まえぶれ

クニシマ

◆◇◆

 晴れた空がおれをじろじろ見るせいで歩けなくなった。ちょうど、いくつもの鳥の糞が白くこびりついたベンチがあったから、その背もたれにしがみつく。目を強くつむると頭ばかり痛んで涙が出た。空が青すぎる。そのうえ雲は白すぎるのだ。こんな空の下では生きていかれない。しばらくそうしていると、背後の車道からエンジンの呼吸音が聞こえてきた。見ればバスが口を開けてこちらを睨んでいる。なぜそこにそんなものがいるのかわからない。やがて自分のうずくまっているベンチが停留所であったことに気がついたとき、バスは大きなため息をついて走り去っていった。

 左手に提げたレジ袋の中で牛乳が温まっていってしまうから帰らなければならないのだ。その程度のさえ満足にできないのならおれはいよいよ芯から親不孝者になってしまうのだ。ヨーグルトやにんじん、ハムなどと書かれた紙切れを母から受け取って、ぴったりその日に買うものの金額だけが入った財布を預かって、駅前のスーパーで品物を探して買って、それからまっすぐ家へ帰るというだけだ、それだけしかおれにできることはない。そのほかのことがまるで何もできないから、そろそろ足腰も弱り出した母に付き添われて毎週病院へ通うのだ。それがあまりにもつらくて、昼日中より居間の床に転がってはかなしいかなしいと喚くのを、定年から二十年以上も経った父が懸命に慰めるのだ。老いてひどくよじれた声で、おまえはいるだけでいいんだから、と。それなのにおれはこうしてこんなところで牛乳を腐らせようとしている。せめて立ち上がり歩き出さなければいけない。けれども陽の光が明るすぎる。胃の中身が怒り狂っている。それは母の作った朝食なのだから決して吐くまいと考えれば考えるほどに食道をせり上がるようでどうしようもない。どこかへ気をそらしていようと泳がせた目が、車道の向こう側、家々の隙間に小さな公園を見つけた。おれの足は迷いなく道路を突っ切りそこへ向かった。走る軽自動車列の間を縫ったから、辺りにはクラクションのやかましい音が立ち込めていた。

 びっしり植わった背の高い木々に囲われている狭い敷地は、こんなに晴れた日でもどこか薄暗く、土など湿り気さえあるようだ。そんな場所を公園たらしめている唯一の遊具であるのきたブランコに、子供がひとり座っていた。女学生が穿くようなひだのついた長いスカートを纏っているが、どうやら少年だ。ブランコをかすかに揺らしながらゲーム機をいじっている。彼が地面をそっと蹴るたび、金具の軋む音が響く。おれはよく根の張った木にもたれてそれを眺めていた。汗ばんだ背が幹と同じ温度へ近づくごとに、喉の奥で暴れていたものが徐々に静まっていくようだった。

 ふと、姿勢の悪い男が公園に入ってきた。男はおれに気づいていないようで、まっすぐに少年のところへ寄っていく。そして彼と顔の高さを合わせるようにしゃがみ込み、何かをやたらに馴れ馴れしく話し始めた。面倒ごとの起こりそうな気配がしている。もうそろそろ歩くこともできるだろう。おれはここから去ることに決めた。だけれども、一歩公園の外へ出て、なんの気なしに振り返ってみてぎょっとした。少年がじっとおれを見ている。その顔に木漏れ日が降りかかり、何やら輝かしいもののように感じられてしようがなかったから、おれは再びじめつく土を踏んだ。頭がくらんでいるのがわかった。

 近寄るとぼそぼそ喋る男の声が聞こえてきた。金をやるからそのスカートを脱いでよこせというような意味のことを言っていた。少年はそんなことにはまるで耳を貸さず、男の後ろに立つおれをただ見つめている。澄んだ目であるとだけ思った。おれは男に何かを言おうと口を開いたが、出てきたのは声でなく胃液にまみれた朝食の破片だった。肩から背にかけてそれを浴びた男はしばしあっけに取られたような顔をしていたものの、やがて我に返り、が、と喚き散らしながらどこかへ消えた。呆然として口元をぬぐうおれに、少年は手を叩いて笑い転げる。改めて向き直った彼はどことなくひずみのあるような姿をしていた。だぶついたシャツは痩せぎすの体を際立たせ、くたびれた襟ぐりからむき出しになっている鎖骨の凹凸が目を引く。スカートの裾からのぞいたくるぶしは白くまぶしく、不恰好なサンダルに付着した土の汚れが異様に見えた。

 ひとしきり笑ったのち、少年はブランコから降り、まだ甲高く透き通った声で言った。

「ありがと。おじさん」

 あの人いっつもここに来るんだ、とひとりごとのように続けて、彼はおれの顔をしげしげと眺める。静かな風が頰にかかったその髪を揺らす。

「うがい、したほうがいいよ」

 そう言いながら公園の隅の公衆トイレを指差す彼にはいくつもの木の葉の影が映っていた。その姿は大理石から作られた彫像のようでさえあった。

 この日以来、時折おれは彼と会うようになった。彼は近所のアパートに住んでいる小学生で、シャツは父親の、スカートは姉のお下がり、ゲーム機は友人からの借り物だそうだ。だって貧乏だからとわかっているふうな口をきき、自らを不幸せだと思っているそのあどけなさといったら。彼の不幸せとはそのまま貧乏であることを指しているらしく、金のあるところに不幸は存在しないというのがおそらくは彼にとっての真実であった。つまり、彼が思うところの不幸というのは、おれには幸福であるように見えたのだ。


 あるとき母が腰の骨を折った。その数日前の夕飯時、母が作ったほうれん草の小鉢が土の味で、もう目も相当に悪くなって茹でる前に充分土を洗い流せないのだろうと思い、それだからいつか怪我でもしてしまうんじゃないかと心配していたのだった。母が入院し父とおれだけになった家はひどく時間の進むのが遅い。窓を叩く真昼の日差しの煽りを受け、母が死んでしまったなら一体どうしたらいいだろうと考える。そうやってどれほど不安に駆られてみても陽はまるで沈もうとしない。そんな生活を何日か続けたある晩、とうとうおれは何をも耐えられないようになってしまって、台所の隅にうずくまった。油臭い埃の中、父に背をなでさすられながら、死にたいのだとそれだけ言った。恐ろしい、恐ろしくてたまらないのだ。このまま母が、そして父がいなくなったとき、おれはひとりきりになって、それでどうやって生きていけるというのか。そんなことを言うんじゃないと父はおれの肩を掴んで揺すぶった。換気扇の回る音が大きく聞こえていた。

 その翌日、二階の窓はどれも開かなくなり、それから家中の刃物がすべて見当たらなくなっていた。きっとどこかへ隠したのだろうが、探し出す気力などおれにはなかった。父はそれをわかっていたのだろう。包丁も何もないから飯はことごとく店屋物になった。ぬるい米を箸の先でつつきながら、死ぬなんて言わないでくれ、と懇願する父の指は震えていた。夕方になり、外で息を吸いたくなったおれが玄関に立つと、廊下の奥から「死なないだろうな」と訊く声がした。それはあまりにか細いものだった。すぐに帰ると言って俯いたまま家を出た。

 空は薄気味悪いほど橙一色に染まっている。からすが鳴く。おれは歩いた。どこへ向かうわけでもなく足を動かした。そうしていなければ体ごと地面に崩れて二度と起き上がることはできないような気がしていた。そのうちに少年の住むアパートの前へまで辿りついた。

 少年は妙にしなって赤いランドセルを背負い、アパートの外階段、その一番下の段に座り込んで何やら漫画を読んでいた。ちょうど邪魔くさい場所にいるから降りてくる住人が聞こえよがしに舌打ちをするのだけれども、彼はちっとも気に留めていないようだった。おれは立ち止まった。しばらくそうしていると、漫画に飽きたらしい彼がちらりと顔を上げ、そしてこちらに気づいた。どうしたの、と鈴を転がすような声が言った。おれはいっそすべて言い散らしてしまおうかとすら思ったのだ。おれの身に巣食うこのどうしようもないことのすべてを。しかし乾燥しきった口の端から漏れたのはたったの一言、つらいんだ、というそれだけだった。彼がどんな顔でその声を聞いたのか知らない。おれはずっと地面を見ていた。ぼろの靴で茂る雑草を踏みつけていた。そのまま少しの時間が経った。彼は唐突に「ちょっと待ってて」と言い残し、どこかへ駆けていった。視界の隅にスカートの裾が翻った。彼のいなくなった階段に、漫画とランドセルが放り出されていた。

 夕焼けがおれの首筋を舐めている。浅い呼吸を繰り返す。そうしながら、きっとおれは何もかも不向きなのだと思った。

 おじさん、と呼びかけられて俯くのをやめた。瞬間、強烈な違和感がおれをぶん殴ったようだったが、その感覚の正体を知るより早く、彼は皺だらけの汚い千円札を三枚おれに差し出してきた。なぜだかその手首のいやに細いのが目についた。大きな夕陽がおれたちを尻目にのろのろと沈んでいく。伸びきった電柱の影がおれにのしかかっている。ひとすじの西日が彼の瞳を射った。まぶしがって目を細めた表情はただ美しい微笑のようにしか見えなかった。そのときおれは気がついてしまった。うめくような声が出た。彼は、早く受け取れとでも言うかのように、わずかに得意げな雰囲気さえ漂わせて、おれに向かっていっそうのこと札びらを突きつける。からすが高い空で旋回し、おれを笑っている。ああ、。ふいに目のふちからどうともしがたい情動が流れ出す。街頭のスピーカーが音の割れた文部省唱歌を鳴らしている。不審そうな顔の彼に見つめられながら、おれはいつまでも、いつまでもしゃくり上げていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

まえぶれ クニシマ @yt66

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説