エントランス

一ヶ村銀三郎

エントランス

 ――先日頂きました書類に不備が数ヶ所ありましたので、返信申し上げます。訂正箇所については、添付した資料にて示した通り、17箇所に及びます。お手数とは存じ上げますが、2週間以内に修正・訂正を施した当該書類の提出をお願いいたします――



 友人に頼まれて、20万を別の口座に移すだけだというのに、初心者に課されがちな、面倒な書類が彼の行く手を阻んでいた。口座所有者からの紹介状だの、身分証の複写だの、初めて行う作業が多く、広くないホテルの一室で七面倒な手続きに忙殺している内に、画面越しに文書の誤記入を知らされてしまい、さらには彼の左腕の機械が午後を指し示してしまった。

 慣れない事はするものではない。これでは現在抱えている、も終わりそうにないな。彼は抑えようもない焦燥をどうにか晴らなければならないと感じた。銀行への問い合わせをメールで済ませる初期段階でもって、依頼された件は中断する事にした。皺だらけの寝間着から、僅かに糊で整えられている服装に変えた後、ルームキーを持った彼は客室から出て行った。

 どうやって謝ろうか、謝罪するにしても何とか頭を下げずに済みはしないだろうかと、役立ちそうにない思案をしながら青年は唐草文様の多用されている壁紙が広がる細長い空間を付き進んだ。エレベータまでの道程は決して長い物ではない。しかし、宴会場のある階層に居るためか、会場に荷物を運ぶ職員の姿が散見された。彼ら彼女らは両手に巨大なバッグを持っていたし、プラスチック製の造花を持ち出し、台車で段ボールの塊を運搬してさえいた。ただ気になるのは、作業に当たる人々の表情である。これから宴会するというには、どうにも緊張感が漂っていて、これでは出席者は心地好いほろ酔いにも成れないだろうと思われた。

 一糸乱れぬ蟻の列を思わせるスタッフの動きを後目しりめに前方を見る。無機質な箱の戸が開き、落下しているようで支えられているような妙な感覚に包まれながら、下界に着くと、昨日の夕方に尋ねた賑やかでいて静寂の滞留しているフロアが広がっていた。ガラス張りの壁面と重厚な布で彩られた空間の空気は澄んでいて、鼻腔をくすぐる複雑な香料が僅かに含まれていた。

 ホテルのフロントが鎮座するこのロビーの横には、席数80は下らない喫茶室がある。青年は前々から気にしていたので今回入ってみる事にした。利用の意を入り口で告げると、相手方は瞬時に対応してきた。ウエイターに案内されるがまま、青年は店内を歩いて行き、白亜のテーブルクロスが用いられている一卓に落ち着いた。そのまま極彩色の写真が多用されているメニューを広げると、水のように薄そうなアメリカンコーヒーや、色々な香料の混ざっているアルコールが出てくる程度には豊富であったが、ザッハトルテが拝めるほどに格式張った物でないという事が覗い知れた。

 それでも照明の一つ一つに薄いカーテンが施されていて、床面には赤い絨毯が駆け巡っている。そんな都会のど真ん中に存在する古めかしくも量産体制付けられたワインカーヴのような空間で、彼はいつもの癖で、流行りのチークをこれでもかと顔面に塗りたくったウエイトレスにブラックコーヒーを一杯頼んでしまった。450円も払って一杯しか飲めないとは。安くないものを買ってしまったな。

 このように、彼は少し頭を冷やしながら、ここに至るまでの過程を思い返しつつ、自身の為した散財を悔いていた。落ち込みながら何とはなしに、腕時計を覗いてみたが、特に目立った進捗はなかった。その間に老夫婦や女友達の群、ビジネスがらみの頓珍漢風情が流れ込んできたと記憶しているが、まだ注文した品は来なかった。やはり、そこまで有名でもないホテルに留まって、仕事がてら都会の観光なんぞするものではなかったのかも知れない。彼ら彼女らが、どんどん着席し、気侭に注文していくのを見ながら、男はテーブルに広げた紙片に目を遣った。

 それでも一瞬を無駄にする訳にいかない。どうにか時間を有意義に使いたい青年は暇潰しにと、家から持ってきた屑のような紙片と、どこにでもある安い筆記具、そして分厚い資料を取り出しながら、その男はコーヒーなんかを注文しなければ良かったと考え始めた。スケールの小さい事を思いながらも、青年は乾き切った思考回路に残存する何かしらを求めて、疲弊した紙面に、黒鉛の汚れを造っていった。



 ――この大嵐なる人物が為した仕事というのは量も少なく、質も稚拙であると言わざるを得ない。ただ研究と言う一般でない分野で言えば『越前方吾妻下りの記』に関する興味深い論が二三、残されていると言える。それ以外は見るに堪えないものだ。……この論述だって欠陥を随所に有している。第一、この古典は中世東海道、十四日間に及ぶ旅を克明に記録したもので――



 題材になる筈の資料とにらめっこを続けて、チマチマと下らぬ事を書いてきて、とうとう男は自分の下らぬ能力に嫌気が差してきた。とてもじゃないが、この調子で冗長な分析と論断を膨らましても今後の展開と展望は絶望的である。いっその事、白紙にしてしまおうか。……鬱屈たる心情の気晴らしに、窓から外を覗く。まだ注文した品は到着しないが、万物の霊長とか自称している連中の行為を観察できる窓近くの席であった事は幸いである。しかし、彼の見る光景は多種多様でありながらも灰色で統一されていて面白みに欠ける摩天楼が同じく鼠色をした曇天に突き刺さっているような物であった。人間一匹すらマトモに拝む事もできない、実にありきたりな大都市の光景しか見られなかった。そこには、申し訳なさそうに樹木が生い繁っていた。要は自然と人工の不調和がよく分かったのである。今、自分の書いている、あまりにも一貫性がなさ過ぎる文とどこか似通っていて、見るに堪えない。彼は町の情景から目を背けた。

 今度は周囲を見渡す。いよいよコーヒーが来るかもしれないと思ったからであるが、全くの期待外れだった。ウエイトレスは白いエプロンの内に秘めた黒い腹の中で青年をあざけっているかのように彼の近辺を無情に通過していく。白熱電球を思わせる温かみのある照明の類によって、喫茶室は全体的に明度の低い空間となっていた。世間一般で言う所の「落ち着いた雰囲気」なる代物に該当するのであろうが、男にとっては、実に陰気に感ぜられた。どこか陰りある橙が勝っている照明の光は、その場に居合わせる人々の顔面に不健康な印象を与えていたように思われたからでもある。

 宿泊しない者の侵入を極力拒む空間とは言え、フロントに近く明度の低いこの一帯は一般にも開かれている。事実、喫茶室には、様々な人々が居た。胡散臭く不気味な商談を進めるスーツに着られているような青二才、野郎嫌悪に興じる身なりだけは一丁前の婦人連中、どういう訳か平日午前中に転がり込んできた不可解な制服組。一つ一つが独立した存在であり、互いに干渉しない一種の共同体であった。彼らの集まりを破壊するのは難しいだろうし、壊した所で一銭にもならない。自分の思考の邪魔を受けない反面、悪だくみの妨害もできない。それもまた健全とやらの性質なのだろう。

 暇を持て余して、莫迦な想像に耽ってしまっているな。男はそんな妄想じみた思考を止め、周囲の人間の発言に耳を澄ませて、散文のタネになりそうな会話がないか探ってみた。

「――ねえ、さっきの人見た? あんな大きなカメラ。何に使うんだろう」

 大した事のない会話を聞き流しながら、暇な彼は、再びメニュー表の写真に目を向ける。図体の大きいステーキや、お高く留まっている琥珀の紅茶や、少女趣味の激しいベージュ色の茶菓子のセット、萎びた身体に染み渡るであろう黄金色をしたピルスナーにも目を通してみたが、いずれも割高に感じられた。青年が「適正価格」を知らないからであろうか、彼には割安であるかの判別がほとんど付かなかった。

「知らないの? このホテルの四階だったかな? 五階かも知れないけど、とにかく、ここの大会場で、講演会やるらしいよ。さっきウエイターさんたちが噂してたよ……」

 青年が泊っている階層も確か、その近辺だった筈だ。そうとなると、僅かに興味惹かれる会話であったが、とにかく彼は書き連ねていく事にした。ただでさえ低い仕事率であるというのに、たかが噂話に聞き耳を立てて休むなんて愚行を為す訳にもいかなかった。取り留めのないアイデアの断片を、ごみに等しい記述をひたすら紙面に綴っていく。どうにも覇気を感ぜられぬ死んだキャラクターを配置すべく、その足掛かりに、ホテルにチェックインしていく客の服装に注目したが、喪服だの、挙式用の晴れ着だの、冠婚葬祭の衣装ばかりで、ちっとも面白くない。たまに上等な衣服をした者も現れるが、従業員だった。彼はコーヒーの到来を期待したが、その喋り口から失望へと転じていった。

「――お客様、大変申し上げにくいことでありますが、相席をお願いしてもよろしいでしょうか」

 青年は一瞬だけ豆鉄砲を喰らった気分になったが、気を取り直して周囲を見渡すと、大体が二三人連れで、席に余裕がないと分かった。唐突な申し出に、コーヒーの催促もどこかにすっ飛んでしまった。

「え、ええ。私は構いませんよ」

 ちょうど良い暇潰しになるだろうと思い、彼はウエイターの注文を快諾した。分かりましたと一言あって、一分が経過したか。催促すべきだったと後れて悔いている中、相手方の姿が現れた。灰色の背広を着て、金色のピンバッジを着けている若い女性だった。

「すみません、どうも、このお店混んでるみたいで……」

 絶世と言えばあまりに仰々しい。しかし、可憐の一言で済ませてはいけない容貌と雰囲気を有している。そんな印象を受ける人だった。おそらく影を含んだオレンジ色の光のせいであろう。

「ここには時間調整のために来たんです。お気を悪くなされたのなら、すぐに退出……」

「いや、そんな。相席してまで入ったんですから、そんな……」

 彼はコーヒーの到来が遅くなっている事を思い出しながら、彼女にそう言った。ここの連中、平気で人を待たせるのかな。こちらは別に構わないが、ひょっとすると、目の前の人も待ちぼうけを喰わされたのだろう。そうした親切新による行為であったが、発言を終えて彼は正気に戻った。これでは口説いているも同然だ。そう悟って口ごもった。青年は自分でも、よくそんな言葉が立て板に水のごとくすらすらと出た物だと感じられて、どうにか体裁を整えるべく、次の一言を放り出す事に決めた。

「――な、なんにせよ、私は一向いに構いません。構いませんよ」

 少々強引に思われるだろうが、目の前のバッジが目立つ彼女を座らせようとした。それに店員が、よりによってこの席を勧めてきた以上、他に空きがないのだろう。実際、背広の彼女は彼の向こう側に座った。彼女の咄嗟の行動を幸運と思った反面、彼女にとっては不運であろうなと思われて仕方がなかった。手に持っている廉価なペンの動きも一段と鈍くなってきた。

 すると、相席の人物は彼の動きが鈍化したのを察してか、こんな風に話しかけてきた。

「それにしても、お忙しそうですね。そのメモを見ると少しだけですけど状況が覗えます」

 はあ、そうですか、と彼は言葉少なげに力なく答えた。彼女の胸元で輝く金色の徽章に、既視感を覚えながらも、彼は相手の話に応答しようとした。

「それでも、大した事ではありませんよ。本当なら、もう友人に頼まれた仕事を終わらせてなきゃいけないんですがね、……どうにも書類の照会に時間が掛かるようでして。――駄目ですね、初めてやる作業なんですから、ちゃんと調べておけばよかった。……だから、ここで暇潰しに勤しんでいるという訳です。酷いもんですよ、本当に……」

 それも、詰まらない駄文を書き殴る酷い行為ですしね、と青年は付け加えた。それを謙遜と捉えたのか、相手は関心を抱いたようで、それでも無為にしないように努めていらっしゃると言ってきた。よくできた作法だ。青年は、さらに謙遜を重ねた。

「そうですね、これは私にとっては、しなければならない仕事でして、最低でも、このくらいの事――その内容というのは、他の人々から所詮は詰まらなく下らない噴飯物の記述と言われても仕方がない物なのですが――。それでも何でも良いから書こうとしているのです。……まあ、不向きな人材に依る下手の横好きとも言うべきゴミが、利益を産み出す高尚な生産品として結実する筈もないのですがね」

 そうですか、と彼女はどこか力なく答えてくれた。彼女の心理に一点の陰りを与えてしまったようだ。男は、自身の発言に苛立ちを覚えた。相席の彼女に愚痴を零したも同然である。依頼された仕事の進捗が芳しくなかったせいで、ちょっとした八つ当たりを行ってしまったのだろう。

「……とにかく、暇潰しに持ってこいの仕事をやっているんです」

 そう言って、彼は黒鉛で傷付いた紙片に目を遣って、どこまで書いたのか思い出す事にした。ただでさえ頼まれた仕事が完結していないのだから、手元の一件くらい片付けて置きたい。そう感じた。

「そうでしたか、実はあたくし、まだ講演まで時間があるので、どうしても調整しなければならないのです。……どうも会場に早く来過ぎたみたいですね……」

 そう言って、金バッジの彼女はため息をついた。彼は落ち着けなかった。平生の態度を取り戻すべく、テーブルにあった埃に装飾された古めかしいメニュー表を開き、頼みもしない物どもを眼球で物色していった。真新しい物はない。ただ一つ漆黒のスタウトに目が行ったが、同時にコーヒーの事をまたしても思い出してしまった。

「――あぁ。そうだ、メニュー見ます?」

 このテーブルの空気をどうにか良い方向に持っていきたい。そう考えて、彼は相席の女に古びた商品表を手渡した。それに彼女が何らかの物を注文すれば、店員が来てくれる筈である。その時、ついでに話掛ければ、きっとコーヒーの催促にも繋がるだろう。

 茶色い冊子を勧めてみると、彼女は緊張が和らいだのか、僅かながら喜々として品定めを始め、すぐにレモンスカッシュを頼んだ。青年がコーヒーの到来にケチをつける隙のない、実に手早い注文だった。相席の女はメニュー表を置いて、一息ついた。

「……最近は、多忙を極めていましてね、ここにも仕事で来たんですよ。そうしたら、休憩すら分刻みで指定してきましてね。……少しは落ち着きたいものですよ。――あなたも、そのように見受けられるのですが、どうです?」

 言われたくない質問だった。しかし、優れた観察眼の持ち主だと彼はいささか感心した。身分について聴いてきたので、評論家のような物だと嘘を答えた。まあ的外れな見解ばかり愚駄愚駄グダグダ言ってるよ、と事実に立脚した発言を返してやった。それ以上詳しく言えばに関わる。

「それは、それは。ご多忙なんですね」

 嫌味に感じない発言であったが、どうせ皮肉に決まっている。第一、青年はコーヒーの到来を待つ際の暇潰しとして、本来の仕事を行っているのだから、彼女が言う重大事である筈もなかった。彼はそう自身を捉えながら、下らない事しか書けない安物のペンをテーブルに置いて、今まで書いてきた物を俯瞰した。まったく内容の乏しい物である。扱うべき相手を間違えたかも知れない。これでは、今回も不作になってしまいそうだ。青年は、資料から引っ張ってきた情報を紙片に書いて行った。

「……書評ですか。――オオアラシなんて珍しい名前ですね」

「……いや、大嵐と書いてオオゾレです。まあ、察するにローカル線に肖ったペンネームなんでしょう。とてもじゃないですが、本名であるとは思えませんけどね」

 自分の全く不甲斐ない行為を見られていると思うと、情けなさが込み上げてくる。青年は相席の女から視点をズラして、再び周囲の客層を観察してみた。さっきから中年の男が言葉数少ない若い女に何かをベラベラと喋り続けている。

 ――君に頼みたい話があるんだよ。いや、そんなリスクを冒すような内容なんかじゃない。ただ一言、声をかけてもらいたい人がいるってだけのことなんだ――。

 親子ほどの差を感じたが、顔面を見る限りでは似ている要素は皆無と思われた。また例の「逢引」か、と思いつつ、彼は別のテーブルに目を遣った。

向こうのテーブルで珍妙な伊達メガネを掛けた女が、黒いTシャツを着た髪の茶色い男にブレスレット・ボンドなる外国債の事を話しているのが、よく分かった。どの国の、どう言う通貨単位についての債権で、年利幾らなのか。少なくとも相手は知っているようだったが、こんな所でマイナーな金融商品の銘柄を大声で言う必要もないだろう。そもそも話相手である茶髪の人物は理解を示しているとは言い難い、どこか類人猿のごとき無起伏な面持ちで彼女を見ていた。口説く相手を間違えたとでも言わむばかりに醒めた目をしている。

 見ていられないので、今度は厨房の方面を窺う。キッチンに通じるであろう金属製のドア横にある水槽でロブスターが泳いでいる。胡散臭いイルカとパッとしないミジンコによるエコロケーションも失敗に終わったようで、ブレスレットは暗礁に乗り上げ、水泡に帰していった。

 しかし、気楽な人達だと彼は痛感した。胡散臭くて穴だらけの契約書をチラつかせるか、絶望的な交渉で相手方を口説こうとするだけで、簡単に八万六千四百秒を費やす。それで何を為すおつもりなのか。青年には理解できなかった。

「つまり、オオゾレシンヤという訳ですね。――何か、聞いたことがある名前ですね。確か、その人、「喪失」とか、「断絶」とか出していましたね。最近だと「痴情のもつれ」だったかな……。そんなのを執筆しているとか……」

 確かに女の言ってきた題名は、男が紙面に書いた人物が公開した作品のそれと合致している。だが、何でそんな物を知っているのか。あんなショーベースに乗せられないような泡沫な代物を読み込んでいるとは、この人はどういう人なのか。どこか不気味に思われて仕方がなかった。それに、未発表の作品である『痴情のもつれ』を話してくるとは思わなかった。……無個性な世界に漂う一際目立つ異常者を見るような目で、彼は背広の女の話を半ば肯定した。

「――まあ、確かに、そうですね。オオゾレはそう言った代物を発表はしてはいますね。個人的には酷い代物であったと記憶してはおりますが……。しかし、よくご存じでしたね。何か、御気に障るような点がありましたか?」

 まあ、難しいですねとはぐらかしながら、相手は少しだけ答えてくれた。

「処女作の「喪失」はまだわかりやすいですが、全体的に難解で、文体も硬い。題材も暗い世相に追い打ちをかけるようなもので……」

 青年は、彼女の評を聴いて、もっともな事を言うと感じた。実際、文飾にばかり走って、伝達すべき内容を軽視している。そんな語り手を多用するから、オオゾレの作は三流なのである。それに、最近発表している「痴情のもつれ」に至っては、青年は全くついていけていない。スランプから抜け出そうとして、習作として「万華鏡」に着手しているんだとオオゾレは言い張っていたが、言うだけ無駄だ。そんな事よりも、新作が全てであろうに。

 大体、あいつの書いている物なんて所詮は全部エピゴーネンでしかないですよ。「私」と言う実に詰まらない事象に拘って、その結果、貴重な時間をどぶに捨てているだけだと評論家風情の男は相席の女に言った。半分は気取った発言だったが、目の出ない新人への最後通牒、本音でもある。

「そうでしたか。……不勉強な領域ですが、それでもこの人物の作を拝見した事があったんで、話してみたんです。評論――というよりも分析の比重が大きいようですが、やはり、お得意のようですね」

 分析だけで全てが完成する訳でもないと彼は感じた。結局の所、先のオオゾレに対する評もそうであるが、あくまで分析に過ぎないのである。そこから何を述べていくのか。その先に何を見出すのか。作品を通して何を得て、何を残し、何をしていくのか。そう言った建設性に欠けているために、出世しないのだ。そう思うと青年は再び焦燥に陥りそうになる。落ち着きを取り戻すべく、もう一度、暗い喫茶室とロビーのある空間を見渡してみた。ネクタイとジャケットを略したスーツに身を包んだウエイターや、白いエプロンと古風な髪飾をしたウエイトレスがせわしなく歩いて給仕していくが、未だに男の頼んでおいたブラックコーヒーが来る気配だけが感じられなかった。

 コーヒーを頼んで、かれこれ15分が経つ。彼の注文は忘れられてしまったのだろうか。しかし、そんな些細な事で従業員を怒鳴り散らす程に暇でもない。相席している彼女の目が気になるが、手物の仕事を片付ける事にした。少しは建設的になろうと思っての事であったが、素っ頓狂な声が青年たちのテーブルに出現してきた。

「――お待たせしました。ご注文されたレモンスカッシュをお持ちしました」

 ウエイトレスは商品を一点だけ持っていた。氷が詰まって甘酸っぱそうな薄黄色を呈する果汁とソーダ水の混合物は炭酸ガスを大量に噴出させていた。その液面にはミントと思しき青い葉っぱとレモンの一かけらが丁寧に添えられている。グラス表面が水滴で覆われているところからも清涼感が伝わってくる。彼は少し相席の女が羨ましく感じられた。ただ、少し待てば黒い不透明でほろ苦く、夢に繋がる眠りさえ亡ぼしてくれる芳ばしい液体が到着するだろう。

 彼女は赤く紅を施した唇をグラスに付け、ハイボールにも似たレモン色の液体をゆっくりと傾けていった。コーヒーの来ない身にとって、飲料を旨そうにたしなむ彼女の姿は刺激的だった。見ていて毒なので、またしても喫茶室の中を見回すと、コーヒーを持っているウエイトレスの姿が男の目に映った。彼は、その姿ばかり追いかけていた。こちらに目を遣る仕草さえしちゃくれない。

「良いですね。私の元にはまだコーヒーが来ない」

 彼は舌鼓を打っている黄金色の徽章を付けた彼女の姿を凝視しながら、そう言った。

「そんな事あるんですか」

 まるで市街地のど真ん中で図鑑にしか見ない珍獣を見かけたかのように、彼女は少し驚いた様子で、先客の青年の顔を見つめた。彼は少し戸惑いながらも、認めた。

「まあ、ツイてないんですよ。……それだけです」

 彼は少し自棄ヤケになってそんな事を言い放った。しかし、運がないと証明できないとも言い難かろう。

「今私の抱え込んでいる依頼、仕事、そして注文も、どういう訳か中途で留まってしまっているんです。これから大変になるという手前の部分――序ノ口とでも言うんですかね、まあ、そんな所で足止めばかり喰らってしまう。いつも、そんな事ばかりで、もう私に問題があるのか、どうかも、考えられなくなってしまっている」

 彼女は黙っていた。レモンスカッシュにも手を出さなくなった。酷い事をしてしまっているなと男は感じた。最早、自虐によって駄弁を殺すしかなくなってしまった。

「……そんな調子ですから、たまに、自分のやっている事に嫌気が差す事もあって、簡単に言えば、私である必要もないだろうって考える事があるんです。あなたみたいに賢い人なら簡単に評論もできるし、完成した物だって、きっと見栄えの良い代物になっているでしょう。もちろん、私が携わる事で何らかのメリットと思しき代物が灰塵ながらも生じ得ると考えたいんですがね……。自分で言うのも何ですが、ここまでして書いても、ちっとも甲斐がない訳ですよ。友人の頼みに答えられず、他の作家を莫迦にし、果ては、あなたに愚痴を零す。何のためにこんな事してんのか、分からないですね。……はははははははははは……」

 渇いた低い笑い声を放り出して青年は自身を茶化した。しかし無益な笑いでしかなく、何の解決策ともなりそうになかった。

「やめて下さらない? そんな下品な自虐なんてみたくないです」

 予感は的中した。非常に糞真面目な調子で、相席の女は青年の発言を諫めてきた。……身勝手な者である。さっきまで彼女の美貌に見とれていたのに、今になって憎らしさが青年の胸の内より沸き上がってきた。

「止めたって、現状が変わる訳でもないでしょう。もう、私には何の能力もないんだ。第一、どこにでも在る詰まらない糞袋に無から創造できるほどの神通力なんか備わっている筈もないでしょう。まあ、そんな事のできる奴は、はっきり言って人間じゃないですよ。複製品、贋作、エピゴーネン。その程度の物しか創れない。模造を通して、何か得た気になっているだけですよ、……私という人種も、その一部であるが……」

「――ずいぶんな言いようね。まあ、出典のない論なんて論として認められないから、何となくは分かるけれど、それとこれとは別です。先ほどのあなたの発言なんて、所詮は何の意味もない愚痴に過ぎませんよ」

 どこか慣れた口調で、彼女はそう言ってきた。顔を上げて見ると、頬はやや紅潮して、僅かに膨らんでいる。目は潤んで周囲の光を湛えている。そして周辺の胸元で黄金に煌めくバッジに目を落とすと、ようやく青年は十六の花弁にあやかった物だと理解できた。代議士はこうでなくてはいけない。賤しくも御門を賜るだけの不逞の輩が、他者を平気で傷つける救いようのない気違であった日には、……そんな物は万物の霊長ですらない。社会から落伍した屑である。

「……勝手にしてください。私はあなたのようにはなれそうにない」

 そこで青年と彼女の会話は断絶してしまった。気晴らしにエントランスなんかに来るんじゃなかった、と青年は感じて、痛々しい眼差しを投げてくる彼女から目を背けて、周囲の光景に逃げる。そこには痩せて、青白い顔つきをしている幸薄そうなグレーのスーツを着た男がいた。この存在感に欠ける人物は冷えてしまった我々のテーブルに向かっているようで、なんと相席の女の隣にやって来た。少し落ち着きのない点を見ると、おそらく、彼女よりは年下だろうし、配偶者でもなかろう。

「あの、先生。……みぎわ先生。そのう、準備が整いました」

 頼りなさそうな灰色の男は、覇気なくひっそりと呟くように、そう発言した。彼の胸元に立派な徽章のような物が存在するか、凝視してみたが、安っぽい水色のピンバッジしか見当たらなかった。

「――あら。どうやら時間が来たようです。じゃあ、すみませんが、これで――」

 彼女は、消し炭のようにパッとしないガリガリの男の報告を受けて、離席する旨を青年に告げた。

「先生、お急ぎください。……実は、既に大礒先生が……」

 そんな話をしながら、彼らは喫茶室とロビーの境に向かって行き、フロント周辺を行き来する人々の内に消えていった。周りの席を見ると胡散臭い会話をしていた者はいなくなって、帳簿と思しき枡目の並ぶ画面を凝視する若い女や、椅子に支えられている形で仮眠を取っている非番の従業員、清掃員の姿があるくらいだった。昼間に比べて人員が減ったようだ。

 かくして青年は何とか騙し騙し暇を積極的に殺してきたのだが、肝腎の原稿はちっとも進展しなかった。……そろそろ銀行側の回答がメールで来るだろう。結局、肝腎のコーヒーも来る事はなく、彼女の残したレモンスカッシュと注文票だけがテーブルに横たわっている。彼はこんな酷い話はないなと感じながらも、足を組み直して椅子に深々と座り込んで、窓の外に広がる灰色の世界を眺めながら紙片に駄文を書き殴っていった。



 ――確かに『越前方吾妻下りの記』に関する書評は一見の価値のあるものかも知れないが、先に述べたようにオオゾレシンヤなる人物は、実に的外れな作品ばかりを残してきた。今回、その人物から非難をこうむる可能性もなくはない。しかし、そんな事考えるだけ無駄である。オオゾレは「私」なのだから。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

エントランス 一ヶ村銀三郎 @istutaka-oozore

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る