海と白鳥 (白空視点)

 紺碧の海の中を、一羽の白鳥が泳いでいた。


 真っ直ぐに、何かの軌道に乗って、美しく羽を伸ばしている。


 一切の淀みもない海は、まさに泳ぐための世界だった。


 隣には、天と地を繋ぐ、白い橋がかかっている。


 燦々と照り輝く太陽の光が、それら全てを覆い尽くす。


 そんな、暑い、蒼い夏だった。


 ◇


「お母さん、体調は大丈夫?」

「うん、青羽が毎日来てくれてるから、この通り元気よ」

「そっか。それなら良かった。いつも心配だから」

「心配しなくても良いのに。青羽、人の事も大事だけど、自分の事ももうちょっと大事にね」


 アルコールの充満した病室の端で、そのような会話が聞こえる。この頃、毎日聞く会話だった。

 私は袋いっぱいに詰めた、果物たちを抱えて、父のところに向かった。父は相変わらず包帯で巻かれた脚をぶら下げており、右手もまだ完治していない。私はそのような姿を見て、情けない気持ちと心配な気持ちが渦を巻いた。

 父が私のことに気付くと、身体を起こして、白空! と笑った。私も、最高の笑顔で返したつもりではいる。


「はい、お母さんから。中にはバナナとか、リンゴとかいっぱい入っているよ!」

「ありがとう。これで、明日も生きられる……」

「もう。寝不足でバイクなんて運転するからだよ。これからは、徹夜なんかせず、無理しない程度に頑張ってね」

「白空……お父さん、白空の言葉で完治したよ! ほら、右手だって──うっ……」

「な、何してるの!?」


 父はなぜか、いきなり包帯で固定された右手を動かそうとした。けどやっぱりまだ治っていないらしく、苦悶の表情を浮かべる。


「いてて……やっぱりまだ治らないか……」

「全治二カ月はかかるって、お医者さん言ってたでしょ? もう、お母さんに言っちゃうよ?」

「や、やめてくれ白空! それだけは勘弁だ……!」


 父は、先程よりも更に恐ろしい顔をして、私に謝ってくる。父の弱点は、母なのだ。

 私は袋に入っていたバナナを一本取り、父に手渡した。それからはただの近状報告のような会話をした。学校はどうとか、家はどんな感じだとか。父は、家族が大好きらしく、私の話や母の話をするとすごく喜んだ。喜ぶ姿を見て、嫌な気持ちなんてしない。


「そういえば、あの子、毎日来ているね」


 同い年くらいだろうか。端の方で、母だろう人と話している男の子の方を向く。楽しそうに、二人とも話していた。


「あーあの子か。青羽、っていうらしいんだけど。たまに僕もあの子のお母さんと話すんだよ」

「青羽、くんか……」

「そうそう。それと、白空と同じ小五だったと思う。学校は違うんだっけ?」


 やっぱり、同学年。黒い髪をした、無邪気な男の子。後ろの姿しか見えないから、どんな表情をしているのかはわからないけど、優しい笑顔を浮かべているのはなんとなく想像がつく。


 本当に、楽しそう。見ているだけで、伝わってくる。


 そうこうしていると、時間なのか、青羽という少年は、肩を落としてゆっくりと病室から出て行った。


「なんだか、不思議な子だね」

「まあ、よくいる母親想いの息子だと思うけどな」

「うーん、そうかなぁ」


 私は同級生の子たちを頭の中で思い浮かべた。だけど、母親の話をよくする子なんて思い当たらないし、もっと言えば親を馬鹿にするような子の方が多い。そんな子たちと違って、あの子はやっぱり格別されたような子に感じた。

 そんなことを考えていると、父が私に「あ、そうだ」と呼びかけた。


「窓の外、ほら青い空を眺めててごらん」


 父がそういうので、何があるのか気になって私は言われるがまま青い空へと視線を移した。

 本当に青くて、心が、吸い込まれていくような、そんな空だった。

 ぼうっと眺めていると、吸い込まれた私の心に、何かが走った。白い、鳥? 違う。あれは──


「紙飛行機……」


 真っ直ぐに空を横断するものは、白鳥なんかじゃなくて、紙飛行機だった。遠目からでもわかるほどに綺麗に折られた、紙飛行機だ。


「そうなんだよ。あの子、帰る前に毎日紙飛行機を飛ばしてるんだ。子供の遊びのようなもんだと思うけど、なんだか惹かれるよな」


 違う。あれは、子供の遊びなんかじゃない。私にはわかる。あの紙飛行機には、ただならぬ想いが、こめられているって。

 紙飛行機はすぐに窓から見えない範囲に飛んで行って、その姿を消した。だけど、何故だかすごく思いに残る。不思議なものだった。


「あの子、青羽くんだっけ? 毎日来て、ああやって飛ばしてるんだ」

「そうそう。白空も来ても良いんだぞ? なんてな」


 笑って誤魔化す父。そう口に出すのが父の良いところだ。


「うーん……」

「いやいや、冗談だよ。白空の足じゃ毎日来るのも大変だろう」

「大丈夫。わかった。私も気になることがあるし、出来るだけ毎日来る」

「ほんとかい!? え、本当に……?」


 私がそう言うと父は酷く驚いて、上半身を起こした。提案にのってくれると思っていなかったのか、疑いさえしている。


「寂しそうにしているのが隠しきれてないんだもん」

「おっと、顔に出ていたか」

「顔だけじゃないけど」

「そうか……。なんか、すまないな」

「良いの~」

「というか、僕が無理やり来させているみたいになってないか?」


 まだ信じきれていないのか、何度も父は私の意思を確認してくる。

 良いって言っているのに、と私は思う。ただ、父の為というか、あの子……青羽くんが気になるだけなんだけどなぁ、とは口に出さなかった。




 それからというものの、学校終わりは必ず父が入院する病院に行った。

 そして、必ずあの子の作った紙飛行機を見る。

 父は毎日喜んでくれていたし、たまに母と来る日もあった。

 今日も、昨日と変わらない日が来るのだろうなと思っていた。だけどそれは違った。


「ああそうだ。紫季しきさんが……って言ってもわからないか。青羽くんのお母さんから白空と話したいって言っていたよ」

「え!?」


 告げられた父の一言に、私は酷く驚く。まさか、あの子の母親から話したいなんて思われるとは、予想も出来なかったことだからだ。


「紫季さんはいつでもいいって言っていたから。別に今日でも明日でも」


 盗み見ていたのを怒られるのかなとさえ思ってしまう。私のせいで、気分を悪くさせていたのなら、早く謝るにこしたことはない。


「い、いいえ、今日がいい!」

「おう、そうかそうか。なら青羽くんが帰ってからな」


 青羽という少年に目を向ける。相変わらず、純粋で、綺麗な目をした少年だ。

 十分くらい経ってからだろうか、またもや青羽くんが悲しい顔をして、その場を去っていった。その姿を見届けて、幾らか窓の外に目を向ける。数分経ったところ、いつもの時間に、いつもの飛行機が飛んで行った。美しく折られ、青い空を翔る真っ白な飛行機だ。


 窓からその姿が消えると、私は青羽くんの母親、紫季さんの方へと顔を向けた。紫季さんもちょうど私の方へと振り向いたので、ふふっと彼女は笑う。優しい笑顔を向ける人なんだなと思う。

 すると、そっと彼女が私を手招きしてきた。

 私は父の方を見る。父も小さな声で、行ってきなと私に言う。優しさにあふれた私の世界で、少し緊張しながらも、紫季さんの方へと歩いて行った。


「白空ちゃんの話は、お父さんからよく聞いているよ」


 私が彼女の近くに来ると、彼女は優しく微笑んで、母性溢れる綺麗な声音で私に話しかけてくれた。嫌な感じは何もしない。


「こ、こんにちは! 白空と申します!」


 緊張が解けなくて、勢い余って知ってるはずなのに名前を申してしまった。


「ふふ、可愛い子ね」


 なんだか、紫季さんの周りからいい匂いがするのは気のせいだろうか。


「こんにちは。私は紫季って言います。これから仲良くしてね」

「うん! 紫季さん!」


 にこっと笑う紫季さんを見ていると、全てが許されるような、そんな感覚さえ私を襲ってくる。少しだけ、青羽くんの気持ちがわかったかもしれない。

 その後は、少しだけお互いの事について話し合った。学校は楽しいのとか、好きなことは何だとか。それが、意外に初めて話す人とは思えないくらいに、会話が弾んだ。父が私の事を少し話してくれていたおかげもあるのかもしれないけど。


 そんなことがあって、今日は私も家に帰った。頭の中から、紫季さんの事が消えることはなかった。




 次の日は、昨日と変わって曇った天気だった。

 休日、外に出るのが億劫だなと思ったけど、人の気持ちを裏切るわけにはいかないと、私はまた病院へと向かった。

 父が居る病室に着いてみると、今日はいつもと違って青羽くんが来ていなかった。早く来すぎたのかなと思ったけど、時計を見てみるとそんなことはなかった。

 とりあえず、父へ簡単な見舞いをしてから、私は紫季さんの方へと近づいた。


「こんにちは! 今日は天気が悪いですね」

「あら、こんにちは、白空ちゃん。そうねぇ、あまり良い気持ではないわね」


 紫季さんも、残念そうな顔を浮かべる。確かに天気が悪ければ気分も乗らないであろう。


「でも白空ちゃんが来てくれて、私とっても嬉しいの」

「そうですか!? ありがとうございます!」


 やっぱり来てよかったぁ、と心の中で安堵する。紫季さんの笑顔は、どんな薬も勝らないくらいに力になる。


「そういえば、今日は青羽くんが来てないみたいですけど……」

「あぁ、あの子ねえ」


 紫季さんは窓の外の、淀んだ空を見上げた。


「天気が悪いと、来るのが遅くなるのよ。あの子、青空が好きだから、天気が良くなるのを待っているみたい。でも今日もここに来るのは確実よ。一日も休んだことはないんだもの」


 そうなんだ、と私は感心する。青羽くんは、青空が好き。多分、綺麗な空の下で母親に見せたいんだろうなと私は勝手に思った。完璧なものは、完璧なものの下でないと、その真意を完全には表せない。だから、太陽を待つ。照り輝く、太陽を。


「そうなんですね。私と違って、青羽くんは優しいんですね」


 私がそう言うと、紫季さんは目を見開いて私の方を見た。


「ううん、とんでもない! 白空ちゃんもものすんごく優しいんだから! 青羽も優しいけど、白空ちゃんは私が見てきた子の中でも一番よ! ん、子供に順位をつけるのは良くないけど……」

「えぇ、嬉しい!」

「ふふ、子供が喜ぶ姿を見たら、本当に力になるわ」


 この人ともっと話したい! そう思うような何か不思議な力を持っているんだと、私は思った。青羽くんも、きっとそうなんだろうなぁ。


「紫季さん。私、青羽くんのこと知りたいです!」


 突然、そんなことが口から出た。無意識だけど、何故だか、やっぱり気になる。


「やっぱり気になる? 良いわよ。いっぱい教えてあげる」


 もう天気の悪さなど一切意に介さず、私たち話し合った。気になることも、いっぱい教えてくれた。


 毎日、話した。父も、リハビリ中だけど、少しは歩けるようになった。日頃の小さな変化が、いつもより味わえて、楽しくなる。紙飛行機が、全ての物事を運んで行ってくれているよな感覚さえした。




 いつの日か、紫季さんはこんなことを口にした。


「白空ちゃん、私がこのままずっと青羽の相手をしてあげられるわけじゃないの。だから、その時は、白空ちゃんがお願いね。あの子は、自分の力では何もできないような、そんな子だから。私の、一回きりのお願いなの」


 その日は、いつになく真剣な顔をしていた。紫季さんの初めてのお願いなんだから、「任せてください!」って即答したけど。


「私、白空ちゃんに会えてすごく嬉しいの。あまり良い気がしなかったら別にいいのよ。ただ、白空ちゃんもあの子の事、気になってたら、頼みます。私の代わりをね」


 嫌な、雰囲気がした。


 味わったことのない、何か不安な。


 よくよく考えてみると、紫季さんは何を言っているのと。


 紫季さん……? 私の代わり……?


 父は、退院した。それはもう事故をする前と変わらず元気な姿でだ。だから、紫季さんも、元気に退院するはず。そう。そうに決まっている。


 ねえ、だから、このまま私たちと一緒にいて。




 人を亡くした感情を初めて味わった私は、強かったと思う。

 初めは受け入れられなかったけど、数日経てば、泣くのをやめた。全てを受け入れた。守ろう、あの人の言葉を守ろうと。




 高校生になった私は、あの人が言った頼みごとを、ちゃんと出来ているだろうか。ちゃんと、あの人の代わりをつとめられているだろうか。


 見ていますか。紫季さん。今日も、立派な紙飛行機でした。

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だから僕は紙飛行機を飛ばす。 穏水 @onsui

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