番外編:ルドルフとマーシャ



 全知全能の神の御手によって癒されない者は無い、なんて言葉に無条件に縋り付くには少しばかり傷を負いすぎた。

 塗炭の苦しみから得たのは、猜疑の眼差しと最悪の不幸を想定して行動することだ。

 人生に、もしも、なんて仮定をするのは馬鹿げた逃げと怯懦だ。

 向き合うべき現実を正しく把握することが現状を打破する契機であり、望みである。

 だから、生涯で最大と言って良いほどの交渉ごとを行う間際、傍らに誰か他人が居て欲しいなんて思ったのはきっと気の迷いに違いない。

 機智に富むでも無く、胆力があるわけでも無い、無力な少女が胸宇に過ぎったなんて、あり得ないことだ。

 彼女に神の御手が届かないのならば、きっと、自分には救いは向けられる筈もない、とぼんやりとそう思った。




「――人が黙っていたのに、そのざまか」

 慣れ親しんだ教会でそう言葉を漏らせば、マーシャは頬を引き攣らせて頷いた。

 感情の起伏が浅いように見えるが、自分から言わせればマーシャは分かりやすい。

 忠義に篤く、嘘は吐かないという芯が分かれば心は読みやすい。

 黙っていることはあっても、後ろ暗く思うのか態度が少しぶれるのだ。

 恐らく本人も分かっていることだろうが、嘘を吐くのに向いていない。

 僕とは大違いだ。

「ええ、仰る通りです」

 降参と言いたげに両手を軽く挙げたマーシャは渋い顔を崩さない。

 純粋に頭の良い女だと思う。

 それが地頭なのか経験則なのかは判断が付かないが、大凡のことは独力でなんとかし為す洞察力と行動力がある。

 ちぐはぐなのは、知識を持つ階級の人間が当然持っているであろう常識を併せ持っていないことだ。

 他国の人間だという告白で疑念は和らいだが、それが本当だとも思えない。

 寡聞にして知らないが、そんな国が存在するのだろうか。

 ただ、自分の妨げにならないから看過する、それだけだ。

「あの子にマクファーデン公の人間とバレるなんて、君らしくないし損じだな」

「……私の所為ではないので」

 どこか遠くを見る視線は重ならない。

 イライラとしている様子から推察するに、本当にマーシャにとっては予想外だったのだろう。

 僕も聞いた時には驚いたものだ。

 マクファーデン公自ら、ユーフェミアに暴露したというのだから、その意図が読み取れない。

 何をするにも自分の手札は最後まで隠し通した方が得になる。

 それに、マクファーデン公の振る舞いも奇妙としか言いようが無かった。

 今となっては、それも、恋慕の為だと理解するが、当初はユーフェミアを疎んでいるとばかり思っていた。

 だから、あの夜会の時、二人が一緒に居る姿を見て妙に緊張したのだ。

 彼女が、誰か知らない他人に傷付けられるのではないかと危惧した。

 その因由からは目を逸らした。

 自分にとって有為な存在が不当に毀傷される、それを憂慮しただけだ。

「まさか、マクファーデン公がユーフェミアを好いていたとは想像だにしなかった」

「結局それも知られているし……」

 ブツブツと不服そうにマーシャは唇を尖らしている。

 マーシャもマーシャで何か企てていたようだから、困惑しているのだろう。

「結婚を申し込んだんだろう?家格として釣り合いも取れているが、オドネルでなければならない理由は無い。ならば、後は個人的感情なのだろう」

 気に入らない存在を支配して蹂躙したい、という考えに及ばなかった訳では無い。

 ただ、そうなると、あの夜、こちらを見たマクファーデン公の敵意の眼差しの理由が分からなくなった。

 単純な話しだったのだ。

「……どう思いました?」

 マーシャの声が硬くなった。

「どう、と言われてもな」

 そう。

 僕には関係の無い話しだ。

 貴族社会の勢力図が少し変わるぐらいだ。

 ハリウェル伯には影響は及ばさないだろう。

「……本当に?」

 こちらをジッと見詰めるマーシャに居心地の悪さを感じる。

 何かを探ろうとする眼差しだ。

 何を知りたいと言うんだ。

 僕には何もないというのに。

「嘘を吐いても得にならないだろう」

「嘘を吐く基準がそういう人ですよね」

 呆れたようにマーシャは呟くが互いの間にある緊張感は解けない。

 何かを確認したがっている。

「君は何が知りたいんだ?君の尋ねなら、まぁ、答えても構わない」

 譲歩だった。

 優秀なマーシャに対して自分の出来る礼儀の一つだ。

「えっ?」

 マーシャは驚いた顔をした。

 こちらの申し出にそんな驚く事があったのだろうか。

「……そう直球で来られると尋ねるのは野暮と言いますか、無粋と言いますか」

 物事をはっきりと告げる彼女らしくなく、言葉を濁す。

 視線もウロウロと床を彷徨わせていて様子がおかしい。

「いえ。結構です。こちらの都合ですから」

 今度は歯切れ良く、撤回を申し出た。

 彼女らしい、笑顔だ。

 マクファーデンの関係者だというのが本当に惜しい。

 僕の方がマーシャを上手く使いこなせる自信もある。

 こういう側近がいればこれからの仕事が大分楽になっただろう。

「マクファーデンが僕に助力したのは、ユーフェミアの為、だろう?」

 僕に肩入れをしたわけでも無ければ、困窮する民を救済したかったわけでもない。

 随分と傲岸で一方的だ。

 借りがあるとも、不思議と思わない。

「ええ、まぁ」

 誤魔化すこと無くマーシャは頷いた。

 ほんの少し、肩から力が抜ける。

 公爵家の手助けなんて、一生を懸けても返せない恩になる。

 君の為では無い、と言われたのは実際に正しかった。

「……借りだなんて僕は思っていない」

 ただの強がりだ。

 何らかの便宜を図れと言われれば、受け入れなければならないだろう。

「レグルス様が自分の為に動いただけなので、気にするだけ無駄かと。本人も貸しを作ったなんて思ってませんもの」

 マーシャの言葉に気遣いは見受けられない。

 嘘の無い正しく強い言葉だ。

「まぁ、今後、利用価値があると気付いて何か言われる可能性はあるかもしれませんが……」

 公爵家に縛られたくは無いが、融通するぐらいの感情の余地はある。

 結局、巡り巡ってユーフェミアが僕を救ってくれたも同義だ。

 ああ、本当に、あの脳天気な少女が僕を助けたなんて癪に障る。

 正しさが強さの全てだと盲信して疑わない純粋さを疎むと同時に羨ましくもある。

 それは遠い昔に、不要なものだと自分から削ぎ落としたものだった。

 理不尽な暴力にひれ伏して思い知れと思う反面、知らずに生涯を閉じて欲しいとも思う。

 相反する感情が胸の中で入り交じる。

 それでも、僕の見たもの同じように見て欲しいと思う。

 どれだけ人間の醜さや傲慢さを見せつけられても、しなやかな心は変わらないのだと、裏打ちもなく思うのだ。

 自然体の強さと言うのだろうか、稟性によるものを彼女はしたたかに持っている。

「愛だの恋だのそういった馬鹿話に巻き込まれるとでも?」

「愛や恋が無力なものだとお思いですか?」

 それとは知らず軽んじた口調に、マーシャの眉が小さく跳ねる。

 自分には手に入れられることが出来ない、それでも存在は信じている、そういう顔をしていた。

「無力だなんて、言ってない。ただ、人を正常じゃなくさせる」

 普段理性的な人間だって、一度それに浮かされたら別人格かと疑うほど一変する。

 理屈や道理で断じれるものではない。

 機能不全を引き起こす厄介な感情、それだけだ。

「完璧に正しい人など居ませんから。もし、居るのならば、それはもう人ではありません」

 小気味好いほど顕言だ。

 人がどういうものか、裏切りも、薄汚れた部分をも知っていての言葉だ。

 なんて迫力のある発言だ。

 人の弱さを、脆さを、知った人間がそれを告げるにはどれだけの覚悟が居るだろうか。

 頑是無い子供が願うような表面をなぞった浅い願望とは重さが違う。

「人は過ちを犯します。ですが、過ちを正すことが出来るのも、また、人ですから。そう、信じられないのは寂しいでしょう?」

 寂しい、そんな言葉に重い覚悟を封じている。

 自然と思えるのならばそれもまた一つの強さなのだろう。

「それで、話しは何か進展しているのかい?」

「気になりますか?」

 物言いたげな視線がこちらに突き刺さる。

 ほんの僅かな鬱陶しさを感じるが、口に出すと、負けた気がしてしまい癪だ。

「別に、どうなろうが僕には関係ない」

 そう。

 関係が無い。

 マクファーデン公とユーフェミアが結婚することになっても僕に直接的な影響があるわけでは無い。

「ユーフェミア嬢が苦手意識を持っているのは変わりありませんから。少し、歩み寄ろうとしているだけで何も変わってないですよ」

 何も変わっていない。

 あの夜、怯えた彼女から何も変わっていないのだろうか。

 僕の服の裾を頼りなく握ったユーフェミアから移ろっていないと言うのが本当ならば、ほんの少し愉快な気分になる。

「苦手だからといって克服する道理は無い。必要で無ければ捨て置いて問題は無いだろう」

「レグルス様は、そうはいかないので」

 一方的な思いによって捻子曲げられる悔しさというのは幼い頃に実感したことがある。

 不条理さに誰に怒れば良いのかも分からず、蜷局を巻いた感情が胸を塞いだ。

「自分勝手だな」

「ええ、そうですよ」

 咎めるでも無く、マーシャは頷首すると苦笑いした。

 理不尽さを分かっていて、撥ね除けることも出来ずどうしようもないといった様子だ。

「ユーフェミアが譲歩する義理は無いだろう」

 口に出してしまったが、聞かれてしまえば不敬と咎められるだろう。

 なにか、腑に落ちず、気になっていたが漸く合点がいった。

 釣り合いが取れていないのだ。

 ユーフェミアが何をしたわけでも無い。

 心を砕く必要など無いのに、歩み寄るなんてマクファーデン公にとって都合が良いだけだ。

 天秤は常に正しくあるべきだ。

「正論です」

「マクファーデン公にとっては都合が良いことばかりだな。そうする為に、動いたのだろうが、上手くいきすぎて腹が立つ」

「ですが、ユーフェミア嬢は結婚なんてとんでもないと固辞してますから」

「そうか」

 胸の奥が少し軽くなる。

 鼓動が早鐘のように打ち鳴り身体に煩く響く。




 ああ、安堵しているなんて、そんなの、勘違いに決まっている。 



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