今夜、星を見よう

金糸雀

今夜、星を見よう

 彼女と初めて会ったのは、『星を見る会』という天文サークルの、新歓コンパの席だった。僕は理学部、彼女は文学部だったから、たとえば「たまたま同じ講義を取っていた」という理由で知り合うことはまずなかっただろう。


 僕はその頃、新歓コンパ荒らしをしていた。どのサークルにもさして興味を惹かれないくせに、さも入会しようかどうか迷っているような顔をして、あちこちのサークルの新歓コンパに出て、タダ飯タダ酒をご馳走になる。その後は勿論、二度と関わらない。

 新歓コンパはとにかく大勢新入生が来れば盛り上がるんだから、サークル側も僕みたいのが一人二人紛れてたって別に構わないだろう。そんなふうに考えていた僕に、罪悪感なんて微塵もなかったし、『星を見る会』にだって、本当は関わるつもりなどなかったのだが。


 有り体にいうと、同じ新入生として出会った彼女――有川翠ありかわみどり――に一目惚れしてしまったのだ。



 本来新入生の女の子は男の先輩どもに囲まれて、僕なんかのところには来ないはずだが、彼女は違っていて、タダで飲みたいだけで『星を見る会』にも別に深入りするつもりはなかった僕が目立たない隅っこに陣取ると、「隣、いい?」と声を掛けてきて、僕の返事も待たずに僕の左隣にスッと座った。


 僕は、自分の隣に女子が来るなんて思ってなくて、先に簡単な自己紹介をしてくれた彼女に、しどろもどろで返事をした。


 翠は、色素が薄い、赤みがかった茶色の髪を耳に掛けていた。長さは、肩をちょっと越えるくらい。耳には、名前と同じ緑色のシンプルなピアスが光っていた。

 翠がこちらを見た時、なるほど赤フレームの眼鏡が似合うのってこういう人なのか、と納得した。同じ眼鏡キャラでも、一頃流行った言葉でいうなら所謂いわゆるチー牛の僕とはえらい違いだ。彼女はとびきりの美人というわけではなかったけれど、なんというか――目が、とても綺麗だった。   

 髪と同じように色素が薄い茶色の瞳。ほどよい長さで存在を主張する睫毛。自然だけれどくっきりした二重瞼。アイシャドウを控えめに乗せているのだろう、彼女の顔の小さな動きに合わせて、ラメがきらきらと光った。


 「岡田くんはどうしてこのサークルに入ろうと思ったの?」

 と翠が訊いてきた時、僕は正直なんにも考えてなかった、というか『星を見る会』に入ろうと思ってもいなかったのだけど、とりあえずの生ビールの後にサワーを二杯ほど開けて、いい感じにアルコールが回っていたから、とりあえず勢いで答えた。なんと言ったかは覚えていない。だけど、彼女が言ったことは覚えている。


 「人の世界では十年違えばもう『昔』だけど、星の一生でいえば五年や十年、誤差でしょう。もうすぐ起こる、の『もうすぐ』が何百年何千年先だったりする。

 だからよっぽど運がよくないとタイミング合わないって、わかってはいるんだけど。

 それでも、私が大学にいる間に超新星爆発みたいなすごいイベントが見れたらいいなぁって」


 ちょうどその時、僕以上に出来上がった先輩が乱入してきて、

 「そんな君に朗報! しし座流星群の大出現、そろそろなんだよ。君、タイミングいいねぇ」

なんてことを言い出したから、話題は流星群のことに移ってしまい、僕はその日はもう、翠と二人きりでゆっくり話すことはできなくなってしまったけれど、彼女と一緒に流星群を眺めるのも悪くないかも、と思って、深入りするつもりがなかったはずの『星を見る会』に入会してしまったのだった。



 『星を見る会』の活動時間は主に夜だ。部室はサークル棟の最上階にあり、大学側から、特別に屋根に登って星を見ることを許可されていた。屋根に登るルートの詳細はとっくに忘れたが、落ちそうで怖い箇所があったような気はする。先輩たちは酔っていても、時には小口径の望遠鏡をお供に、屋根に登っていた。

 昼間の部室は弛緩した雰囲気で、空きコマの時間潰しをしにくる人がまばらにいるくらい。翠がたまたま居合わせた時だけはとても嬉しくて、たとえば第二外国語の話とか、数少ない共通の話題を持ち出して細々ほそぼそと会話をした。先輩が横から最低限ここは押さえとけ的なことを教えてくれるのを、有り難く拝聴したりもした。


 しかし、翠と一緒に部室で過ごせたのは、六月末までだった。彼女はぱたりと部室に顔を出さなくなったのだ。

 


 先輩に訊いたら、病気で休んでいるらしいということはわかった。でも、先輩も詳細はわからなくて、入院はしてないということは知っている、その程度だった。サークルに所属している以上、住所録に翠の住所だって載っているから、お見舞いに行くことはできそうだった。確か翠は自宅生で、家まで行くのにそんなに時間は掛からないはず。だから先輩にお見舞いの話を振ってみたのだが、「あんまり来てほしくなさそうだったから、やめとけ」と言われてしまい、僕は引き下がった。翠にも翠の家族にも、嫌われたくなかったからだ。

 

 翠は、翌年のしし座流星群の大出現の時も休んでいた。僕は先輩からコツを教わりながら、流星群の写真をたくさん撮った。せめて翠に、写真で見せてやりたかったから。


 翠が部室に姿を現したのは、その翌月のことだった。

 髪は背中辺りまで伸びていたが、それ以外に変わったところは見受けられなかった。随分長く休んだ後だから、やつれているかと思ったのだが。

 その時はたまたま僕だけが部室にいたから、その場で彼女と存分に話ができた。


 「私、何歳に見える?」

 「……い、いやぁ僕、そういうのよくわからなくて」


 わからないのは『何歳に見えるか』ではなく、こういう時のは何かということ。翠は確かに雰囲気が大人びていて、二つ三つ歳上だったとしても別に驚かないが、それをそのまま言ってもよいのかどうか。だから、曖昧に誤魔化した。


 果たして彼女は――

 「私、来月誕生日が来たら、二十六になるの」

 と言った。


 思いの外歳上だったのでなんと言葉を掛けてよいか躊躇する僕に、「岡田くんにだけ話すね」と前置きして彼女は語った。


 「私は眠り病で、何ヶ月とか、長い時には一年二年、眠り続けてしまうの。そんなだから勉強とか遅れに遅れて、大学に入った時はもう二十四だった。

 学生の時って一年二年の違いだって大きいのに、私なんて現役で入った子より六つも上。先輩たちだって、多浪多留じゃない限り、私より歳は下。

 眠り病、大学に入ったら大丈夫にならないかなぁと思ったらそんなことなかった。一年の六月までしか来れてないから、取得単位はゼロ。来年は、一年生として復学することになる。

 こんなだから私、同い年の友達っていないんだ。仲がよかった子だって、私が眠ってる間に離れて行っちゃう。まぁ――仕方がないんだけどね」


 そう言って寂しげな笑みを浮かべる彼女に向かって

 「僕は離れたりしないよ。だから安心して」 

 と受け合ってしまったのは、惚れた弱みというやつのせいだろう。多分。

 決して安い同情では、ないはず。



 三年目だけど一年として復学した翠は、部室にも顔を出しづらいと言ったが僕が誘って、大丈夫だからと励まして一緒に部室で過ごした。彼女が休んでいた間は僕も部室から足が遠のきがちだったから、周りから見るとわかりやすかったのだろう。先輩や同期の中には僕ら二人を微笑ましいものを見る目で見たり、からかってくるようなのもいたが、僕は別に気にしなかった。

 その年のしし座流星群の大出現は、前の年とは比較にならないほどの凄まじい規模だった。僕たちはこの年も前年同様、何台かの車に分乗して富士山五合目まで観測に行ったが、そこらへんの街中でも、空を見上げさえすれば十個や二十個、流星を見ることはできたはずだ。


 流星がひっきりなしに夜空を横切るさまを翠と二人、その目に焼き付けたかったから、僕は写真係を外れて、翠と手を繋いで空を見上げた。


 「せっかくだから願い事を言うね。

 眠り病が治りますように。治りますように。

 ……治りますようにっ!」

 

 翠は流れ星に合わせて願い事を何度も繰り返した。

 その声はだんだん真剣味を帯びて行き、仕舞いには切実な叫び声になっていた。



 しかし、星に願ったって叶うわけもなく。

 彼女はその二ヶ月後、誕生日を迎えてまた一つ歳を重ねた直後に、また眠りについた。


 普段は一度長い眠りから覚めると、半年から三年くらいはなんでもない時期が続くが、その時は眠りと眠りのスパンが短かった。この頃にはもう、翠の家族とも引き合わされた後だったから、これまでの経過を聞くこともできたのだった。

 その時の眠りは三ヶ月で済んだが、如何せん時期が悪く、後期の期末試験を受けることはできなかったから、二度目の一年生として彼女が過ごした年の取得単位は、予定の半分にも満たなかった。

  

 その後も長い眠りを何度も繰り返し、単位が思うように取れないまま修業年限を使い切った翠は、大学を除籍になって通信制の大学に入り直した。僕たちが初めて会ってから十年が経っていた。


 「普通のキャンパスライフをちょっとは経験できたからよかったよ。隆之たかゆきくんとも会えたしね」


 そう言って笑う彼女は、もう僕を苗字で呼ぶことはない。彼女の三十歳の誕生日に、僕たちは入籍を済ませていたからだ。双方の家族、特に僕の母親は結婚に反対したが、

 「僕は翠以外の人と結婚するつもりはないよ。反対しても無駄。別に婚姻届の証人は親じゃなくていいんだし縁切ってでも僕は彼女と結婚する」

 とまくし立てたところ、一人息子に縁を切られるのはさすがに嫌だったのか、母親の方が折れる形で結婚は認められた。




 二〇一六年から始まった翠の眠りは、それまでとは様相が異なっていた。四年経っても、五年経っても目覚める気配がない。医者に訊いても、彼女が患う病気で、こんなに長く眠り続ける症例はこれまで確認されていないと言われた。そもそもが彼女と同じ病気の人自体、数が少なくて、よくわかっていないことが多い、とも。


 一度は反対することをやめた僕の親も、「こんな娘を引き受けてくれるなんて」と僕に感謝の意を表していた彼女の両親も、眠り続ける彼女を抱えての結婚生活に難色を示すようになった。


 「あなたはまだやり直しが利くんだから、別の、いい人を探したら?」


 親切のつもりなのだろう、そういった言葉に僕はひたすら腹が立った。やり直しって何なんだ。翠との生活が、翠を選んだことが、失敗だと言いたいのか。別のいい人? 翠以上にいい人が、この世のどこにいるというんだ。


 

 翠が眠り始めてから十八年後、しし座流星群の大出現の年が巡ってきた。しし座流星群はおよそ三十三年周期で大出現を起こすことで知られている。だから、翠とは次の大出現を一緒に見られることを楽しみにしていたのだが、彼女が眠っている時にそれは起こった。

 何事も、彼女が隣にいないというだけで色褪せて見えるものだということは承知だが、それを差し引いても、一人で見た大出現は、彼女と見た、あの大出現には到底及ばない規模でしかなかった。


 あの時、夜空一杯の流れ星に翠が寄せた「眠り病が治りますように」という切なる願いは叶わなかった。そう思うと、ちらちらと流れては消える流星を見ても、どこかうそ寒い心持ちになった。


  

 三十年、四十年と時が経ち、口さがないことを言う身内はいなくなった。順番に、寿命が来ることによって。翠の母などは、晩年には随分と僕のこともおもんぱかった言葉を掛けてくれたものだ。


 なにやら悲劇的な人生を送っている夫婦がいるようだと嗅ぎつけたマスコミがコンタクトを取ってくることもあったが、相手にはしなかった。翠も僕も、そんな、悲劇といわれるような身の上ではないと僕は考えていたし、翠をセンセーショナルな形で世に知らしめるようなこともしたくなかったからだ。



 五十年、六十年と歳を重ねても、翠の容姿は衰えることはなかった。時が止まったかのように変化しないようでいて、髪だけは伸び続けるので、時折切ったり梳いたりして整えてやる。最初はうまくできなくて、翠に対して申し訳ない気持ちになったが、何十年も続けるうちに自然と腕が上がった。


 僕は、彼女のようには行かない。歳とともに衰えは来る。だから――歯がなくなったから総入れ歯にする、みたいな感覚で、僕は、駄目になったところから人工物に置き換えていくことにした。

 腎臓を、肝臓を、背骨を、眼球を、皮膚を、肺を、心臓を。駄目になったところから、順番に。


 最後に残っていた自前の臓器――大脳――を頭蓋から取り去った頃には、翠が眠り始めて百八十年が過ぎていた。

 


 

 ベテルギウスがいよいよ超新星爆発をしそうだという報道は、世捨て人然とした暮らしを送っている僕のもとにも届いた。

 出会った時に翠が言っていたことを思い出す。

 この場合の『いよいよ』も何百年何千年先なのだろうか。

 超新星爆発という、しし座流星群など比較にもならないような稀な天文現象だ。叶うことなら翠と一緒に見てみたいが、翠はいつ目覚めるかわからないし、僕の身体はいつまで保つかわからない。

 それに――翠が眠りから覚めて僕を見た時、僕を『僕』だとわかるかどうかも、気掛かりだ。なんせ身体の全てを機械にしてしまったのだ。今の僕はそもそも人間に見えない。それもあって、僕は世間から身を隠しているのだ。



 翠が眠り始めてから二〇七年。  

 『いよいよ』と言われ始めてからは十四年が経ち、いよいよその時がやってきた――ベテルギウスの超新星爆発だ。光が届くのに先立ってニュートリノが観測されたことで、判明した。


 明日、ベテルギウスが爆発する――と。



 運がよいことに、爆発したベテルギウスを最初に見られる地域には日本周辺も含まれていた。ちょうど切らなければならない頃合いだった翠の髪を切ってやった後、着替えさせた。シンプルだけど上質な生地の、彼女に似合いそうなデザインのワンピースを用意してあったのだ。この時のために。

 身支度を整えたら、ベッド脇の椅子に腰を下ろす。といっても、疲れたからではない。身体を改造する過程で、疲れなど感じなくなっている。


 ただ――近くで、待ちたかった。

 翠が目覚めるのを。

 目覚めるとしたら今しかない、そんな気がした。


 ニ〇七年という永きにわたって眠り続けている翠がこの先目覚めることがあるのかどうか、僕にはわからない。人目を避けて生きて行くと決めてからは翠を医者に診せるのもやめて、情報収集だけは続けているが、彼女が患う病気については今でも詳しいことはわかっていない、ということがわかるのみだ。

 僕は翠のために身体を改造して、ともに生きることができるようになったというのに。世間一般のテクノロジーの進歩は、どうしょうもなく、遅い。

 


 もう二度と翠は目覚めないのかもしれない。

 心のどこかでわかっている。翠はずっとこのままなのだと。今まで目覚めなかったのに、今夜目覚めるなんて、そんなことは起こるはずがないのだと。


 それでも。

 それでも、翠が目覚めたら言うのだ。


「今夜、星を見よう」と。

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