口なし女
らくがき
口なし女
こんな真夏の夜更けの出来事でした。
人も蝉も寝静まり、心地よいしじまが辺り一帯に広がっておりました。
昼間とは打って変わって涼しい夜風が吹いていたことをやけにはっきりと覚えております。障子の穴を通り抜け、ひゅうひゅうとどこか物悲しげな音を立て、風に運ばれた夏草の青いにおいが家の中を充たしておりました。
わたくしが
不思議なことに戸を開ける音はいたしませんでした。かと言って窓から無理矢理侵入するような慌ただしい音もいたしませんでした。
家にはわたくしひとりきりのはずです。
はて、どこから入られたのか……。
わたくしはしばらく思い当たる人物を考えてみました。しかし、そも、こんな夜更けに訪ねてくるような知人はおりません。
ですので、用心深く布団を頭まで被って、じぃっと聞き耳を立てておりました。
かんかん照りの太陽に炙られた縁側は乾燥しておりましたから、少し湿った素足のひたり、ひたり、という音はぞっとするほどよく聞こえました。ずるずると長い布を引きずる衣擦れの音もいたしました。
軽く細く、どこか品のある落ち着いた足音です。どうやら女性の足音らしかった。
足音は縁側を真っ直ぐに進み、突き当たりを曲がり、一直線にわたくしの隠れております寝室へと降り立ちました。
素足で畳を踏む足音が更に一歩、更にまた一歩と近づき、ついにわたくしが亀のごとく潜んでおります布団に向かってくるではありませんか。
息を潜めて通りすぎてくれるのを祈っておりますと、足音はわたくしの目の前でぴたりと止まり、そこから動きません。
どこぞの誰とも分からない侵入者がこちらを向いてじいぃぃっと押し黙っているところを想像しますと、もう怖いのなんの。生きた心地がしませんでした。
わたくしは内心震えあがりながらも、お相手の言葉を待って耳を澄ましておりました。
寝間着しか身に着けていないわたくしに、一体何ができましょうか……。
しかし、どれだけ待てども、うんともすんとも、一言だって声が聞こえてこないのです。
どけだれの時間が過ぎたのでしょう、とうとう焦れったくなって、わたくしから声を掛け———
え?
いやぁ、実を言いますと、わたくしもどうしてそんなことをしたのか分からないのです。夜盗だったらば呑気に声を掛けている場合じゃありません。
しかし、気配から察するにお相手はただつっ立っているだけで動いておられませんでした。それに武器だとかの鉄のにおいもまったくしなかったのです。
代わりに香っておりましたのは白檀の香りです。女性的な華やかさと、清潔感を併せ持ったほの甘い香りでした。
それで安心したのやも知れませんね。
とにかく勇気を出し、もし、お嬢さん、と呼び掛けてみたというわけです。
しかし、何度呼びかけても返事がありません。
ひょっとすると誰もいないか、それとも猫でも迷い込んできたのを聞き違えたのかと胸を撫で下ろしました。
その時です、突如、わたくしの太く無骨な手がするりと持ち上がったのです。彼岸花の茎を想起させる手折れそうな程細い指がわたくしの手を取っていたのです。それはかの乙女の手でありました。
油断をしておりましたので、ぎゃ、だとか、うぉ、だとか間抜けな声を上げてしまった気がします。何度思い返してもお恥ずかしいことです。
かの乙女は、わたくしの人差し指の指先をご自分の小さく高い鼻に置くと、そのまま真っ直ぐ下へ、これまた細く華奢な顎まで滑らせました。
乙女の肌は、人間の肌とは思えないほどなめらかで、上等の陶器のようにつるりとしておりました。わたくしがこの世で触れた何よりも綺麗な感触をしておりました。
しかし、ないのです。人の顔に触れたことは何度とあったのですが、乙女にはない。
そうかそうか、これが伝えたかったのか、と合点がいきました。
「お口がないのですね」
そう申し上げますと、乙女はわたくしの手を離しました。
「きっとお綺麗な指なのでしょうね」
わたくしはついつい申し上げました。無意識でしたからなんだか気恥ずかしくなって咳払いをしてなんとかごまかそうと努めたのです。
乙女の指はあまりにも細く、そしてとても長かったのです。一本ずつがぴったり同じ形をしていて、爪の先まで薄くしとやかな皮膚が続いておりました。
「ご用は?」
そう申しましたが、乙女も口がないので答えようもなければ、わたくしも音以外に知る術がありませんでした。
「お耳はございますでしょうか」
そう申し上げますと、乙女は小さなお顔の輪郭に、わたくしの指を再び滑らせました。
そこには左右一対の小さな耳が付いておりました。
軟骨にすぐ触れてしまう程薄く、ぴったりと左右対称な形の良い耳でした。
「そうですか、そうですか」
乙女はやはりそこに突っ立っておられました。
わたくしはどうしてだか、この不思議な客人をもてなしたくなりました。
もちろん、哀れだと思ったからではありませんよ。強いて言うならば綺麗な方だと思ったからですかねぇ。
「琴でも弾きましょうか。これで食い扶持を稼いでおりまするので、中々の腕前だと思いますよ」
乙女は何とも返事をされませんでしたが、わたくしは既に心の内で乙女に聴かせたい曲をあれやこれやと思案しておりました。
指先で床に触れ、畳の感触を確かめると琴を下しました。
そうして丁寧に一曲を弾いてみせました。
夜の落ち着きの中で静かな客を前に弾くのは初めてのことでございました。
いつもは昼間の喧騒の中でその間を縫い取るように演奏をしていたものですから。
夜の空気をわたくしの指が振動させているような、そんな不思議な心地がいたしました。
良い夜でございました。雑音の一つもなく、肺の中が冷えるほどに空気は澄んでおりました。
かの乙女はわたくしの弾く琴をしばらくそこで聴いておられました。
見えませんが気配がありました。人はそこにいるだけで熱やにおいを発するのです。
わたくしはその時分、いつもそうやって人の存在を確かめていたので、お手の物でした。
それから、かの乙女は時折わたくしの元を訪れるようになりました。
一曲、一曲とわたくしはその度に琴を弾きました。
かの乙女から拍手を送られることはついぞありませんでしたが、毎夜通っておられたのでそれなりには気に入ってくださっていたんじゃないかと思うのですがね。
乙女がいらっしゃる夜は不思議でした。
夜だというのにあたたかで、空気がしゃんと背筋を伸ばすのでございます。
良い、夜でした。
そうして、あの晩が参りました。
夏なのに雪の中に埋まっているような、そんな静かな夜です。
わたくしは乙女を待って弦を合わせておりました。すると、いつものごとく乙女の足音がいたしました。
「こんばんは」
足音に振り返り、いつものごとく申し上げました。
返事なんて求めておりませんが、わたくしは必ずそういたしました。
乙女には口はありませんでしたが、耳がございます。
乙女にしかと聞こえている。わたくしにとってはそれで十分だったのです。
しかし、あの晩は違った。
「良い、夜ですね」
鈴を転がしたような、朝露のような声でした。蓮の真ん中に溜まった、まぁるくて、涼やかな朝露です。
わたくしは驚いてしまいました。
あの緩やかでしゃんとした、しかしどこか弱々しい足音は間違いなくかの乙女のものでした。
ここにはわたくしと乙女しかおりません。
かの乙女が話したのです。口のない乙女が。
「ええ、気持ちの良い夜ですね」
驚きを押し隠して、わたくしはなんとか申し上げました。
乙女がお話できるようになった、それは間違いなく素晴らしいことです。これでお琴の感想を聞くことができますし、世間話もできます。
乙女と正しく知り合うことができるのです。
それなのに、どうしてだか、あの時のわたくしは寂しかった。ちょうちょ結びが片方から解けていくような、そんな寂しさでございました。
そして、そんな自分が恥ずかしくもございました。
「星が出ています。たくさん」
わたくしが黙っているのを他所に、乙女は続けました。ぽつりぽつりと、取りこぼすようなお声でした。けれど、昨日も同じように言葉を交わしていたかのような、そんな何気ない声色にも聞こえました。
しかし、星とは。
星と言われると、わたくしは困ってしまいます。太陽ならばなにとなく、周りが明るい気がいたします。気温だとか肌に触れるものには人一倍敏感だと自負しております。鼻だってよぅく効きます。犬にも負けないことでしょう。
しかし、星。
星はどれだけああだ、こうだ、と言われましても、音はしませんし、明るさだって露ほども分かりません。
残念ですが、わたくしにはどうにも届かないものでございます。
黙っておりますと、乙女は躊躇うように、何度か言葉を飲み込みました。何度も何度も口を開き、つむり、開き、つむり。
そして、とうとう、笹の葉よりも鋭い言葉を、すっぱりとおっしゃったのです。
「わたし、綺麗?」
驚きましたが、わたくしは正直に、常日頃思っておりました言葉を申し上げました。
「お綺麗でしょうとも」
乙女は黙っておられました。そして、例の冷たい手でわたくしの瞼をひと撫でしました。その日の乙女の指は一段と冷たかった。湧き水のようにひんやりと冷たいのです。
しかし、しかと、血の通った人間独特の温度がありました。そのことに、失礼なお話ですが、ひどく安堵をいたしました。
驚いたり、安心したりと忙しく百面相をしたのも束の間、わたくしの世界の黒の中に白い点が現れたのです。
それは少しずつ広がり、ついには視界を覆い尽くしました。
頭が割れるような刺激が、生まれてこの方塞がり続けていた場所から濁流のように流れ込んできたのです。
それが光です。
夜は暗いものだと聞いておりましたが、とんでもありません。夜はあんなにも
光が音を立てて弾け飛び、私の世界を果ての果てまで照らし尽くしておりました。
びっくり仰天の絶頂です。
あまりの出来事に身を固めているわたくしの目の前には、乙女の顔がありました。
髪は長くて黒、肌は白、着物の色は赤。その時には色彩の名前なんて存じませんでしたから、ただただたくさんの色に囲まれた、賑やかな方だと思いました。
乙女はまっすぐにわたくしを見ておられました。その大きな目には、同じく乙女を見つめるわたくしが映っていたことでしょう。夜よりも深く美しい色彩を放つ、つやつやとした瞳でした。
あの瞳を見た時、私の世界は一気にひっくり返されたのでございます。
乙女の、鼻と顎のちょうど真ん中に、一本の深い筋が横向きに入っているではありませんか。
これこそが口、この裂け目から言葉が出てくるのか。これまで指先の感触だけで確かめていた存在に、確かめるように触れました。
鼻から顎へ。
その途中、口が指に引っかかりました。
初めてお会いした日には、決してそこにはなかった感触です。
その筋は、右耳と左耳まで弧を描くように深く裂けておりました。
そして、口を開けると、尖った円錐型の歯がちらちらと見え隠れします。
ははぁ、なるほど、これが歯か。
「わたし、綺麗?」
乙女は再び問いました。真っ赤な長い舌が震えているのが口から漏れて見えました。
答えようとしたのですが、わたくしはあまりの出来事に驚き果ててしまって、目をぱちくりぱちくりして黙ってしまったのです。
そういたしますと、乙女は少し、唇を歪ませました。眉間に薄い皺が一瞬入り、左右対称の眉毛が、均衡を忘れて垂れておりました。
ようやく口を開いた頃には、乙女は忽然と姿を消してしまいました。
本当に、瞬きと瞬きの間の一瞬の出来事です。
ようやっと体を動かして家中探し回っても、乙女の影も形もありませんでした。
もしや琴でも弾いていれば戻ってこられるかと思い、わたくしはわざと大きく響くように琴を鳴らしました。
小さなあばら屋中に、目一杯に弦を弾く音が響き渡っておりました。それこそ、他の音が入り込む隙間を埋めるかのように。
外で吠える犬にも負けじと、弦を掻き鳴らしました。そうやって、一曲、二曲と弾いても、乙女の姿は見当たりません。ばかりか、乙女の足音もいたしません。
外にいってしまわれたか。
そう思うやいなや、縁側を走り抜けて障子という障子を開け放ちました。
すると、どうでしょう。
夜空には、零れ落ちそうなほどの星空が広がっているじゃありませんか。
あるものは紅く、あるものは青く、大小様々な光の群衆が、空の上で次々と産声をあげるかのように瞬いていたのです。
わたくしは、しばらくそこから目を離すことができませんでした。
星の綺麗な良い夜。乙女のおっしゃった言葉が、質量をもって迫っておりました。
わたくしは固く固く目を瞑り、もう一度弦を弾き始めました。そうして乙女を待ったのです。
……結局、朝が来るまでひとり琴を引き続けましたが、とうとうかの乙女は現れませんでした。
夢?
いいえ、夢ではありますまい。その証拠に、わたくしの目は、あの時を境にこうして光を得たのです。
あれから何十年と経ちました。しかし、今でも昨日のように思い出せます。
この数十年、わたくしは色々なものを見てまいりました。
しかし、何度思い起こしてもかの乙女ほどお綺麗な方はおりませんでした。そして、あの夜よりも美しい夜にも出会っておりません。
お口が大きい?
ええ、本当に大きなお口でした。
ですが、それがいかがしましたか。
あのお口とお話ができたらよかったのに、わたくしが押し黙ったものですから、申し訳がございません。
叶うのなら、もう一度お会いしてあの日のお返事を申し上げたいくらいです。
あの星降る夜も、乙女と過ごしたあの静かな夜も、あまりに完全過ぎたのです。もう二度と、出会うことはないでしょう。
……今夜は星の綺麗な夜ですね。
こんな良い夜には、かの乙女を思い出してしまうのです。つい話し込んでしまいました。
爺になっても、こんなにみじめったらしくて、お恥ずかしいですね。
……ところでお嬢さん、随分と分厚いマスクをしておられますね。
口なし女 らくがき @rakugakidake
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます