第3話 蝉と柚と響く音。

 蝉が五月蝿い、8月末のテスト期間。

 自宅でないのをいいことに、昨今値上げ甚だしいと世間を騒がす光熱費なんて全く気にかけず冷房をガンガンに効かせた空き教室に集う少女が3人いた。


「ゆづぅ、なんでそんな塩なのぉ。いいじゃんか偶にはもっと甘々な対応してくれたって!」

「そっちこそ、なんであんたはそんな暑苦しいの?」


 シッシッと抱きついてくる友人を追い払うゆづかはしかし、満更でもなさそうな顔をしていた。じゃれ合う2人を高みの見物と決め込むもう1人は、持ち寄ったスナックをこれ幸いとばかりに口に詰め込んでいる。

 勉強会とは名ばかりの、たわい無い集いをテストの度に繰り返すような日常がもうすぐ終わりを告げるなぞ、誰が予感していただろうか。

 無慈悲に迫り来るテストと、テスト明けの夢の国と、部活の本番と、親や教師からせっつかれる進路希望調査と。それらが彼女らの世界の全てだった。その時までは。

 さぁっ、とクリーム色の古びたカーテンが揺れたが、冷房をつけた時部屋の窓を閉めたことを、誰も思い出しはしなかった。だから、気が付かなかったのだ。その違和感に。

 だから延々と茶番と勉強とを繰り返す夏の午後を打ち破ったのは、トンっと鳴った固く軽やかな足音だった。3人しかいない教室で響いた異質な物音に驚き、一斉に窓の方を振り向く。

 そこにいたのは一人の少女だった。ゆづか達と同じくらいの年頃の、長い黒髪の美少女。陶器のように白い肌は滑らかで、小作りな顔が淡く美しい輪郭を描いている。

 その儚さに2人はすっかり見蕩れているというのに、その子が口を利くのも待たずにゆづかは冷たく言い放った。

 だってあの子に、あまりにも似ていたから。


「すみません、今ちょっと.......都合が悪くて。」


 こてん。少女が小首を傾げる。ゆっくりと、飴のようにつやつやした桜色の唇が開いて空気に振動を起こす。


「あなたが、ゆづかさん?」


 人工の冷気に溶けて消えてしまいそうな程柔く脆い脆い雰囲気に反し、存外芯の通った、低く耳に心地よい声音だった。その微かな吐息に黒髪がふわりと揺れて、目を奪われそうになる。

 釘付けになりそうな視線を無理やり逸らし、 強ばって動かない口角を何とか持ちあげて返事をした。


「そうだけど。なにか私に、用事ですか?」


「じゃあ、ちょっと話があるから。着いてきて。シオンのことよ。そこのお二人さん、ちょっとこの子、借りてくわ。」


 ちょっと偉そうな口ぶりで、呆然とする友人にそう告げた少女に向かってゆづかはすげなく言葉を吐いた。


「私は貴女とは関わりません。シオンとも。」


 これだけはっきり言えば相手は引き下がる。そう読んで言った言葉なのに、その後の少女の行動はゆづかの予想を裏切った。

 細い指先がすっと伸びてきて、やおらに耳に顔を寄せられる。少女の長い髪がそっと頬を撫でた時、微かに甘い匂いがした。


「……」

「……!」


 その一言を聞いて、ゆづかは頷いた。否、頷くしか無かった。


「ごめん、勉強会はまた今度。」


 可哀想に、何が何だか分からず棒立ちの2人に呼びかけたのを見届けるや否や、唖然とする彼女らを置きざりに少女はゆづかの手を引いた。向かい合って互いの両手を握りしめ、二階の窓から──────




 飛び降りた。




 全身に大きな衝撃がかかる。

 怪我をしないよう、何かしら仕掛けてあるものだとばかり思い込んでいたがそうでも無かったらしい。丁度真下にあるユズの木に真っ直ぐ飛び込んだ奇妙な2人の姿と来たら、全くもって無様な物だった。ずるずると木から降り、とりあえず近くて殆ど人の来ない放送室に少女を引きずり込んだ。部外者は来ない上、万年放送委員のゆづかにとっては最高に居心地の良いサンクチュアリである。髪や制服に大量についた葉に顔を顰め、せっせと手で払いながら口を開いた。


「で、どういうことですか? シオンが消えた、って。」


「文字通りだけど。シオンが消えた。先週の金曜日からだから、丁度3週間かな。あちこち探し回ったのに見つからない。最後の手がかりが君だ。」


 先程までのいかにもお嬢様然とした雰囲気とは打って変わった、無愛想な声が淡々と事実を告げる。


「貴女はきっと知らないのだろうけれど、私とシオンは何年も会ってないから。学校も連絡先も友人関係も家族も親戚も何も知らない。申し訳ないけど、協力は出来ません。」


「……シオンが。君の事を口にしたのは私ににだけだ。直接聞いたわけじゃない、けど。預かったんだ、日記を。それで、その、私がいなくなったら読んでもいいよって言われて、冗談だと思ったのに、居なくなって。そこに、書いてあった。」


 要領を得ない言葉に募る苛立ちを必死に抑える。さっきまで偉そうに必要最低限の要件だけしか言わなかった癖に、急に焦り出されては堪ったものでは無い。


「……何が書いてあったの。」


 今の人生に、シオンは1ミリの関係もない。それなのに、何故こんなにもシオンのことを気にしているんだろう。


「私はシオンの……妹だ。3週間前の水曜日に日記を渡された。私が居なくなったら読んでね、他の人には見せちゃダメだよ、なんて急に言い出したから笑って受け取った。今思えば日記なんて人に預けるはずがないのに。」


 投げかけた疑問は完全にスルーされたが、少女が急に居住まいを正したのでとりあえず続きを聞くことにした。かいつまめばこういう事らしい。


 シオンは3週間前の水曜日、妹に日記を預けた。金曜日から3日間部活の合宿に行く事になっていたのに、月曜になってもシオンは帰ってこなかった。妹がシオンの友人に連絡すると、体調不良で合宿には来ていないと言われた。学校、警察、友人総出で探しても見つからない。


「親御さんは?私の事知ってる.......んですか?」

「……さっき言った通り、ユヅカの事は私しか知らない。シオンが話してたってのもあり得ない。当時両親は家にいなかったし、成長してからもそんな打ち明け話するような仲じゃなかった。」

「家出、とかは?」

「否定はできないよ。私はシオンに友達が出来た、って事だけは聞いたことがあった。それ以上は知らなかったんだ。日記にユヅカと出会った場所、名前、大体の時期は記してあったから、君の事はそこからつきとめた。私に日記を預けた前日の日付で、回想みたいに書いてあったんだ。」

「貴女は私とシオンの間に何があったか、何も知らないって事ですよね。」

「……何があったかは知らない、何かがあったのは知ってるよ。

 .......でも、何年も時間が経ってから態君のことを日記に書いたんだ。だから、何かしらの形で記憶に残したい存在だったんだ、って思った。」


「そう。」


 気まずい沈黙が流れた。


「……お願いします。」


 恐らく放送室が出来て以来、1度も洗われたことのない埃塗れの防音カーペット。薄汚い灰色の床に額をつけ、彼女は消え入りそうな声で言った。

 ここまで言われて無下にするのも何だか後味が悪い。


「1週間だけ、なら。」


 出来ればシオンのことなんて考えたくない。でも、この出来事を無視してしまったらとてつもなく後悔するような気がした。


「本当に!?ありがとうございます!」


 ぱっと顔を上げ目を輝かせた少女に苦笑いを浮かべながら尋ねる。


「私は、何をすれば良いですか。」

「そうですね。まずは、私と一緒に来てください。あ、敬語じゃなくていいですよ。」


 急にガラリと変わった口調に戸惑う。


「口調不安定過ぎない?」

「協力して頂くからには、ちゃんとしなきゃな、と。」

「素で良いのに。」


 思わずちょっと笑いながら、そう言ってしまった。


「じゃあ、僕に着いてきてよ。」


 悪戯っぽく笑って手を差し出した美少女は、まるで漫画のイケメンキャラみたいに格好良かった。そっと手を預けると、意外にも彼女の手はその華奢な見た目に反してしっかりした厚みがある。青白く冷たい指先の癖に、頼りがいのある手。ちょっとたじろぎながら、今更な質問を投げかける。


「貴女の名前は?」

「ミオト。」

「ミオト。よろしくね。」


 長い旅路の、始まりだった。

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夢見花 残月 花梨 @Elman

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