さそう

香久山 ゆみ

さそう

 突然の夕立に、咄嗟にバスに乗り込んだ。

 目的地などない。もともと当てもなく歩いていたのだから。何もない住宅街をふらふらと彷徨うように歩いていた。どれだけ歩いても景色は変わらない、どこへ続くのかも分からない一本道をただ真っ直ぐに進んでいた。

 バスに乗り込むや、瞬く間に雨脚は強くなり、窓の外はざあざあと激しい雨が煙る。

 バスは進む。私のほかに乗客はいない。こんなに激しい雨の中、皆どうしているのだろう。いや、こんな雨の街を彷徨する馬鹿は私くらいなのかもしれない。雨の檻に閉じ込められた車内はとても静かだ。雨音も窓ガラス一枚隔てただけで遠く感じる。

 雨は激しさを増すばかり。降りしきる雨が視界を遮る。窓の向こうの世界を真っ白に覆い尽くす。何も、見えない。白雨というと美しくも聞こえるが、要はゲリラ豪雨だ。静かで美しいと思っていた世界に、こんなに激しい雨が降るとは、私自身思ってもいなかった。

 むっとした湿度に髪がうねる。今日はいつものようにきっちりセットしていないから。あなたの髪は美しいストレートでいいねと言われるけれど、そうではないのだ。馬鹿みたいに時間と手間をかけてなんとか取り繕っている。いつも細かいことを気にして雁字搦め。びくびく怯えながら必死に日々をやり過ごす。誰からも傷つけられたくないし、傷つけたくない、それで結局何もできずにいる。生きるのに不器用なのだ。

 そんな私がついに生きる糧を見つけた。

 ただ、穏やかで美しい愛を手に入れたと思っていたのだ。ようやくめぐり会えた運命の人。互いに必要としあう、比翼の鳥。彼とならどこまでも行ける。そんな、夢みたいに美しいものを手に入れたと思っていたのに。そう思っていたのは私だけだったのか。彼はどう思っていたのだろうか。分からない。なにも、分からない。

 額を押し付けた窓ガラスを通じて水滴が頬を伝う。黒いワンピースの膝に小さなしみが落ちる。

 彼の妻だという人から呼出しを受けた。彼の携帯電話の履歴から私の存在を知ったという。激昂する彼女から得られた情報はそれだけだった。

 指示された彼の自宅を訪ねた。郊外の古い集合住宅の一室。パートタイムで働く妻と、幼い子供とともに生活している家。狭い部屋。通されたリビングから、台所まで筒抜けで、座った場所から流しの上に出しっ放しになっている切りかけの人参が乗ったまな板まで見える。少し錆の出た包丁。彼がこれまで私にしてくれた話は嘘ばかりだった。同席した彼は私のことなど知らないと言った。彼の方から私を誘うなどありえないと。目さえ合わせてくれなかった。私も、こんな男なんて知らない。こんな。けれど、奥さんは私をけっして許さないという。思えば、その時から夕立の気配はあったのだ。息苦しかった、とても。

 さすがにのこのこ白い服を着ていこうとは思わなかったけれど、黒い服にしてよかった。白雨がすべてを包み隠すように、黒い服はどろどろした汚れをうまく隠してくれた。ざあざあ、降りしきる雨はすべてを掻き消してくれる。人影も、声も匂いも、なにもかもの痕跡を。

 彼の家を出て、もうすべて嫌になって、終わらせてしまおうとふらふら歩いていたところを、このバスに拾われたのだ。彼は私を追いかけてもこなかった。

 このバスはどこへ行くのだろうか、それとも循環バスなのだろうか、分からない。そもそもこんな前も見えぬ雨の中、運転手がバスを走らせていることすら不思議な気がする。バスの止め方など知らない。だから、私はどこまでも行く。差す傘もない。

 窓の外の雨はまだまだやむ気配もない。

 ワンピースの腹から黒いしみは広がる。この期に及んで彼のことを思い出す。私は大馬鹿だ。いたい、いたい。スカートの裾をぎゅっと握りしめて堪える。雨がすべてを洗い流す。このまま消えてしまえばいい。

 夕立だからじきに収まると思っていた雨はまだまだ降り続ける。本来ならこの時間には、血のように真っ赤な夕陽が一面を染めただろう。しかし、白い世界はそのまま、太陽の気配を微塵も感じさせずに、徐々に薄暗く幕を下ろしていく。

 それでいい。

 私は窓ガラスに額を当てたまま、少し眠ることにした。今だけは白い世界に守られながら。――もう目覚めなくたっていい。


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さそう 香久山 ゆみ @kaguyamayumi

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