スペシャル掌編「あくまのはなし」

あくまのはなし ~He Can Do Nothing But~

      著/時雨沢恵一  イラスト/黒星紅白



 僕が、とても嬉しい知らせを、誰よりも先に自分の口から伝えるために、彼女の部屋に行くと――、

 二十五歳のはずの僕の恋人は、九十歳過ぎの老婆になっていた。

 彼女は、見たこともない服を着て、ベッドの上で目を閉じて横たわっていた。

 皺だらけの細い両手で、胸の前で小さな袋をきつくにぎっていた。

 僕がプレゼントをした指環を、左手の薬指に嵌めていた。

 

 彼女は、ゆっくりと目を開けた。

 僕の目を見て、僕の名前をしっかりと呼んだ。とても嬉しそうな微笑みを見せた。

 僕は、彼女の名前を呼んだ。

 彼女は、

「そう……。私……。ああ、また会えて嬉しい……」

 か細い声で答えて、目から涙を流して、

「ありがとう。本当にありがとう。愛しているわ」

 それだけ言い残すと、眠るように死んでいった。



 何が起きているのか、分からなかった。

 気づけば僕は、老婆になった彼女のたいを、こっそりと運び出していた。

 あまりにも軽くなっていたその体を、微笑んだままの遺体を、大きなスーツケースに入れて運び出した。

 車を走らせ、一度だけ彼女と星を見に行った山の奥へ向かった。

 


 誰も来ない林道の突き当たり、谷の奥に大きな木がそびえる。

 かつて僕はここで、彼女にキスをして、将来を誓い合った。

 その場所に、僕は彼女を、丁寧にまいそうすることにした。

 握りしめられていた袋が何か気になったが――、

 彼女の手があまりにもしっかりと握っていたので、そのままにしておいた。

 全てが終わったのは、早朝だった。僕は、彼女の部屋へと向かっていた。

 部屋に戻れば、そこに若い彼女がいると思った。そう願った。

 でも、いなかった。

 かわりに――、

 一人の悪魔がいた。



「チィーッス! 悪魔でーす!」

 そいつは若くて、胸のタトゥーを見せびらかすように、素肌にジャケットを羽織ったチャラい格好だった。顔立ちだけはアイドルか俳優かと思えるほどの、ハンサムな男だった。

「代価と引き替えに、願いを叶えに来ましたー! アナタ、ずいぶんとまあ、強い願いを持ってますねえ。いやもうプンプンしてますよ? それを叶えてみせまショー!」

 そう言いながら、とても楽しそうな笑顔で、小躍りしながら近づいて来たので――、

 とりあえず本気で殴った。

 軽々と吹っ飛ばされたそいつは、

「悪魔を殴るなんて、アンタ悪魔ですかぁ?」

 知るか、と思いつつ、一つ前のそいつの台詞せりふが頭をよぎった。

 俺はそいつを睨みながら聞いた。

「願い……? 願いだと? それはなんでも叶えてくれるのか? できるのか?」



「もちろん! だって悪魔ですからー! 以上証明おわりーっ! もっちろんタダなんてことはありませんけどねー! その代価は、願いの大きさによりますけどねーっ!」

「僕を、昨日へ送ることはできるのか?」

「できますよー!」

 そいつはヘラヘラと笑いながら言った。

「たった一日くらいなら、まあ、命までは取りませんよー! その代価は、“今後一生、どんな楽器であっても、弾けなくなる”でどうですか? 昨日念願のメジャーデビューが決まったばかりのミュージシャンさん」

 ああ、コイツは間違いなく悪魔だった。

 僕は答えた。



 僕は、一日を戻った。

 寝ていた彼女を起こして、部屋から連れ出した。

 理由は何も言えなかったが、彼女は信じて付いてきてくれた。

 他愛なく二日間を潰してから、まるで何もなかったかのように、彼女は部屋に戻った。

 終わってみれば、夢のような出来事だったが――、

 それは夢ではなかった。

 そして僕は、確かに、楽器が一切弾けなくなっていた。



 彼女には、夢はもう諦めたんだと伝えた。

 僕を認めて買ってくれた事務所には、どうしようもない嘘をついた。二度と顔を見せるなと言われた。

 それからは苦労の連続だったが……、どうにか安定した仕事を見つけて、人並みに生活していけるようになって、僕は彼女と結婚した。

 やがて子供が生まれ、孫が生まれ、時は過ぎていった。

 あの日以来、あいつには――、チャラい悪魔とは会っていない。

 どんなに辛いことがあっても、願わなかった。

 自分の力で、それらと戦ってきた。

 

 


 僕は、幸せな人生を過ごした。

 まもなく旅立つが、何の憂いもない。

 ただ一つだけ――、あの時の出来事だけは、誰にも言えなかった。

 だからこうして、最後にゆいごんとして残している。

 あの時の僕の彼女へ。

 僕の愛する妻へ。

 伝えたいことがあるから。



 愛する妻へ――。

 最後のままだが、どうか、叶えて欲しい。

 僕のはいを少し、あの山の、あの場所にめて欲しい。

 誰だか分からない、もう一人のお前が――、

 ずっとずっと寂しくないように。



 あの時、黙って付いてきてくれて、そして僕の人生を素晴らしいものにしてくれたことを、心から感謝するよ。

 ありがとう。本当にありがとう。愛しているよ。


   *   *   *


 夫が謎の手紙を残して去ってから、十数年の時が流れた。

 あの時の思い出の場所は、もうダム湖の底に沈んでいて、行くことはできない。

 でも、私が行くべき場所は、もう分かっている。

 私は願った。

 強く強く願った。

 果たして、

「チィーッス! 悪魔でーすっ!」

 そいつはやってきた。

 夫が書き残したとおり――、

 そいつは若くて、胸のタトゥーを見せびらかすように、素肌にジャケットを羽織ったチャラい格好だった。顔立ちだけはアイドルか俳優かと思えるほどの、ハンサムな男だった。


 私が彼に願うことは、ただ一つ。

 あの日の私の部屋に、私を連れて行って欲しい。

 その代価は、私の命。

 私は、夫の遺灰が入った小さな袋を、きつく握りしめる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る