第2話 プロローグ~春は桜を散らさなかった?~

 道を曲がった先に、恐る恐る目を向ける。 真っ直ぐな並木道の先に見えたのは色のくすんだ看板だった。

 両目とも視力は2.0とかなり自信があったのだが、なんと書いてあるのかまでは読み取れない。青々と葉の茂るその通りはレンガ通りになっていて、自転車を漕ぐとカタカタ音が鳴った。ベッタリまとわりついたTシャツと肌との隙間に風が入ってきて涼しい。首筋の汗が冷えて、体をぶるっと震わせた。


 暫し漕ぎ続けた自転車を半ば乗り捨てるように勢いをつけて飛び降り、看板を見上げる。元は鮮やかな縞模様をしていたらしいゲートの上にデカデカと掲げられたそれは英語で書かれていて、ローマ字を習いたての自分にはなんと書いてあるのやらさっぱりだった。頭を絞りに絞った挙句、何たらパークと書いてあるのだろうと結論づけた。随分寂れた遊園地のように見えたが、誰でも入れるようになっているから公園なのかもしれない。

 名前の分からない、どこの公園にでもあるようなバネの上にパンダだのライオンだのがくっ付いていて上に座れるあの遊具が目に付いた。公園なんて来たのは久しぶりだったから、ちょっと気になって腰を下ろしてみる。ちょうどパンダの目線の先は石畳の広場のようになっていて、ちょっとおしゃれな形のベンチが3つ、背中合わせに並んでいた。

 パラソルをかたどっているのか、キノコみたいな形の屋根が真ん中にでんと据えられていた。暫くパンダを揺らしながら辺りを見回していてハッとした。


 あんなに暑かったのが信じられないほどに、心地よい空間なのだ。7月特有の湿った空気、あの夏休みが近づいているのを予感させる空気ではなかった。然し多少の違和感こそあれど、落ち着かない感じはしない。寧ろとても居心地の良い場所だ、とさえ思った。


 するりとパンダから降りて、あちこち歩き回ってみる。ゲートの方を振り返れば虹がかかっていた。


 ゲートに背を向け、古びたテーマパークを更に奥へと進んでいく。

 何かの街並みを再現しているのだろうか。ビル、と言うよりは洋風のアパートメントみたいな建物が2、3件並んでいた。窓がなかったりドアが壊れていたりする。元は小洒落たデザインだったのだろうがベランダの柵は脆く錆び付いていて、身体を預けたらすぐにでも折れてしまいそうに見える。

 どこもかしこも古くてボロボロで、真っ暗になったらお化け屋敷に打って付けの場所かもしれない。それなのに、何故だか去年建て替えられたばかりの学校よりもずっと居心地のよい場所に思えた。窓枠にはガラスの代わりに大きな蜘蛛の巣がかかっていた。自分が歩く度、ちらちらとプリズムみたいに色んな色を反射するのがとても綺麗だと思った。もっと近くで見よう。そう思って建物に近づく。そうしてじっと白い放射状の糸を見つめていたときだった。


 ギギィ。


 と、耳触りな音がした。


 顔をしかめて音の方を振り向く。


 半開きになったドアに重たく絡んだツタの隙間からのぞく赤茶けた金属は、元が何色だったのかなんて全く分からない。と、中から人影が飛び出してきた。


 その子に、思わず見とれてしまった。


 サラサラの、耳にかかる真っ黒な髪。青く見える程澄んだ、やはり真っ黒な瞳。膝からショートパンツにかけての肌は陶器みたいに滑らかで白い。私でも知っている位有名なブランドのポロシャツを着ていた。迷彩柄が、蔦だらけの背景に溶け込んでいる。半ば睨みつけるようにキリリとつり上がった目の真下に、派手な傷跡があった。


 しばらく野生動物みたいに互いの目を見つめ合う。雨樋を伝う水音だけが、高く響いていた。乾き始めた瞳が瞬きを欲している。瞼がしばしばし始めた頃。

 すっ、と目を逸らして、その子はやっと口を開いた。


「君は、なんでここにいるの。」

「気になったから。無い道が、あって。」

「そう。」


 拙い言葉に、涼やかな声が応える。


「君は。……可愛いね。」


 初対面の、名前も知らない子にそう言われて戸惑った。自分が可愛いかどうかなんて知らない。ただ自分の容姿が嫌いであることは確かだった。昔から、母にも親戚にも可愛くない、愛想がないと言われていた。


「お前は本当に愛想が無い。」


 母はいつだってそう言って、せめて可愛く見えるようにと私の服や髪に気を遣った。一方で大して仲がいい訳でもない同級生達には可愛いね、羨ましいな、口々にそう言われた。


 自分ではどうでもよかった。だって、私は私が嫌いだから。


 でも不思議と、目の前のこの子に言われた「可愛い」

 は抵抗なく私の中に入ってきた。


「名前、なんて言うの。」


 初めて自分から、他人の名前を聞いた。


「シオン。」


 友達になろう、なんて台詞はちょっとダサい。そのまままた、黙り込んだ。


「……君の、名前は?」


 あぁそうか。自分はまだ名乗っていなかった。


「ゆづか。」

「ゆづか。なんて書くの。」

「結ぶに、月に、歌。」

「へえ。変わった名前だね。 君は、ひとり?」


 名前を聞いてきたくせに、二人称で指された私は笑って答えた。


「ユーレイ位なら、傍に居るかもね。」

「あぁ、いるよね。横に。ユーレイってか、守護霊?的な?」


 無表情でそんな事を告げられても、冗談なのか本気なのかさっぱりだった。


「霊感とかないから、いてもいなくても私からしたら同じだけどね。」

「そう?見えなくともそこに居れば少なからず君に影響を及ぼすし、声を伝える人が君の周りに居れば意図的に君の行動を変えることだってあるかもしれないよ。」


 あなたの言うことは難しくてよく分からない、と言うのはなんだか悔しかった。でも祖父母や両親、姉の会話のようにただ偉ぶって小難しいんじゃなくて、面白い。そう思った。


「君は。」

「あぁ、シオンでいいよ。」

「シオンは、いくつ?」


 私と、同い歳だった。


「ねぇ、あそぼうよ。いっしょに。」


 まるでずっと歳上の人みたいに大人びた喋り方をするシオンからのお誘いは、自分達の年相応な簡単なものだった。他人と遊ぶのは苦手だ。でもシオンとなら、悪くないかもしれない。


「いいよ。」


 愛想良くニコッと笑うなんてことは、私もシオンもしなかった。ただのろのろと差し出された白い手に導かれるまま、ふらりと建物の中へ吸い込まれた。


「君……。ゆづかは、ここに来たことがある?」

「無い。」

「そう。僕は、1週間くらいかな。」

「初めてここに来てから?」

「うん。……道には、気づいてたんだ。もっと、ずっと、前から。ひと月とか。」


 道を見つけたの自体がさっき初めてだったと話すと、シオンはその切れ長の目を大きく見開いた。どうやら、得体の知れない道に躊躇なく(私としては多少の迷いはあったのだが)飛び込んだことに驚きを隠せなかったらしい。互いに交わした言葉数は少なかったが、会話が弾むってこういうことか、とぼんやり思った。


 2人で駄弁りながら、風の吹き込む建物内を歩き回る。ゆっくりと外階段をのぼり、ベランダからまた中に入る。硝子の無いそこは濃緑の葉に覆われ、床一面が苔におおわれていた。冷たい水滴が足をくすぐる。キラキラと光が反射して、不思議な場所だった。コンクリートが打ちっぱなしの空間を、風がさぁっと通り抜ける。シオンの黒くサラサラとした髪が舞った。


 元はなんの場所だったのか、壁のないその場所の真ん中には扉があった。壁がない、と言うのは違うかもしれない。煉瓦造りの壁らしきものがぽんと置いてあるのだ。多分、扉を支える為の。部屋の真ん中にあるのだから、別に扉を通ったところで別の場所に行ける訳では無い。


 ただ手持ち無沙汰に、2人でそのドアを押した。目をつぶって、冗談混じりに一歩踏みだす。


 においが、変わった。はるの香り。生暖かくて、でも風がつめたくて、不安と期待とがない混ぜになったみたいなあの空気。目をあけて、ぽかんとしてしまった。


 濃淡様々な、やわらかいさくらいろが刹那に目に焼き付いた。


 儚く淡い空気を孕んで、吹雪が無数に吹き付けてくる。近所の川沿いの桜並木でも、学校の校庭でも、家族で行った大きな公園でも、こんなに立派なさくらは見たことが無い。


 ガッチャン、と重たい音を立てて背中でドアが閉まった。ハッとして振り返れば錆びた鉄のドアは消えていて、ぐるりとこの空間を囲う白い壁には小ぶりな木製のドアがひっそりと佇んでいた。


 夢かも。


 口に出さなかったはずのその言葉が、傍らで聞こえた 。ニヤリと悪戯っぽく笑ったシオンが囁く。


 ユヅカも今、そう思ったでしょ?


 はなびらは上から下へ、下から上へ、うずを巻いたかと思えばあめのように降ってくる。ときの流れも重力も無視して縦横無尽に舞うそれに魅せられて、気が抜けたように座り込んだ。心を奪われ、まるで魂を引き抜かれたかのように惚ける。

 放心状態でいつまでも動かないユヅカを現実に引き戻したのは、シオンのつぶやきだった。


 帰んなきゃ。


 ここにいる間は時間なんて気にしなくていい、と思っていたのに。首を傾げるユヅカに、シオンは言った。


 2時間だけ。ね。それを超えると、戻った時に時間が元の速さで流れてる。



 よく分からないままに差し出された手を握ると、いつの間に再び現れたのやら、さっきのあのドアの向こうへ引っ張られた。


 一言言おうと口を開きかけて、気がついた。


 目の前には自転車が転がっていて、自分はほとんど人の通らないあの十字路に立っていた。空はさっきよりも朱く、影は斜めに伸びている。

 時計の針は丁度半周進んでいた。

 それを見て、妙に納得しする。さっきよりひとつ減った道を見つめ、自転車を押してのんびり歩いた。

お母さん、心配してるかな。きっと怒られる。頭では分かっていたけれど、その現実はどこか遠い出来事にしか思えなかった。

いつもの自分なら、今頃心臓をギュッと握り締めたみたいに苦しくて、指先と足が冷えきって、嫌な汗をかいて罪悪感に耐えていただろう。それが果たして罪悪感なのかは置いておいたとして。

ただ、今日のこの出会いはずっと胸にしまっておこうと思った。忘れたくない。わすれられない。だけど、だれかに話してしまえばこの思い出は消えてしまうんじゃないか。そんな気がした。


真逆シオンとまた逢う日があろうとは、ましてやずっとずっと先の未来でシオンと自分の未来が交錯しようとは思いも寄らぬ幼き日の、古くて遠い、褪せない記憶。

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