エピローグ

 さらさらと流れる小川のふちにしゃがみながら呼吸を整え、アイビーは自分の体が水に溶けるような想像をしながら、右腕を適当に上下に振ってみた。先ほどまでしっかりと筋肉と骨で出来ていたはずの腕は、一瞬でただの水の塊と化し、それでもなお腕の形を保っている。

 今度は水から自分が生まれる光景を思い浮かべる。すると水の塊だった腕は、どこからどう見ても人の腕のそれに戻っていた。

水の精ウンディーネとしての特訓ですか?」

「わっ」

 横から話しかけられ、飛び上がるほど驚く。すみません、とトクスが笑いを堪えるように肩を震わせていた。彼は先ほどまで還天祭用の服をまとっていたはずだが、今は普段の装いに戻っている。髪だけは丁寧に撫でつけられたままで、いつもと違う見た目にアイビーは思わずときめいた。

「もう着替えちゃったの? 王宮に戻るまであのままかと思ってたのに」

「アイビーも見たでしょう、壮麗さを重視した無駄に装飾の多い服を。あんなのをずっと着ていたら肩が凝ります」

「でも、まだお祭りは終わってないんでしょう? いいの、こんなところにいて」

 アイビーは還天祭が行われている礼拝堂、その裏にある小川のそばにいた。表に回れば聖女の還天を祝う式典が盛大に行われているのだが、こちらは意外とひっそりとしていてひと気がない。人々の声も、ここまではさほど聞こえてこなかった。

「聖女の還天を祝うとはいえ、とうのヘデラは死んでいませんでしたし。神のもとに召されていないのですから、還天もなにもないでしょう。俺の演説は済みましたし、あれ以上あそこにいても無意味だと思いましたので」

「……聖女は今、どこにいるのかしら」

「分かりませんが、応接間に残されていた書き置きから察するに、今もどこかで人々のために行動しているのでしょう」

 誰にも何も言わずにヘデラは姿を消したが、自分は死んだ者として扱ってほしいという願いと、今後も変わらず各地を巡るという決意をしたためた手紙が、応接間にそっと残されていた。彼女が生き返ったことを知るのはアイビーとトクス、ユリオやエアスト家の者たちだけだ。

「そういうアイビーは、良かったんですか? 礼拝堂を見たり、孤児院の皆さんに会ったり。来ているんでしょう? ここへ」

「人が多かったし、お祭りのあとにでも気が向いたら見るわ。あと、ユノにはさっき会った」

 ドラゴンが討伐された後、アイビーはリーニャの孤児院に一度戻った。その際、王都で自分の親を見つけた、と多少苦しい嘘をついて、世話になった院長や子どもたちに挨拶をした。ユノにだけは聖都でまた会う約束を取りつけて、つい先ほどここで話をしたばかりだ。

 彼女には自分の正体も、これまでなにが起こっていたのか、これからのことも全て説明した。初めは冗談だと思われてなかなか信じてくれなかったが、目の前で力を使ってみせたら、危うく気絶されかけた。

「力を使ったって、なにをしたんです?」

「さっきトクスも見たでしょう。腕を水に変えてみたのよ」

「そりゃあ驚くでしょうね……」

「でも、ちゃんと信じてくれたわ。ずっと騙していてごめんなさいって謝った」

 肩を落としたアイビーに、ユノは首を振って「アイビーはなにも悪くない」と抱きしめてくれた。離れていても友だちだから、とお互いに涙を流し、ユノが孤児院のみんなのもとに戻るまで、ずっと他愛もない話をしていた。

「殿下、勝手に姿を消さないでください」

「ナシラ」

 人混みの中を捜し回っていたのか、やや疲れた表情のナシラが現れる。

「お前の可愛い妹と少し話をしていただけだ。そう怒るなよ」

「……幻獣が妹だなんて、おかしな話ではありませんか」

 当惑気味にナシラが眉を曇らせる。アイビーはふふっと軽やかに笑ってから、あえて「ナシラ兄さん」と呼んでみた。

「ダビー姉さんはとても喜んでくれたわよ。ナシラ兄さんは嫌なの?」

「嫌というわけではありませんが……ただ慣れないだけで。殿下、なぜ幻獣を私の妹などと……」

「アイビーは家族を見つけたことになっているんだぞ。いいじゃないか、お前の両親だって彼女を養子として迎え入れてくれないかと相談した時、とても喜んでいたんだし」

 ナシラの両親と顔を合わせたのは三日ほど前だ。二人とも意外とあっさり受け入れてくれて、アイビーは初めて「親ってこんな感じなんだな」と知った。母のふくふくしい顔と体つきや、父の厳格そうでありながら相好を崩した時の柔和さが、不思議と懐かしく思えて、抵抗なく「お母さん、お父さん」と呼ぶことも出来た。

 しばらくは王都に戻ってこないと事情を説明した時は寂しげだったが、今日からエゴケロス家はあなたの家だから、と優しく抱きしめてくれて、それがまた嬉しかった。

「ナシラ兄さん。幻獣じゃなくて、アイビーって呼んでみて」

「……まあ、そのうち」

「お前も強情だなあ」

「ダビーや両親が柔軟過ぎるだけです。兄もあっさり受け入れそうな気がしますし、私だけおかしいのかと思えてきますよ……」

「シロン兄さんにも会ってみたかったけど……」

 トクスによると、シャガはシロン殺害を自白したという。口答えがうっとうしかったのだと。遺体はスペネが処分したという顛末を聞き、ダビーは涙を流していたが、ある程度は覚悟していたらしく、ナシラはその日の夜にはいつも通りの雰囲気に戻っていた。

 彼は頭が痛そうにため息をついた後、「それよりも殿下」と苦々しげに続ける。

「あなたは間もなく王太子なのですよ。自覚を持ってください。以前のように勝手にふらふらしていいと思ったら大間違いです」

「今日くらいはいいじゃないか。明日からはちゃんとそのように振る舞うさ」

「本当でしょうね?」

 本当だとも、と胸を張るトクスと、疑わしげに目を眇めるナシラが面白くて、アイビーはつい笑ってしまった。トクスはなぜか自信満々の笑みを返してくれたが、ナシラはクマに似た顔を胡散くさそうに歪めている。

 シャガは王太子の資格をはく奪され、今も離宮の地下牢に幽閉されている。裁判はこれから進められていくそうだ。一方トクスは、兄が資格をはく奪されたことにより、王太子の地位を得ることとなった。しばらくは「幻操師なのに王太子など」という声が聞こえてくるだろうが、いずれ納得してもらうしかない、と立太子が決まった当日に漏らしていた。

「いつかは王さまになるのね」

「そんな気は一切なかったんですけれどね。なにがどう転ぶか分からないものです」

「きっと立派な王さまになるわ。だってトクスだもの」

「期待に応えなければなりませんね。アイビーはこれからエアスト家に?」

「ええ。色々と聞きたいことや調べたいことがあるからって。スペネの地下室にあった〈核〉のことを話したら、それも確認したいって言われたから持っていくけど、いい?」

「俺が保管していても仕方のないものですから、どうぞ。彼は優秀ですし、いずれ〈核〉の入手経路を突き止めてくれるでしょう」

 アイビーに水の精の名入れをしてくれたのは、他ならぬシェダルだった。あの瞬間、アイビーは真に水の精となり、力がどれだけ使えるのかなどを詳しく調べるために、一度エアスト家に来てくれないかと言われていた。

「あたし、ずっと孤児院にいたから、あまり外の世界のことを知らないの。せっかくの機会だから、シェダルさんたちに教わってくるわ」

「……出来ることなら、俺がその役目を担いたかったですが」

 寂しげに呟き、トクスがアイビーの朱い髪を一房、掬い上げる。毛先に近づくほどに髪色は半透明になり、風もないのに水のようにたゆたっていた。

 本音を言えば、アイビーもトクスから色々と教わりたかった。これからもずっと一緒にいたかった。それと同時に、彼に甘えてばかりでいいのかとも感じていたのだ。

「あたしね、トクスのことが好きよ。初めて会った時からずっと、今もそう。あなたと会えたから幸せだったし、前を向いて過ごしていられた」

「アイビー……」

 空気を読んだのか、ナシラがそっと顔を背ける。さり気ない気づかいがありがたかった。

「ずっとトクスと一緒にいたいけど、今のあたしのままじゃだめだって感じたの。幻獣として、トクスを支えられるくらいの力をつけたいの」

「それは俺と一緒では叶えられませんか」

「多分ね。トクスは優しいけど、きっと優しすぎるんだわ。このままのあたしで良いって言ってくれそうなんだもの」

 図星だったのか、トクスは曖昧に微笑んだまま何も言わない。

「トクスのことが好きだからこそ、離れるの。戻ってこないわけじゃないわ、あなたに見合う幻獣になったって思えたら、絶対に帰ってくる。それまで待っててくれる?」

「もちろん」

 トクスの右手がアイビーの頬に触れ、愛おしそうに撫でていく。

 くっと軽い力で腕を引かれ、アイビーはトクスの肩に顔を押しつけられていた。頬を撫でていた手が後頭部の髪を優しく梳いている。アイビーは横目でトクスを窺いつつ、彼の背に腕を回した。

「あなたに初めて会った時、俺は幻操師として力を獲得したばかりの未熟者でした。炎は暴発させるし、反対に出そうと思っても出ない時がある。幻操師となったことで俺を疎んじる者も出始めて、果たして自分はこの道を選んでも良かったのかと何度も迷った」

 アイビーはなにも言わずに、彼を優しく抱きしめた。少しだけ早い鼓動が、アイビーの耳に穏やかに響く。

「そんな時に、アイビーが言ったんですよ。『すごく素敵な炎だ』『おとぎ話に出てくる魔法使いみたいでカッコいい』と」

「い、言ったかしら」

「言いましたよ。あなたにとっては何気ない言葉だったのかも知れませんが、俺にとっては救いの一言だ。アイビーが言ってくれたから、俺は自信を付けることが出来た。あなたの評価にたがわない幻操師になろうと決めたんです」

 結果的にトクスはヒュドラを打ち倒すほどに成長し、今では少数とはいえ部下も率いている。彼は己の定めた理想を追いかけ、見事手に入れたのだ。

「必ず――必ず、戻って来てください。俺もアイビーのことが好きなんです。俺の心の支えは、これまでもこれからも、ずっとあなただ。あなたに会えて、良かった」

「あたしも、トクスに会えて幸せだわ」

 どちらからともなく目を合わせると、トクスの指がアイビーのおとがいをそっと持ち上げる。彼は目を伏せると、緩やかにアイビーの唇に己のそれを重ね合わせた。意外と柔らかいんだな、手よりも熱くなくて気持ちいいな、などと思いながら触れるだけの口づけを二、三度繰り返したところで、「殿下、そろそろ」とナシラの横やりが入った。

 トクスは離宮へ、アイビーはエアスト家にそれぞれ向かわなければならない。

 そうだ、とアイビーは指を振る。ぷるん、と音を立てて小川から手のひらほどの大きさの水の珠が浮かび上がってきた。指を振り続けていると、珠は少しずつ形を変え、やがて一匹の蝶になった。

「なにかあったら、この子に話しかけて。どれだけ離れていても、ちょっとだけ時間はかかるかも知れないけど、絶対に戻ってくるから」

「そんなこと可能なんですか?」

「水があるところなら、どこでも」

 言いながら、アイビーは小川に向かって勢いよく跳ぶ。着水した時には太ももまでが水に変化していた。

「この川を上流にさかのぼればエアスト家に着くって、シェダルさんが教えてくれたの」

「道中お気をつけて。帰ってくるのを楽しみにしていますよ」

「ええ。じゃあ、行くわね。二人とも、元気で」

 これ以上話していると名残惜しくなってしまう。アイビーは軽やかに手を振り、全身を水に変化させた。


 トクスとナシラはしばらく川面を眺め、流れに逆らって旅立ったであろうアイビーを見送った。

 ひらひらと水の蝶がトクスの顔の周りを舞う。トクスが炎の蝶を出し続けるのと違い、アイビーは力を駆使し続けていても疲れないのだろう。自分もそうだったら彼女のそばに分身を置けたのに、と思えて少しだけ悔しかった。

 ――俺もまだまだ成長する必要がありそうだな。

「行こうか、ナシラ」

 トクスは最後にもう一度だけ川面を見やり、どこかでアイビーが見ていることを願いながら手を振った。

 魚が跳ねたわけでもないのに、ぱしゃんと水が跳ねる。その音に、トクスの口の端が綻んだ。

                     完

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瀑布の目覚め―彼方に集う獣たち― 小野寺かける @kake_hika

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