無銘の連星

一色まなる

無銘の連星

「なー、仁吉兄者―。腹が減ったなぁ」

「言うな佐吉。余計に腹が減る」

「最後に飯を食ったのはいつだったか」

「言うなっつったろうが、馬鹿野郎……。殴られてぇか」

「腹が減ったなぁ……」

 ジーコジーコと蝉が傍の壁に張り付いて鳴いている。それに合わせて二人の青年の腹の虫も鳴いている。二人とも歳は15ほどで、仁吉と佐吉という兄弟は板のはがれかかった剣術道場の床に転がっている。二人ともつぎはぎだらけの服をまとい、二人で住むには広すぎる道場兼家に住んでいる。


「おい佐吉、水汲みに行って来い。こうも暑いと竹刀を持つ気にもなれん」

「仁吉兄者が行けばいい。丁度、長屋のおかみさんが瓜を井戸に吊るしてくれたからそれを食おう」

 軽く仁吉が舌打ちをする。同じ歳で生まれたけれど双子ではない二人は湯島で先祖代々伝わっている剣術師範をしている。一応兄である仁吉が道場主で、弟の佐吉は師範代という事になっている。

 まぁ、花のお江戸がいかに栄えようと、金のないところには金はわかない訳で。絶賛貧乏暮らしをしている、というわけである。湯島にはお上が開いた学問所もあり、二人ともそこで奉公をしつつ学問をしている。

「よし、佐吉。立て」

「いやですよぅ。兄者はそうやって気に食わないとわたしを的にする。たった一人残った可愛い弟を」

「自分で自分を可愛いという奴はもっと気に食わねぇ」

 すくっと立った二人は竹刀を構える。ぼろ雑巾のような見た目をしてはいるが、竹刀だけはきちんと磨かれ目立った傷は見られなかった。二人とも同じように上段に竹刀を構える。足に力を込め、軽く身を沈める。

 二人が同時に地面を蹴る。かーん、と心地よい木の音がする。


「かっああああ! 修練の後の水浴びは気持ちがいい!」

「こっちに飛ばすな佐吉! 蹴り飛ばすぞ!」

 たった一つ残った井戸も何度か修繕を繰り返した後がある。日も大分傾いてはいるものの、真夏の暑さは身に堪える。

「ほら、佐吉。瓜だ」

「それ、さっきわたしが言った瓜じゃあないか」

 適当に割った瓜を仁吉が放り投げる。木陰に椅子代わりに置いている石に腰かけて二人で食べる。2人は見ての通り貧乏暮らしをしているが、近所の長屋の人達が差し入れを持って来るので、何とか食いつないでいる。

「うめぇなぁ。畑の方もそろそろ収穫だし、今年の冬も何とかしのごうな」

「あぁ……兄者」

「どうした?」

 畑の方を見やって佐吉が固まっている。固まっているというより、何かの気配を感じ取っているという風だった。まるで獲物を探す鷹のような視線に仁吉は足元に転がせている竹刀を一振り佐吉に投げ渡す。

「いつものあれか」

「いや、違う。一人しかいない」

 佐吉は人一倍耳がいい。時々いるのだ、このボロボロの道場を見て廃屋だと勘違いした招かれざる客が。道に迷った旅人や浪人ならいざ知らず、物取りの類となれば話は別だ。

「一人か……。俺が行こう」

「兄者、わたしの方がいいのでは?」

「それなら、お前。裏手から回り込んで道場の影にいろ。俺が合図したら一斉に叩く」

 こくり、と佐吉がうなずいた。もう何年になるだろう。自分たち以外の家族が黄泉へと行き、自分達だけ残された。まだ元服もしてない幼子に道場を守れる力なんてない。だから、荒れ果てるままになった。

(でも、俺達は覚えている)

 子どもの頃、まだ両親が生きていたころ。幸せというものに形があるなら、あの時はまさしくそうだったろう。だから、守る。門下生が子どもしかいなくても、未熟者だとそしられようと、二人で守ると。


 その人影は畑の隅にしゃがみこみ、びくともしていなかった。身なりは思ったより整っており、男の側には笠と深緋色の外套、そして護身用の脇差があった。旅人の装いで間違いない。けれど、引っかかる。

(お伊勢参りの帰り? いや、それならば道場に用などないはず)

「貴様、何奴だ」

 竹刀をさしたまま男に背後から声をかける。竹刀には手は伸ばさない。この距離を一瞬で詰められる達人ならこの場に相応しくなく、もし素人であれば無駄に刺激する結果になる。仁吉の問いかけに男は少しして気づいたらしく、ゆっくりと振り返り立ち上がる。

「もし、ここは湯島の達人こと江藤時次郎殿の道場と見て間違いないだろうか」

 江藤時次郎、父の名だ。父の名は剣術師範としてそこそこ知られている。仁吉は無言のまま頷いた。男はそれを認めると大きく息をついた。

「ここで間違いないか。よかった。お江戸のどこかにあると聞いていたので、あちこちの道場に伺っていたが、ようやっと来れた」

「ずっと長い間尋ねて回っていたのか?」

 こくこくと頷いている。図体はでかいのに、どこか子どものような雰囲気が漂っている。埃と土で汚れている顔は気弱そうで、おどおどしたような色でこちらを見ている。小さく開いた口から漏れ出る声も、まるで生まれたての小鹿のよう。

(佐吉の雰囲気からして、かなりの使い手だと思っていたが……)

 あの時の佐吉の目は、自分よりも強い相手に向ける物だった。けれども、目の前にいる青年はどこをどう切り取っても気が抜けるようだ。

「父とはどのような関係で?」

 青年は軽く首を横に振る。

「時次郎殿との面識はない。が、私の親父殿は己に何かあった時は時次郎殿を頼れと言っていたのだ」

 ぼそぼそと、力のない声で言う。父の知り合いとなれば、無下にはできない。とはいえ、素性が分からないのは……。

 はっと後ろの小屋を見やると、佐吉がさっきから妙な踊りをしている。何かを伝えようとしているけれど、全く分からない。

「名乗るのを忘れていたな。俺は江藤仁吉。お前の言う江藤時次郎が一子で、この秀訓館の道場主だ」

 道場主、という言葉に青年の目がかすかに開いた。

「そなたが道場主という事は、時次郎殿は……」

「もう何年も前に鬼籍に入った。なんぞ伝えることがあったのだろうが、俺でよければ受け賜ろう」

 その言葉に青年は目を伏せてまた首を振る。

「そうか。それならば、よいのだ。そういえば名乗るのを忘れていた。私の名は―」

「兄者! そいつ追い出しましょう!!??」

「馬鹿、佐吉出てくんなっ?!!」

 せっかく背後をとったというのに、佐吉が大声で叫ぶ。それに負けじと仁吉も叫ぶので青年が驚いたように目を見開いている。

「こいつ! 最近話題の道場破りだっ!」

「は?」

 道場破り、とは道場主に果し合いを望む放浪の武芸者の事だ。大抵は大きな道場に殴りこんでくるのが常なので、こんな辺境のボロボロ道場にはとんと縁がないと思っていたが。

「その6尺以上の身の丈に、深緋色の外套! 間違いない! 長屋のおかみさんたちが井戸端会議で言ってたから間違いない!」

 いや、井戸端会議程度で決めつけるのはいかがだろうか、佐吉。と仁吉がたしなめようとするが、ずかずかと佐吉は二人の間に割って入る。

 怒っている、というより感情のごった煮を持ち出しているよう。きょとんとしている兄をよそに弟は腕を組んで自分より頭一つ分も大きい男を見上げている。

「テメェ、何の用でぇ。道場破りは余所でやんなぁ。ここは確かにおんぼろだがな、おとうに言い聞かされてるんだ。兄者と二人で守れってな!」

「佐吉……」

「やいデカブツ! 何か言ったらどうなんだ!」

 握りこぶしを作った佐吉が青年に殴りかかろうとする。と、事もなげにその右手を掴む。掴んだ腕を自分の方に引っ張り手を放し、佐吉の体勢を崩す。そして、そのまま背後に回り込み足払いをかけて佐吉を地面につかせた。

(速い!)

 体術はほとんど専門外だが、佐吉の動きを完全に読んでいたことが分かった。

「なにしやがる!」

 青年の代わりに仁吉が叫ぶ。その声にまた青年が軽く跳びあがった気がするけれど、気のせいだろう。

「それはこっちのセリフだ馬鹿野郎!」

「さっきから言ってたじゃないか! こいつは道場破りだから追い出せって!」

 さっきのドジョウも掬えないような踊りはそういう意味だったのか。というのはさておいて。兄として弟の愚行は謝らなければならない。

「こちらは俺の弟の佐吉と言います。まだ未熟者ゆえ、大目に見て下され」

「いいや。道場破りと言われるのはあながち間違いではないので、弟御が警戒なさるのも無理はない。こちらこそ、とっさの判断とはいえ弟御に膝をつかせた。申し訳ない」

 ふかぶか、と腰を折る。やっぱり、図体と行動が見合わない男だ、と仁吉は思った。それよりも、気になる事をきいた。

「道場破りは間違いではない、と?」

 その言葉にはっとした青年は急に視線を彷徨わせた。子どもが言い訳を考えるときのように、明後日の方向を向いている。弟がいるのでわかる。これは長くなるぞ、と。黙っている青年を佐吉が忌々しそうに見やる。

「こいつ、新橋にあるでかい道場の道場主を破った悪名高いやつですよ」

「は?」

「兄者も知ってるはずです、燕柳館が道場破りにあったって話。先月かわら版が売り歩いてたの、覚えてません?」

「燕柳館って……江戸一の道場じゃないか! 門弟だって、ここの比じゃない!」

「だから入れたくねぇんです。今江戸じゅうの道場がこいつを警戒してるんです」

 燕柳館。柳生流から派生し、その名は広く轟いている。全国から腕自慢が集い、そして多くの門弟がいる。道場の広さは仁吉達の家が丸々収まってもまだ有り余るほどだ。まだ父らが健在だったころ、何度か修行を共にしたことがある。規模、伝統、実力と全てが負けていたのを覚えている。

「そんなところを破って……どうしてここに?」 

「……」

「言いたくねぇならそれでいい。早々に発ってくれ。あんたは今や江戸中の武芸者達の目の敵だ」

「されば仕方あるまい。驚かせてすまなかった」

 そう言って青年が立ち去ろうとする。しかし、仁吉はとっさに声をかけた。

「こんなに暑い時に外にいちゃ倒れる。水でも飲んでくれ」


「うちは茶を買う余裕もないんで、すまない」

「いや、この様な暑い日は水が一番」

 そう言って、水を一息で飲み干した青年は改めて二人に向き合った。とたん、青年の纏う空気が一気に様変わりした。他者を圧倒する強者の雰囲気。先程までぼやぼやしている人間と同じとは思えなかった。

「私の名は大木新兵衛という。元は下総の方で父や祖父と共に剣術を磨いていたが、その……」

 急にどもる。何もおかしい事はないだろう。

「父や祖父に武者修行をすすめられ、この秀訓館を目指してきたのだ。道すがら、道場を見かければ秀訓館の場所を訪ねていたのだが……、その、道場破りだと」

「間違われても、否定すればよいだろう。普通に修行しに来たと」

「そういえばよかったのだが。その、皆が道場破りだと言うので、仕方なく手合わせをしてきたのだ」

 ふと見れば佐吉が猫のように身をかがめて低く唸っている。これでも元服をしたひとかどの男なのだが、どうもこの弟は警戒が解けない。

「勘違いされたままではよくないだろう。たしかに先程の身のこなしは一朝一夕に身につくものではないの分かった」

 そう言って仁吉が顔を上げると、ぎょっとした。ぼとぼとと大粒の涙を流し新兵衛が泣いているではないか!

「初めてそのようなことを言われ申した。大抵は、どの道場の技を盗んだのだとか、剣より拳が強いとは何事だと、言われ……。親父殿にも、褒められたことなどついぞなかったもので、つい」

「まてまて! 泣くな! それでも武芸者か!」

「けっ、何泣いてやがんだ。でかいナリの癖に気の小さいこった」

 佐吉は完全に不貞腐れている。こうなると長い。長い兄弟づきあいで分かってきた。こういう時は飴細工でもやるしかない。

「肝心なことを訊いてなかったな。この道場に何の用だ?」

「それは、私をここの門下生にしてほしかったのだ。先の道場主であった時次郎殿は剣よりも拳の立つと噂を聞き、親父殿は私を置いてくれるよう頼んでいたそうなのだ。書状も送ったと言っていた」

「兄者、こいつ嘘ついてます。なんだかんだと理由をつけてこの道場を狙って―――ぐはっ!」

「黙ってろ」

 馬鹿なことを言いだしそうになった弟のみぞおちに裏拳を叩きこんで黙らせておく。佐吉の言い分も分かる。父は生前一言も新兵衛の名を出したことはなかったからだ。

 新兵衛は身の証となるものを何一つ持っていない。確かに関所を越えるための手形はある。けれど、それだって確固たる証拠にはならない。新兵衛の父親が仁吉たちの父親に宛てた手紙が残っていれば話は別だったろうに。

「怪しまれるのは分かっている。時次郎殿がいないのであれば、ここに用はもうない。それでは御免」

 さっと立ち上がった途端、ぐらりと新兵衛が倒れこんだ。そのままピクリとも動かなくなってしまった。少し待って二人は顔を合わせて新兵衛の顔を覗き込んだ。

 ぐす、ぐす。と泣き声が聞こえる。

「腹が……腹が減り申した……」

 仁吉はのちにこう語る。あの時は凄腕の剣士ではなく、大きな赤子を拾ったのだと思ったと。


 新兵衛は確かに怪しさ満載な青年ではあったが、それはあまりしゃべらない性分とでかい図体のせいだとすぐに分かった。話してみると時々は抜けているだけで、根は真面目だし、そこそこ器用なので荒れ放題だった道場は見違えるようにきれいになった。特に庭木の剪定は得意なようで、鋏を手に気に上る姿が様になっていた。

「上手いもんだな」

「恥ずかしながら、日銭を得るため庭師に弟子入りしていたことがあったので」

 またある日は佐吉の釣ってきた魚を手早く刺身や寿司にしてくれた。赤酢のきかせ具合が絶妙で、下手な屋台よりおいしかった。

「美味いじゃないか……」

 こればっかりは、不貞腐れてばかりもいれないようだ。台所に立つさまも堂に入っている。

「恥ずかしながら、板前の覚えも少々ありまして」

 どこが恥ずかしがる要素があるのだろう。こっちが恥ずかしい。今まで親の遺産を切り崩しながら、申し訳程度に奉公をする自分達とはまるで違う。自分達の道場を目指してやってきてくれたのは正直嬉しい。けれど、そこまでの価値があっただろうか、と。

 ここは天下のお江戸。体術の道場など掃いて捨てるほどある。あまり言いたくはないが、自分達の道場はそれほど大きくない。それなのに、下総。国を越えて名が知られているとは思わなかった。

(なにか理由があるのか?)


「兄者。不思議なものだなぁ」

「あれからもうひと月か……。新兵衛ももう馴染んできているし」

「手先が器用だし。教えれば大抵のことはできるな」

「のみ込みが早いのはいいことですけどねぇ」

 昼間はうだるような熱さだけれど、日が落ちれは大分涼しくなる。先程くんだばかりの井戸水を桶に溜め、それぞれ足をつける。

 新兵衛は今は市場で買い物をしている。丁度盆も近いので、そのための支度を頼んでいた。そろそろ帰ってくるはずなのだが、気配が全くない。どこかで道草を食っているのだろう。

「そういや、兄者。先程親父の部屋を整理していたら、見つけたんだ」

 懐を漁って、佐吉が何かの手紙を取り出した。そのまま床を滑らせ仁吉に手渡す。

「兄者は親父の部屋に入らないから分からないんだ。わたしは親父から時々聞かされてたんだよ。初めは気づかなかったけれど、でも」

 ぶつぶつと呟く弟をよそに、ボロボロになった手紙を開く。細く流麗な書体で綴られていたのはある男の素性についての物だった。

「これって……くそ。親父、閻魔様に折檻されてしまえ」

 ぐしゃ、と手紙を握りしめ仁吉はすくっと立ちあがる。


 見知らぬ男たちに取り囲まれ、新兵衛は深く息を繰り返していた。ここは人通りの多い橋の上だ。荒事に発展すればこの高い橋から人が落ち、大惨事になりかねない。自分の行く手を阻む人達の顔には覚えがある。丁度ひと月ほど前に自分が破った道場の門弟だったからだ。

(数は6か……。突破するには容易いが……)

 火事と喧嘩は江戸の華。

「お前さん、今は秀訓館に出入りしているそうじゃないかい」

「あぁ。だが、そなたらには関係のない事だろう。早く帰らねば、二人が心配する」

「待てよ。通すと思っているのか?」

「通させてもらう」

 背に負っていた籠を下ろす。相手は手に竹刀を持ち、いつでも戦えるようにしている。ここには武器になるような物も、足場になるような物もない。

(荷を捨てるのは忍びないが……)

 身をかがめ、相手の出方を伺う。数ではこちらが圧倒的に不利だ。だからこそ、一挙手一投足を無駄にはできない。横目で街の人々を見るが、まだ異変に気付いていないようだ。

「あのぼろ道場に何の用だよ。お前のせいで、我が道場は面目丸つぶれだ」

「名も知らぬ者に敗れたと、師範は放心状態だ」

「聞けば方々の道場に現れては、一言三言尋ねて去るではないか。それはあまりにも不躾ではないかね。同じ武を極めるものとしての矜持はないのか」

「私はただ人を探しているだけだと言ったではないか。それを道場破りだ、果たし合いだの言いがかりをつけたのはそちらだ」

 人の言い分など聞かない。それがこの国の武芸者の在り方なのだろうか。

(私はただ……)

 幼い頃から見てきた江戸に行きたかっただけ。会いたい人がいただけだ。

「お前はここで潰しておかねば、師範に申し訳が立たない」

「勝手に試合を申し込んできたのはそちらだ。私はただ、身を守っただけだ」

「我を通すな!」

「その言葉、そのままお返し申す!」

 その言葉とともに新兵衛は跳びあがった。橋の欄干に飛び乗ると、そこから身をひねり端に一番近い右手側の男に体当たりを食らわせる。男は急なことに踏ん張りがきかず、もう1人巻き込んで倒れ込む。

「この野郎!!」

 一番と奥にいた男が新兵衛に殴りかかってくる。その光景を見た町人たちは橋を急いで渡っていく。自分よりも太い腕を半身をとってかわし、新兵衛は後ろに飛んで距離をとる。

 倒れこんだ男たちもよろめきながらも立ち上がる。ふぅ、と新兵衛が息をつく。すると、新兵衛の後ろからヤジが飛んでくる。

「まるで義経公のようだ!」

「天狗の子と燕柳館の門弟のけんかだ!」

「よしやれ!」

「負けるなー! お江戸の五条大橋だ!」

 幅の広い橋でよかった。逃げ場はたくさんある。襲ってくる六人を見て、新兵衛は心の中にひやりとしたものを感じていた。

(お江戸も、そうなのだろうか。私の居場所ではないのだろうか)

 物心ついた時から、人より器用だったのを覚えている。剣も書も、楽も、一度教わればある程度できた。二回すればほぼ完成されていた。だから、皆離れて行った。

 父も、祖父も、兄弟弟子たちでさえ。

 庭師になっても、板前になっても、長い長い修行を必要とするそれをあっという間に身に着けてしまう己を皆恐れていた。

 大勢の人がいれば、その中にいるかもしれないと思っていた。己より優れた人に。己などかすんでしまうほどの人が。

 でも、違っていた。

「こちらを拝借っ!」

「俺の竹刀を……ぐふっ!?」

 二人目を気絶させ、ようやく武器を手に入れられた。周りを見ると、皆喧嘩に熱狂している。その表情に新兵衛は息を呑んだ。

(その目を見るためにここに来たわけじゃない……私は父上に会いに来たのに!)

「背後取ったり!」

「っ―――!!??」

 町人達の目に気をとられた一瞬の隙をとられ、新兵衛はうなじに相手の竹刀を直接受けた。ひり、と皮膚が熱を持っていくのを感じる。そのまま地面に叩きつけられ、口の中に鉄の味が広がる。

「やはり集団には勝てぬか」

「このまま道場に連れて帰り、晒そうぞ――」

 新兵衛の頭を踏みつけていた男の言葉が一瞬途切れた。とたん、頬に一閃の朱が入りじわじわと広がっていく。

「なんだ、これ?」

 頬をなぞると、夕日よりも赤い血が手に広がる。

「誰……が……」

「師範代、誰か……います……」

「お前……その足、どうした?」

 ふと周りを見ると橋には槍が突き刺さっていた。その槍は細く長い。その槍は橋板に突き刺さったり、男たちの足や腕を切り裂いている。

「誰だ!!」

 師範代と呼ばれた男が叫ぶが、何も返事がない。

「このようなことをしてただで済むと思うな! 我らは不当に終わった試合のやり直しをしているだけだ!」

「不当?」

「寄ってたかってやりやがって、武芸者の風上にも置けねぇ」

「!? そこか!?」

 師範代は声のした方を見上げる。自分達の背後、そこにある物見櫓から声がする。影は二人、声は若い男のもの。

「そいつはわたしの兄だ!」

「兄がいるとは思わなかったが、まぁ。親父殿の遺言なら仕方ない」

「その声……分かったぞ。秀訓館の若造どもだな。お前の門弟のやったことの落とし前をお前達がつけるのか?」

 言葉を続けようとした師範代は目を剥いた。兄の方が何かを構えている。そして、何かが飛んでくる。とっさにしゃがみこむと風を裂いて槍が突き刺ささる。

「投げ槍……。しかも、これは長槍!? ……いつの時代の代物だ!」

「時代なんぞ知ったこっちゃねぇ。俺達は兄者を助けに来たんだ」

 三人で守れ、と。父が若い頃、放浪剣士であった頃に生まれた子がいた事、その当時の師匠に預けてその地を離れた事。ずっと心残りであった事。

 それらが父の字で書かれていた。自分達に宛てた手紙がまだ残っていたとは思わなかったけれど、この青年が自分達の兄ならば、救わない道理はない。物見櫓に大量の槍を持ち込んだ。剣で戦えば連中との実力差で押し潰される。だから、高さをとる。

 高い所にいる敵は攻撃してはいけない、兵法の基本だ。また槍を構えた仁吉に対し、師範代は激昂する。

「お主……下手をすればこいつに当たるとも限らんのだぞ!」

「その前にあんたの脳天を貫く!」

「く……! もういい、帰るぞ!」

「しかし……師範代……」

「秀訓館。飛び道具の扱いに秀でていたと聞く。高所を陣取られてはこちらの勝ち目などないわ」

 その言葉に男たちは苦虫を噛み潰したような顔をして橋から降りていく。男たちが去った時、二人は慌てて新兵衛に駆け寄った。

「ひどいけがだ……医者に連れて行かねぇと」

「おーい! ここに医者はいねえか! けが人がいるんだ!」

「……二人、とも……」

 傷だらけの体を起こし、新兵衛が言う。

「お前達は私が怖くないのか?」

 その問いに二人は顔を合わせ、そして大声で笑う。

「兄が怖い弟など、この世にごまんとりますよ、兄者」

「そうだそうだ。怖い兄者がもう一人増えたところで、どうという事もないです」

 その言葉は、新兵衛が初めて聞いた答えだった。

「……ありがとう」


 それからしばらく後。秀訓館の門を叩く人が少しずつ増えた。あの橋での一件がかわら版の目に止まり、事の顛末を面白おかしく触れ回ったからだ。おかげでボロボロだった家も少しずつ元の形になっていく。

 何もかも同じではないけれど、きっとこれが新しい”幸せの形”なのだろうと仁吉は思った。


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無銘の連星 一色まなる @manaru_hitosiki

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