恐怖に屈したりはしない。
手を差し伸ばすことは、誰かの光を救うことだ。
信じたい。
「目に見えなくても、今は触れなくても、奇跡が待っていると思います」
光の彼方で未来に呼び掛ける声が聞こえた。
振り返る。ドタバタに手を振る二人のシルエットが見える。そして見覚えのある顔をやっと見付けた未来は元気に手を振ってみせた。
駆け寄るアリスと千波の二人を未来は自分らしい笑顔で迎える。
失うものがある。
だからこそ、不安は芽生え、別れをしなくちゃいけない大事な時期が来る。
強い心と歪まない勇気を持って決別しよう。牢獄という鳥籠を突き破る大きな翼を羽ばたいて、そのまま大気圏を突破して、過去の自分と向き合おう。
ほんの少しだけでもいい。
優しい人になろう。
「今が幸せすぎて、霞んでいるだけなのかも」
黄昏の修繕師 ~青き旅人と奇蹟の魔女~ 藤村時雨 @huuren
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