第5話
帰りたくとも、今日中に帰ることは出来なかった。既に太陽は傾き、赤っぽい光が上原村を夕暮れに染め上げていた。
日暮れの下山を諦め、もう一泊することで決定した。暮家の庭先で野営をし、簡易な食事を取った。食後に沸かしたコーヒーを手に取ると、芳郎は突然口火を切った。
「あれは近所に住でいた
焚火の明かりの、彼は虚空を見ていた。
「恥ずかしい話、思い人というやつでね。中学に上がるころから、そういう関係だった」
「知らなかったな君にも恋、もとい青春のようなものがあったとはな」
「青春……そうだな、最初で最後の青春、」
「その後、彼女とはどうなったんだい?」
「中学を卒業する段になって、私は村に残留し、実家を継ぐことを選んだ。彼女は高校への進学を決め、村を出ようとした………」
「と、した?」
「彼女は死んだんだ」
英二は火の中に枯れ木をくべ、静かにここへ無理を言って連れてきたことを詫びた。
「いや、いいんだ。今更、思うことはない。ただ、時間とは残酷だな。当時は人生に絶望し、生きることの意味を失うほどの虚無を感じていたが、今やそれも一つの記憶さ。確かにここへ来るまでは少々の恐怖があった。しかし、目にして分かったよ。最早、何も感じない。そんな情動を微細に察知するほど私の心は鋭敏ではない」
何も感じていない― それはどうだろう。無意識として彼の中に流れる奔流にはやはり、彼女の影があるのではないだろうか。
「私が15の時、事故だったんだ。」
芳郎と
許嫁。いわゆるそういう関係にあった。そんな二人の袖を別ったのは中学卒業後の進路であった。進学するものは必然的に村を出る必要があった。実家の農家を継ぎ、早くから手に職を付けたかった芳郎に対し、詩織は進学を希望した。
15歳の芳郎にとってそれは裏切りだった。自分の手元から逃げ出してしまったというようなある種の鬱屈した倒錯感は土地柄もあって、違和感なく彼の心の中に沸き起こった。
彼女が村を出る朝、始発で発つという彼女の見送りに芳郎は出向かなかった。親や兄弟が呼びに来ても、彼は断固として見送りに行くことを拒んだ。
「少年の馬鹿げた意地だよ。理屈も道理もない。万に一つ、自分の怒りを汲み取ってれた彼女が戻ってくるのではないかとも考えたよ」
両親の呼びかけは数十分に渡った。
「とっくに始発の時間は過ぎていたが、駅の方では無理を言って出発を引き留めていたらしい。だが、とうとう汽車は発車した。自室にこもって聞いた警笛と共に泣いたことを未だに覚えているよ」
事件はその直後に起こった。
「落石だ。昨日も言った通り、ここら辺は地盤が恐ろしく緩い。彼女が乗った汽車は落ちてきた土砂と落石に飲まれたんだ」
死亡を聞いた芳郎に絡みついたのは自責の念であった。もし、あの時自分が素直に見送りに行っていれば、少しでも早く出発していれば、彼女は土砂崩れに巻き込まれなかったのではないか。自分のせいで彼女は死んだ―芳郎の胸にはそのシンプルな事実だけが残った。
それが、彼が醸し出す途絶感の正体だった。
「君は私鉄が廃線になった理由を知りたがっていたね。鉄道はその事故で復旧困難になり、なし崩しに廃線になったんだ」
それ以降、芳郎は何もしゃべらなかった。時折じっと闇の中を見つめ、コーヒーに口をつけた。寝袋にくるまり、目を閉じた彼に何の言葉をかけることも出来なかった。
それが彼にとっての呪縛ではないか、英二にはそんな風に思えた。妻の不在も、彼の極度なまでに質素な生活も、すべてはその罪悪感によるものではないだろうか。人一人の命を背負った人間は幸せになることなど許されない、そんな感情が50年近く暮 芳郎という人物を縛り付けているのではないのだろうか。
鋭く明朗な警笛は、遠慮なく眠りに分け入ってきた。暗がりの中で覚ました目は虚ろと現実の間を行ったり来たりしている。寝袋にくるまり、仰臥したまま英二は朝霧を見つめた。
もう一度、警笛が鳴り、彼は身を起こした。夢ではない。どこかで、間違いなく甲高い警笛が聞こえている。芳郎を見ると、彼も目を覚まし、体を起こしていた。
濃密な朝霧が村中を覆い隠し、その煙の中を紫色の光が走性もなく、ぼんやりと浮かんでいる。
「汽車だ。汽車が出る、」芳郎が言った。
間違いない。これは現実だった。時刻を確認すると7時10分。2人は飛び起きるや否や、駅まで走った。
息を切らし、駅舎に駆け込み、改札を抜けると、紫とオレンジの幽玄な空に、真っ黒な煙が浮かんでいる。線路の上を一直線になぞったそれは、明らかに蒸気機関車がそこを走った形跡であった。
芳郎は口を動かし何かを言おうとしていた。が、それよりも体が動く方が早かった。彼はホームから飛び降りると、降坂を勢いよく走りだした。年齢に見合わない体の躍動と共に、彼は彼女の名前を絶叫していた。
二人は件のジャンクションまで走ったが結局何を掴むことも出来なかった。
もう一泊しよう。そう提案したのは芳郎だった。
「あれはきっと、詩織が乗った列車だよ。あの汽笛が鳴った時間、7時10分。彼女が出発するあの日、僕のせいで汽車は遅延したんだ。あれはきっと幽霊だよ。この地、あの時間に縛り付けられて、何度も繰り返し、繰り返し、ここを走り続けているんだ」
否定は出来なかった。単に謎の現象を実際に見聞きしたからではない。そう語る彼の目の奥に潜んだ影を、誰も拭うことは出来ないと思ったからだ。
「あれには彼女が乗っている。どんな形でもいい。僕は彼女に謝りたい。彼女に会えるなら、なんでも、何でも構わない」
翌朝起きると、既に芳郎の姿はなかった。時刻は6時半。昨夜の話し合いで、駅舎で待つよりも、列車がスピードを緩め、一時停車する分岐器の地点で見るのがいいのではないかということになった。なだらかな丘陵と、汽車の片側に広がる棚田から撮影もできるだろう。
望遠レンズを構え、ジャンクションへ行くと、芳郎はそこに居た。三脚を立て、撮影の準備をすると英二は芳郎に食事を勧めたが、彼は一瞥もくれず、それを断り、その場に座り続けた。
朝霧は7時10分になると、どこからともなく染み入るような寒気と共に、辺りに立ち込め始めた。
霧の中から、警笛が上がった。近い。それは駅舎の方から間違いなく聞こえている。
音は昨日と違い、次第に立体感や質感を身に着けやがて、迫ってくる蒸気機関車を決定的なものにした。
重厚な駆動音と、悠然と煙を吐き出す轟音。それは薄れていくどころか、次第に近づきそして―
霧の中から、真っ黒な蒸気機関車が現れた。
音や機関車が醸し出す、重圧は本物に間違いない。間違いなくそこに居ると肌では感じるのだが、しっかりと見据えようとすると、それは蜃気楼のごとく揺らめいて焦点に定めることが出来なかった。
ファインダー越しに覗き込むと、車両に人影が見えた。ぽつんと佇む小柄な影は、少女のように見えた。
それはまさしく―
立ち上がった芳郎の影がファインダーを黒く染めた。
走り出した彼を英二は止めなかった。彼は丘を駆け下り、停車した蒸気機関車に追いつく。ファインダー越しにその様子を見つめている内、芳郎の輪郭が陽炎の中に溶け、揺らめきの中に混ざって行った。
彼は車両に向かい、何かを身振り手振りで合図していた。少しの間があり、窓が開いた。
あッと思った瞬間、その中へ漫然と乗り込んで行く芳郎の姿が見えた。
扉は間もなく閉まり、列車は再び警笛を朝靄の中に打ち上げ、出発した。
昇った太陽と秋風がぼやけた朝のまどろみを消し去ってしまえば、そこには一体なにも残ってはいなかった。
芳郎の遺体を見つけたのはそのすぐあとだった。
彼は暮家の土間の梁から縄を渡し、そこで首を吊っていた。
呪縛から逃れるには、別の呪縛に入っていくことだ― 英二が芳郎にかけた言葉であった。
あれから十年。毎年秋口になると英二はゐ尾市亀嶌地区旧上原村に昇り、写真を撮る。
薄明の中に浮かぶジャンクション。そしてそこに走る朧げな蒸気機関車の中には、2人の人影が並んで寄り添うように映っているのであった。
おわり
トワイライト・ジャンクション 諸星モヨヨ @Myoyo_Moroboshi339
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