夢見花

残月 花梨

第1話 エピローグ~ひとりきりの冒険~

 ふるいふるい記憶。

 辺り一面を包み込む淡いピンクに、耳も鼻も肌も目も全てを奪われた。


 仲のいい友達なんていなかった私。特段寂しいと思ったことは無かった。ひとりは心地良い。


 ある夏のこと。当然のようにひとりの帰り道、私は いつもと景色が違うことに気がついた。ちゃんと周りを見ていたつもりだったけれど、途中で本の続きが気になって読んでたからな。


(道間違えたかも。)


 そう思った。思い込もうとした。

 でも何度目をこすっても、道を間違えた訳では無いことは明らかだった。昨日までと同じように、右手には赤い屋根の家。広々した芝生の庭では、つややかな黒い毛並みの犬が昼寝していた。暑くないんだろうか。左手は似たような形の家が立ち並ぶまだ新しい住宅街で、道の先にガソリンスタンドがあって。

 違和感があるのはただ1箇所、道路が目の前の十字路から1本余分に分岐していることだけだった。斜めに伸びるその道は細く見覚えのないものなのに、じゃあ以前はどうなっていたかと自分に問うても思い出せない。


(早く帰らなくっちゃ。)


 そんな事は分かっていた。毎週火曜日はピアノの日だった。後ろ髪を引かれる思いでえいやっ、と道を左に曲がった。家へ向かう、通い慣れた道。腕に抱え込んだお気に入りのファンタジー小説の事なんて頭から抜け落ちるくらい、気になって気になって仕方がない。家の鍵をランドセルから引っ張り出している間も、手を洗っても、冷蔵庫に入っていた好物のワッフルをかじっている間も、あの道の事を考え続けていた。トートバッグに楽譜を入れて自転車にまたがる。そこで心を決めた。教室とは反対方向へ進む。


(あった。あの道。)


 習い事をサボるなんて初めての事だ。バクバクと煩い心臓を抑え、自転車から降りる。風邪で鼻水が止まらなかったときも、微熱で早退したときもピアノ教室は休まなかった。それくらい、毎週火曜日にあそこへ行くのは私にとって何の疑いもなく習慣化した出来事で。行かない、という選択肢が生じたのはこれが初めてだった。

 その当然行くべき場所へ行かず、怪しげな道を進もうとする自分をどこか信じられない気持ちで見つめているような気がした。

 ハンドルを固く握り直す。汗ばんだ手がぬるっと滑って気持ち悪い。Tシャツの裾で手を拭き、更に力を込めて自転車を掴んだ。太ももにグッと力を込めて、1歩漕ぎ出す。


 しばらくうねうねとしたコンクリートの道が続いた。道端には背の高い雑草が茂っていて、ムワッとした青臭い匂いにむせかえる。濃い入道雲が空を覆っていた。目を凝らしてみれば、奥に曲がり角があるらしい。ポツンと立った真っ赤なポストが目に鮮やかだった。髪も首も汗でじっとりと濡れている。気持ち悪いや、なんて思い始めた頃、何気なく左腕を見てびっくりした。

 突き当たりまで行ったら引き返すつもりで自転車を押していた、のに。

 誕生日に貰った、シリコン製の腕時計。針のデザインが可愛くて気に入っていた。

 チックタック、チックタック。

 デジタル時計を持っている同級生も多かったけれど、微かに音を鳴らすアナログの時計の方が好きだから敢えてこれにしてもらったのだ。ところが。


 その先の丸っこい時計の針が、殆ど動いていなかった。ただ秒針だけがのろのろと、然し恐ろしく滑らかに、音もなく回っていた。秒針が止まっていれば時計が電池切れになったのだと思っただろう。

 でももしかして。


(この道に入ってから、時間の流れが遅くなっている?)


 そんな非現実的な考えが私の脳裏を掠めた。だけどこの道だってそもそも常識的な存在では有り得ないのだ。


(それなら、もう少しだけ。ほんとに、少しだけ。

 奥へ行ってみても、良いかな。)


 魅入られたようにふらりふらりと彷徨う私はまだ知らなかった。

 その日の出会いが私の全てを変えてしまうことを。


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