第20話

 水源がない場所に一時的に水を出現させたりは出来るんですよね、と問われたのを思い出す。

 はっとドラゴンの黄金の瞳を見やる。獲物を蹂躙せんとする瞳は煌々と輝き、煩わしい水や炎、縄を振りほどこうと自棄になっているように思えた。

「――――シェダルさん!」

 喉が張り裂けそうなほどの声を上げて魔術師の青年を呼ぶ。彼はどこから呼びかけられているのかと一瞬うろたえ、すぐにアイビーに目を向けた。

「ドラゴンの顔を、もう一度さっきの光の膜で包めるかしら!」

「わ、分かりました!」

 シェダルはすぐさま光の膜を出現させた。なにをするつもりかとトクスがこちらに視線を投げかけるのが分かる。これでは攻撃できないではないかと言いたいのだろう。

「考えがあるの。あたしに任せて、お願い!」

 アイビーは水柱を消し、光の膜の内側に意識を集中させた。ドラゴンは顔にまとわりつく光を払おうと首を動かすが、ユリオが先手を打って縄を次々にくくりつけて拘束していった。

 ぴんと人差し指を伸ばし、アイビーは目を見開く。

 ごぽ、と豊かな水が溢れる音を誰もが聞いた。

 水源などあるはずもない光の膜の内側、その上部から灘声だんせいが響く。次の瞬間、内側はドラゴンの顔を完全に隠してしまうほどの水で満たされていた。

「なっ……」

 トクスが驚きに息をのんでいる。アイビーはその気配だけを感じ、小さく息を吐くと、指先でくるくると円を描いた。

 光の膜を満たした水は、アイビーの指の動きに合わせて渦を巻きドラゴンを翻弄する。悲鳴を上げようと口を開けたようだったが、アイビーはすぐさま喉奥に大量の水を流し込んだ。その分の水は瞬く間に補充され、水量が減ることはない。

「まだ……まだ!」

 アイビーの水はドラゴンの鼻や口をふさぎ、呼吸を奪っていく。

 少しでも集中を欠くわけにいかない緊張感の中、どれだけそうしていただろう。徐々にドラゴンが大人しくなっていき、やがてぐらりと後ろ足や首が傾いだ。

「た、退避!」

 討伐隊を指揮していると思しき男が慌てて声を上げ、ドラゴンが倒れる先にいた兵たちが一斉に飛びのいた。

 ずうん、と立っていられないほどの振動と土煙、轟音をあげて、ドラゴンが横倒しになった。しばらくは誰もが警戒して近づかずにいたが、意を決したようにトクスが駆け寄り、しばらく巨体を見下ろしてから振り返った。

「――意識を失っています」

 溺れたのだ。アイビーはユリオやシェダルとともに彼のそばに駆け寄り、同じようにドラゴンを見下ろした。黄金の瞳は白目を剥き、牙を剥きだしにした口からは血のように赤く、先端が二つに裂けた舌がだらりと伸びていた。

「トクスさま」

 ユリオが羽根を一枚引き抜き、トクスに差し出す。彼は無言でうなずいて受け取り、「こちらへ」とアイビーたちを引き連れてドラゴンの胸まで移動した。

 ドラゴンの体は浅く痙攣している。トクスが羽根を胸に押し当てると、すっと音もなく皮膚が裂けた。次に肉が切れ、どろりとどす黒い血があふれ出し、焦土と化した地面を濡らしていく。

 じっとアイビーは目を凝らす。トクスが羽根で切り分けた先から、〈核〉が姿を見せた。庭園で見かけた時よりも輝きが増し、鈍かったそれは洗練された光を帯びて堂々たる存在感を放っている。

「殿下、これはヒュドラの……」

「ええ。行方不明とされていた〈核〉ですよ。兄上がドラゴンのものとして再利用したと告白しました」

「……そんな」

「どうしますか、シェダル。エアスト家で〈核〉を調べますか?」

「そう、ですね。〈核〉の再利用だなんて聞いたことがなかった。詳しい資料もないはずです。当家で厳重に管理し、調査します」

「分かりました。では」

 トクスは慎重に羽根を動かし、〈核〉と肉を切り離して取り出した。

 動く糧ともいえる〈核〉を失い、ドラゴンの体はびしびしと石のように固まっていく。全身が灰色に覆われた次の瞬間、無数のひびが入り、トクスが軽く指先で弾いただけで、原形も残さず崩れ落ちた。膨大な土煙に誰もがむせる中、アイビーとトクスだけは最後までその瞬間を見届けていた。

 うず高く積まれた灰色の砂が、元は巨大なドラゴンだったなどとは到底思えない。

「――スペネ」

 かつて人であった頃のドラゴンの名をぽつりと呟き、トクスは手の中の〈核〉を強く握りしめていた。

 勝利の雄たけびを上げたのは誰だっただろう。瞬く間に兵たちの間に喜びが広がり、同時に、戦いのさなかで仲間を失った悲しみも伝播していった。アイビーやトクスたち、幻獣という存在にほど近い身の者たちだけが、最後まで複雑な表情を浮かべている。

「殿下!」

 四人の沈黙を打ち破ったのは、後方で護衛に徹していたナシラだった。彼は慌てた様子でトクスに駆け寄り、素早く主君の無事を確認したあと「聖女が」と切り出した。

「ヘデラがどこにもいません!」

「なに? いつからだ」

「分かりません。殿下たちがドラゴンを討った時には、もう。申し訳ありません。私の不手際です。処分はいかようにでも」

「あの騒動の中だ。お前に彼女を任せきりにしていた俺にも非はある」

「でもどこへ行ったのかしら。こんな状況なのに……」

「負傷者が運び込まれると予想して、先に離宮へ戻っている可能性もあります。俺たちも一度、離宮に戻りましょう」

 トクスは己の部下や討伐隊にあれこれと指示を出し、最後にドラゴンの名残を見上げ、静かに目を伏せた。アイビーもそれに倣い、どうか安らかに眠れるように、と心のうちで祈った。


「殿下」

 暗闇の一点を見るともなしに見つめ、静かに流れていく時間を無為に過ごしていたシャガの耳に、長年恋い焦がれていた声が届いた。冷えた石の床に座したまま、ぼんやりと顔を上げる。

 トクスが去ってから、地下牢にやってくるのは食事を運んでくる兵だけで、ここへと続く扉の前には見張りがいた。彼の許可が無ければ誰も入っては来られない。その声が聞こえるのはあり得ないと、かすかに残っていた理性が希望を打ち消す。

 けれど。

「殿下」

 再び美しい声が聞こえた。春の訪れを喜ぶ小鳥のさえずりに似ていながら、清流のせせらぎのような凛とした響きも含んでいる。誰の声なのか今度こそ確信を持った瞬間、行動を制限する鎖がついているのも、牢の中に閉じ込められていることも忘れて、シャガは飛び出して行こうとした。

 腕と脚にそれぞれ装着された枷が、行かせまいと肌に食い込む。あまりの勢いに血が滲むが、痛みなど感じなかった。

 それほど長くない通路の向こうから、くぐもった足音とロウソクの灯りが近づいてくる。やがて自身の目の前に立った姿に、シャガは子どものように破顔した。

「ヘデラ! ああ、本物のヘデラだ!」

 顔を黒いレースのベールで覆い隠していても分かる。身にまとう雰囲気も、こちらを思いやる優しい声も、糸でつられているのかと思ってしまうほどの姿勢の良さも、なにもかも。

 シャガは牢に縋りつき、少しでも彼女に触れようと腕を伸ばした。だが枷が邪魔になり、思うように動けない。なによりヘデラも、シャガが触れられない距離を保っている。

「……ご無沙汰しております、殿下。すっかりお変わりになって」

「そんなことない。僕はいつだって僕のままだ。ああ、ヘデラ。本当に本物のヘデラだ。僕の『ヘデラ』じゃない。本当のヘデラだ!」

 邪魔な鎖さえなければ、今すぐにでも抱きついて思いのたけのぶつけられるのに。

 光を失っていた深緑色の瞳に、猛々しい狂喜が覗き始める。

「ねえヘデラ。初めて会った日から何年過ぎたかな。七年くらいかな。院長先生たちは元気かな。ああ、ごめんね! 彼らはヒュドラ災害の時に死んでしまったんだっけ!」

「…………」

「悲しむことはない。君には僕がいる。そうだろう? ああ、ヘデラ。こっちに来て、抱きしめさせて。『ヘデラ』じゃないって、僕に信じさせて」

「……私が亡霊であるとは思わないのですか」

 ロウソクが灯っているとはいえ、牢全体を照らすのに十分な明かりではない。彼女からシャガの表情はうかがえるかも知れないが、ヘデラの表情はベールに隠されていることもあって、よく見えなかった。

 シャガは子どものように嬉々とした笑顔を浮かべて「もちろん」とうなずいた。彼女の手を握ろうとした右手は、虚しく空を切る。

「ヘデラが死んだなんて僕は認めてない。僕が認めない限り、僕の中の君は死なない。死なないんだよ、ヘデラ。だから今、僕の前にいるヘデラは間違いなく本物だ。『ヘデラ』みたいな紛い物じゃない」

「その紛い物を作らせたのは、あなた自身でしょうに」

 ヘデラの呟きは、うまく聞き取れなかった。なあに、と首を傾げたシャガに、彼女はなにも、と答えただけだった。

「だってね、『ヘデラ』は僕のもとから逃げたんだ。ヘデラならそんなこと、しないでしょう? 僕から逃げたりなんかしない。慕ってくれてるはずだ。だから『ヘデラ』は紛い物なんだ」

「彼女は逃げたのではありませんよ。私が連れだしました」

「え?」

殿下の側近スペネに、私が魔術師もしくは幻操師であると感づかれた気がしました。事実が殿下に知らされる前に、世間に明らかになる前に、彼をなんとかしなければと王宮に忍び込んだ際に、あなたのそばで眠る未覚醒のアイビーを見つけました」


 初めはなにがなんだか分からなかった。新月の闇に乗じ、落ちこぼれながらも魔術師としての力を用いて姿をくらませ、見事王宮、そしてシャガの部屋に侵入したヘデラが見たのは、幼い頃の自分によく似た五歳くらいの子どもだった。

 どういうことかと子どもを抱き上げると、ヘデラの神力に反応したのか、瞬く間に十歳ほどまで成長した。悲鳴を寸前で飲みこみ、まさかと嫌な予感が胸を過ぎる。

 幻獣だと確信するのに時間はかからなかった。次に疑問に思ったのは、誰が、どうやって作ったのかだ。こちらは簡単だ。シャガの側近は魔術師だと気配で感じていたし、彼が作ったほかに考えられなかった。

『なんてことを……』

 側近の記憶を消す、あるいは存在自体を消すために来たはずだったのに。

 王族が、それも将来的に王位を継ぐ王太子が幻獣を作らせるなど、あってはならない醜聞だ。国が混乱に陥る前の今なら隠せるかもしれないと考え、幻獣を連れて王宮から逃げたところで、ヘデラは気が付いた。

『〝名入れ〟されていない……?』

 人間が子どもに名前を付けるように、魔術師も幻獣に名前を付ける。個として判別する名ではなく、種類としての名前を。ケルベロス、ドラゴン、イフリートなど、魔術師が名づけることで初めて幻獣は幻獣として機能し始める。己がどんな力を宿す存在なのか、名前とともに神力を吹き込まれるのだ。名入れをされなければ能力もうまく使えない。

 ヘデラの腕の中で死んだように動かない子どもの幻獣は、それがされていなかった。時々うつらうつらと目を開け、興味深そうに周囲を見回しているが、自分の意思などほとんどないに等しいだろう。

「今ならまだこの子は、自分が何なのか知ることなく、仮初だとしても人間として過ごせるのではないか、と……出来るだけ殿下の目が及ばないであろう場所を考え、リーニャの孤児院に彼女を預けました。アイビーと名付けたのはその時です」

「待って、ねえヘデラ。ごめんね、何を言っているの? ヘデラが『ヘデラ』を? スペネを消すって、えっと、なんで? どういうこと? 殺すってことなの?」

「殿下。あなたさまが思っている以上に、私の手は血にまみれているのですよ」

 これから使命のために世界を巡るという目標もあったし、いずれ成長したアイビーを引き取りに来るつもりではあった。成長した時に見た目が変わっていたとしてもすぐに分かるように、とシャガから半ばおしつけられた彼の部屋の鍵を、アイビーに託した。

 けれど世界を巡る前にヒュドラ災害が起きてしまったのだ。

「血にまみれている? そんなの関係ない」

 シャガが懸命にヘデラに手を伸ばしている。絶望のふちからわずかな希望にすがろうとする亡者のように思えたが、ヘデラがその手を取ることはない。

「どれだけ汚れていても、醜くても、ヘデラはヘデラだ。僕は君の見た目の美しさに惚れただけじゃないんだ。君の心の優しさと慈悲深さが好きなんだ。分かるだろう? 分かってくれるよね? だから僕は、君と結ばれたかったんだ。君と一緒にいたら、僕も人に優しくなれるって、そう思えたんだ」

「…………殿下」

「殿下なんて呼ばないで、名前で呼んでよ、ヘデラ。お願いだよヘデラ。僕を認めて、僕と結婚して。絶対に幸せにする。神に誓うよ。僕は君がどんな人間だろうと、死ぬまで愛するから。だから、ねえ、ヘデラ。君も僕に幸せをちょうだい」

「殿下のお心の深さと優しさには感謝いたします。けれど、申し訳ありません」

 答えは今も昔も変わらない。

「私には使命がございます。かつて先祖が犠牲にした人々の数だけ、救いたいのです。それを全うするまでは、殿下のお誘いに答えるわけにはいきません」

「そん、な……ヘデラ。僕はどうしても君に認められたかった。やっぱりドラゴンを目の前で倒したら良かったのかな? それとも『ヘデラ』みたいに一緒にドラゴンの背中に乗って、空を飛んだら良かった? 教えて、ねえヘデラ。僕は君に、どうすれば認めてもらえるのかな? 僕はどうすればよかったの?」

「……待っていて下されば、良かったのです」

 言うか否か迷って、ヘデラは重々しく言葉を続けた。

「私が使命を全うするまで、待っていて下さればよかったのです。なにもせず、ずっと。そうすればどれだけ時間がかかろうと、必ず殿下の元に戻ってきたでしょう」

「じゃあ今から待つよ! それならいいでしょう? なにもせずっていうのは、どれくらいの範囲かな。君を想って手紙を出すのはいいかな? 会いに行くのはだめかな。会いに行っても話しかけなければいい?」

「もう遅いのですよ」

 あなたは許されざる罪を犯している、と言っても、シャガの耳に聞こえたところで、心の奥深くまでは届かないだろう。

「幻操師としての力は先ほど失いました。以前のように瞬く間に人を救うことは出来ないけれど、それでも私は使命を果たさなければならない……お別れです、殿下」

「ま、待って。ヘデラ! 分かった、僕はずっと待つから、何もしないで、ただ君のことだけを想って待つから! 待ってよヘデラ!」

「さようならです、殿下」

「ヘデラ、嫌だよ。嫌だ。もう君を失いたくないんだ! だって、僕は君を愛しているんだ、心の底から! ヘデラは? ヘデラだってそうだよね? 僕のこと、愛してくれているよね? 行かないで、ヘデラ!」

「…………申し訳ありません」

 涙とよだれがないまぜになった液体を顎から垂らすシャガに背を向け、ヘデラは地下牢から出た。鉄製の扉を閉めると、気を失っている門番が壁に体を預けて眠っていた。シャガの牢に行くにあたり、少し眠らせたのだ。

「……いつか、私が『使命を果たした』と感じた時には、戻ってくるかもしれません」

 完全にシャガを突き放してしまえればよかったのだろうが、歪んでいたとはいえ一途に想ってくれていた。その想いに間違いはない、なんて思ってしまうのはひとえに自分の甘さだろう。アイビーなら容赦なく突っぱねていたはずだ。

 ほんの十分ほど眠らせるつもりだったのだが、思っていたより神力が効いていたらしい。どれだけ待っても門番が起きる気配はなかった。ヘデラは小さくため息をつき、礼を言って彼の懐とかたわらに鍵と燭台をそれぞれ戻したあと、誰にも告げずに、ひっそりと王宮を去った。

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