彼女は海のお姫様

右中桂示

見てはいけない

 九月。僕は海の近くの町に引っ越しをしてきた。二学期に合わせての転校だ。

 新しい学校。新しい同級生。

 友達はまだいない。別に皆が冷たいとか余所余所しいなんて事はなくて、優しい。でもすぐには新しい環境に馴染めなかった。

 これは単に、自分が消極的なだけだ。


 だから休みには、一人で海に来てみた。

 暇だし折角海が近いんだから、という軽い気持ちで。それ以上の理由はない。

 秋に入り、時期外れとなった砂浜。なんだか寂しげで物悲しい。

 こんなもんか、というのが正直な感想。


 だったのだけど。

 そこで、一人の女の子と出会った事で印象は変わる。


「うん? 君、見ない顔だね?」

「え、うん。最近引っ越してきて……」

「へー。じゃあ新入りだ」


 浴衣を着た、同世代の女の子だった。

 ニヤニヤとした笑顔で近寄ってきて、馴れ馴れしい押しの強さには少し構えてしまう。


 そしてなにより可愛い。今までに会った誰よりも。でも、


「えっと、近くの子かな? 多分同じ学校だよね?」

「私? 私はね、この海のお姫様なんだよ」


 痛くて不思議な子、だった。


 本来なら苦手な部類。

 なのに、彼女はどこか神秘的な雰囲気があって、確かにお姫様と言っても納得しそうにはなった。

 だから、ポカンと固まってしまった後だけど、つい乗ってしまった。


「……じゃあ姫。新入りにこの辺の事、教えてくれます?」

「あ、ちょっと馬鹿にしてない?」

「してないよ。似合ってる似合ってる」

「ふ~ん? ま、いっか」


 頬を膨らませても、すぐに機嫌を取り戻す。コロコロと表情が変わるのがまた可愛い。


 そんなこんなで遊ぶ事になった。

 会ったばかりの人、それも女子と遊ぶだなんて、前の僕なら考えられなかった。

 姫の距離感や雰囲気がそうさせたんだろう。


 もう秋だから、海には入らない。

 波打ち際で、水をかけあってはしゃぐ。

 まるで付き合ってるみたいで恥ずかしかったけど、押しの強さには逆らえなかった。


 それから釣り。

 姫は虫を平気で触って針につける。僕と違って、釣果はなかなかに大漁。でも全部逃していた。釣り上げるのがとにかく楽しくて、それで満足するみたいだ。


 更には砂で城を作った。

 かなり手の凝った代物で、プロの作ったアートみたいだった。

 その時の話で、やっぱり姫は不思議で痛い人なのだと確信した。


「これ、竜宮城?」

「うーん。そう見える? 私の実家なんだけど」

「流石お姫様」

「あ、また信じてないでしょ。そりゃ今はあんまりだけど、ご先祖様は凄かったんだからね!」

 

 でも欠点ではなく、魅力の一つ。そんな気がした。


 ひとしきり振り回されて、付き合わされて、それが全然嫌じゃない。むしろ楽しい。可愛くはしゃぐ姫と一緒にいるだけでも満ち足りた時間だった。

 本当、こんなの自分が信じられない。姫と僕の相性が良かったとか、そんな話じゃない。彼女には人を良い方向に引っ張る力があるのだと思う。なんせお姫様だから。


 そして夜になる前に、解散。残念だけど、それぞれに家へ帰る。

 その前に、妙な事を姫は言った。


「帰るところは見ないでね。見たら嫌いになるから」

「だったら見ないよ。約束する」

「うん、約束! 絶対破らないでね?」


 笑顔で指切り。妙な話だろうと反発するつもりはなかった。

 別れた後は、約束通り振り返らない。真っ直ぐに家へ帰る。

 ただ僕は、感触が残る小指をじっと見つめていた。




 翌日も一人で海に来た。

 当然のように姫はいて、同じように海で遊んだ。

 平日は学校があるから海には行かなかったけど、土曜日になればまた会えた。

 姫は子犬のような無邪気さで迎えてくれた。

 まだ出会って一週間なのに、なんだかずっと一緒にいるみたいな感覚さえある。既に壁はない。仲は良いけど不思議な関係だ。


「あまーい!」

「そんなに急がなくても」

「だって溶けちゃうもん!」


 海で遊んで、コンビニでアイスを買った。

 口の周りをベタベタにする、子供みたいな姫はひたすらに可愛かった。

 なのに気品ある雰囲気は何故か損なわれていない。そこが彼女が姫たる所以かもしれない。


 秋口の大きな夕日。

 赤い海。

 堤防に腰を掛けて、足をぷらぷら。何者にも囚われない奔放さで、姫は今を満喫していた。


「うーん、良い眺めだねえ」

「地元でしょ。もう見慣れてるんじゃない?」

「良いものはいつ見ても良いもんだよ。それに、君もいるしね」

「……やめなよ。軽々しくそういう事言うの」


 僕は照れて、そっぽを向きながら言い返した。

 姫の方は僕をからかおうとしてか、ニヤニヤとしている。

 だけどそのまま、無言。言葉はない。

 それが、なんだか心地良い。

 さっきはああ言ったけど、僕としても姫と一緒だから、こんなに気持ちが良いんだ。


 そう。僕は、完全に彼女を好きになっていた。

 でも何も言えない。

 いや、言わなくていいのかもしれない。

 姫の気持ちは分からない。どうか同じ思いであって欲しいけど、そんな訳ないとも思う。

 ただ、今で満足する。それでいい。

 だって実際、抱えきれない程幸せなんだから。



 だけど。


 そんな幸せに、邪魔が入ってしまった。


「なあなあ、オレらと遊ばねえ?」

「ほら、そんなのほっといてさ」

「いいトコに連れてってあげるよ?」


 見るからに悪どい男が三人、声をかけてきた。上背も筋肉もあって圧が強い。

 最悪だ。

 怖い。

 僕が姫を守らないといけないのに、体が動かない。


 だけどそんな僕を余所に、姫はあくまで気軽に話しかけていた。


「ねえ、見ない顔だね」

「そうそう、俺ら観光で来たの」

「あちこちで遊んでるワケ」

「色々知ってるから教えてあげるよ?」

「私、この海のお姫様なんだ」


 姫が言うと、男達はゲラゲラと大袈裟に笑いだした。思いっ切り馬鹿にした笑いだ。


 それに怒りが湧いてきて、怖さが薄まる。

 僕はようやく勇気を振り絞って声を出せた。


「僕達もう行きますから」

「は?」


 僕は呆気なく突き飛ばされた。砂に尻餅をついて、悪意を発する男を見上げる。

 怖い。それでもすぐ立ち上がる。必死に立ち向かおうとして。

 でもその前に遮られた。当の姫に。


「君は下がってて。ね、危ないから」

「いや危ないっていうなら……」

「いいから」


 有無を言わせぬ一言。目が真剣で、底知れないような圧まである。

 どうしても逆らえなかった。


 途端に馬鹿にしたような声があがる。


「うっわマジかよ!? ダッセえ!」

「ねえ。今すぐ何処かに行って」


 姫の声は冷たかった。怖がっているでもなく、怒っているのでもない。

 顔は見えないけど、多分無感情に告げていた。


「まだ攻めてくるっていうなら、許さないから」

「マジで言ってる?」

「え、なにその偉そうなの。聞くワケねえじゃん」

「ふーん。じゃあ仕方ないか。……ね、君は


 警告を馬鹿にしたような返答に、姫は興味なさげな声と、僕への約束を口にした。

 それから海の方へと走っていく。

 僕は言われた通り、その姿を見ない。背中を向けた。

 舌打ちや怒号、男達は姫を追いかける。

 背後で砂が弾ける音が鳴るのを聞いた。


 そして。


「あ? なにが……うわあ!」

「は!?」

「た、たすけ──」


 悲鳴悲鳴悲鳴。

 恐怖に彩られた悲鳴。全てが男の悲鳴。姫のものではない。

 それから、まるで何かにくが千切れるような音がした。何かほねの砕けるような音も。何かいのちが呑み込まれるような音さえ。

 なにか、おぞましい事が行われている、のだろうか。


 背筋が冷えた。

 そんな訳ない、と僕は無理矢理に嫌な思考を追い出す。

 目を閉じる。きつく、何も見えないように。

 耳を塞ぐ。固く、何も聞こえないように。

 世界を切り離す。決して、何も知らないように。


 怖かった。

 怖かった。

 ただ、ひたすらに怖かった。


 でもそれは──



 不意に、耳を塞ぐ両手が外された。


「もういいよ! 全く、耳まで塞いでくれるなんて真面目だねえ。うん、でもありがとう!」


 彼女は、何事もなかったかのように振る舞う。

 何処までも明るく、朗らかで、陽気。

 さっきの不吉な想像が錯覚だったんじゃないかと思う程だ。


 そのまま姫は尋ねてくる。やっぱり何事もなかったかのように、遊びを続けようとして。


「じゃあ、今度は何しよっか?」


 無邪気な笑顔。

 可憐な笑顔。

 魅力的な笑顔。

 眩しい笑顔。


 僕は再び思う。

 やっぱり、怖い。


 怖いもの見たさというか、つい振り返ってしまいそうだったから、怖い。

 嫌いになるからね。そう言われていたのに見てしまいそうだったから、怖い。

 「見てはいけない」その約束を破れば、別れて二度と会えない。そうと察したからだ。

 嫌われるのが、怖い。

 彼女と会えなくなるのが、怖い。

 一緒にいられなくなるのが、怖い。


 だから僕は、好奇心を殺す。

 正体は知らない。知らなくていい。

 知りたくない。見たくない。聞きたくない。

 まだまだ一緒にいたいから。


 周りは赤い。

 赤い。赤い。赤い砂浜。

 でもそれはきっと、大きな夕日のせいだから──。


「そろそろ夜だし、花火でもしようか。夏に買ったけど余ったのが家にあったはず」

「花火! いいね、やろう!」


 提案すれば姫は大いに喜んでくれた。それが嬉しい。


 僕は、彼女の笑顔しか、見ない。

 幸せになれるなら、それでいい。


 ああ、一緒に過ごせる未来が、楽しみだ──。






 ──────────────────


 古事記には次のエピソードがある。


 火遠理命ほおりのみことと海神の娘である豊玉毘売とよたまびめが結婚する。

 豊玉毘売は出産の際「産むときは元の姿になるので見ないでください」と言って産屋にこもった。しかし火遠理命は覗いてしまう。

 すると中には巨大な和邇わに(鰐とも鮫とも言われる)がいて、火遠理命は驚いて逃げてしまった。

 姿を見られた豊玉毘売は恥ずかしがって海へ帰り、海と陸の境を閉ざしてしまったという。

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