Day14 幽暗
伸びていた。ベッドの上にすら辿り着けず、冷たい床の上に伸びていた。額にぴっとりと触れる床の感触が気持ちいい。……よくはないか。
「……はぁ……」
ため息を吐くと、途端に反省の気持ちが溢れ出す。どうしてあんなことをしてしまったのだろう。
瞼を瞑ると、目を丸くして口をへの字に曲げて怪訝そうな表情をしているハコの顔や、少し怯えたように私から目を逸らすナズナちゃんの顔を思い出してしまう。
そんな顔しないでよ……と思っても、実際そんな顔をさせてしまったのは私の方なので、言い訳のしようもないのだ。
「ツィルミィィィィ!!」
その男の顔を見た瞬間だった。
何か、形容しがたい感情が私の内側で溢れた。心臓が血の代わりに、黒い炎を吹かしたかのようだった。怒り、憎しみ、きっとそういうもの。
安らかな生活。幸せな生活。そんなもので満たされながら平和に生きてきた私が、知るはずもなかったそういう感情。私の裡にある黒い手が、そっとそれらの材料を組み立てて、さあって胸の中に燃料として押し込んだ。
それらが溢れて止まらなかった。
ハコが先にギョッとしたように振り返り、その後ナズナちゃんが「え?」と疑問符を浮かべながら振り向いた。けれど二人とも私を止められなかった。私はバスを逆走し、そこにまだ立っていたその男の顔を、殴った。
「えっ⁉ シロ⁉」
慌てながらもハコが反応できたのは正直凄いと思った。だって私自身何が起きているのか把握できていなかったし、殴った拳も痛かったし。ハァハァと息は切れて、衝動のあまり体はぶるぶる震えていたし。
殴るという機能を始めて使った。この体に、そんなことが出来るなんて考えたこともなかった。この腕はバネのように弾んで、振りかぶるということが出来るのだと初めて知った。この手は物を持ったり運んだりする以外のことも出来るのだと、初めて知った。
……私は他人を傷つけられるということを、初めて知った。
男は、殴られた顎をさすってはいたけれど、それ以上の反応は示さなかった。ただ、小さく微笑んだ。
私は喉の奥まで出かかっていた言葉を呑み込んだ。その笑顔を、怖いと思って冷や汗をかいた。
「よかった、君の方から気づいてくれて」
男は深く刻まれた皺をほんの少しねじる程度の、ささやかな笑みを浮かべたまま、しかし私をじっと見つめて離さない。
囚われれば深く沈んでいきそうな二つの目が、私を。
「この後、時間ある?」
――私は、その場から逃げ出した。
バスを駆け下りて、ハコが入り口に立って私の背中に向かって何か叫んでいるのも聞かずに、半ば走って、けれどすぐ疲れて後はひたすら歩きながら、家まで帰った。
人の肌と肌が触れ合うことは、本当はもっと柔らかな感覚だった。ナズナちゃんと手を繋いだり、ハコとハイタッチをしたり。そういう風にしか、この掌は使ったことがなかった。
ズキズキと火傷をしたように、ずっと痛む拳を引き摺って、道行く人から目を逸らしながら、両脚を機械的に動かした。
あれ程までに燃え上がっていた感情。怒りや憎しみも、とっくに消え失せていて、今は呆然とした穴のような胸の中の虚無と、それをおっかなびっくり見下ろす自我だけが残されている。
薄暗い幽暗に怯えるように、自分自身に怯えている。
「…………はぁ」
何度目かもわからない溜息を吐いて、ごろんと寝返りを打った。
普段であれば、食事は摂らなくていいのかとか、映像作品でも観ませんかとか、何か気の晴れることを提案しようとするAIも、今日はやけに静かだ。
目を開けると、薄青い夕暮れが部屋の中に広がっていた。いっそこのまま眠ってしまおうかな、と思っていた時、
ピンポーン。
と、来客を知らせるベルが鳴った。
輪廻転生ノスタルジア 鳥ヰヤキ @toriy_yaki
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