4:モモカサに降る雨は、この泥と汚れを洗ってくれるだろうか

 モモカサに降る雨は、痛いほどに止まない。

 夜に隠した傷口を洗うように、露わにするように。


「先輩! どこです、先輩!」


 幾度に渡る旧市街アパートメント誤汚化ミューテーション事案は、夜半を過ぎてようやく終息した。

 現場は後始末のため、今や雑踏の中だ。

 衛生局を中心に、ガレキ撤去の消防、現場保全の規制線を張る警察、規模の大きさを聞きつけたメディア各社と野次馬たち。

 超過勤務と降りしきる雨に、誰も自然と声が荒れる。荒れるものだから、他方も呑まれないよう声を張り上げる。


「先輩! 返事してください!」


 だから、救護テントから飛び出した衛生局新人の緊急性が低い声は、誰を振り向かせるにも足りない。

 本人の必死とは裏腹に。


 アパートメントと域層を混合してしまった住人たちは、全員が五体満足で救出されている。

 衛星局員たちの懸命の『描画』によって、誰もが域層を描き直されたのだ。

 自分もまた、だ。

 それも、


「先輩! 先輩!」


 敬愛し、その力を何かしらの意図で封じる恩人の手によって。

 礼を。

 心からの感謝を伝えたくて、けれどカナが目を覚ました時、誰もその行方を知らなかった。

 だから、雨を頬に打たせるまま、騒然たる現場を駆けまわっている。


「カナ! ユウヤなら、向こうのバンに行ったぜ」

「え?」

「すげえな、腕は錆びついてなかった! 助かったって伝えてくれ!」


 偶然に目の合った同僚が、興奮混じりに答えをくれた。

 頭を下げて、弾む胸を抱えて、示す方へ。


      ※


 彼は、一重二重の人の輪から離れた、夜の寂しいガードレールに座り込んでいた。

 濡れる髪に押されるよう顔を伏せて。

 肩口が制服ごと裂けて血に染まっているが、構わず雨に打たれるままに。


「先輩」

「体、大丈夫か?」

「はい、おかげで……先輩の傷は?」

「かすり傷さ」


 そんなわけがない。この街に生きる者の外傷は、域層レイア―を全て破られたことになるのだから。

 話は聞いた。

 自分を取り込んだ、猿の形をしたアパートメントに襲いかかられ、


「咄嗟だったからな、変なとこあったら治してやるよ」


 一撃で以て全てを『あるまま』の姿に塗り替えたのだという。

 それは、かつてカナが眼前で目撃した技術。

 一瞬ですべての情報を吸い出し、精巧に塗り上げていく神業だ。


「先輩、ありがとうございます」


 だから、渾身を込めて礼を言う。

 いかな理由か知り得ないけれども、封をしていた業を以て、この身を助けてくれたのだから。

 彼は気にするな、と肩をすくめる。


「自分の身を守るってんでやっただけさ、重く受け取るなよ」


 けれど、カナにはわかっている。

 恩人の伏せた顔が、眉をしかめ頬を歪めていることを。

 まるで、こみあげる汚れた熱を、こらえでもするような顔をしていることを。


 理由はまるでわからないけれども。

 感謝もまるでかわらないけれども。


 その痛ましい表情は『私』のせいなのだと、自覚があるから。


      ※


 ユウヤは一人、息を吐く。

 喉を焼きそうな、粘度の高い熱を無くしてしまいたくて。


 腰は、ガードレール上のまま。

 素直で可愛い後輩に、コーヒーを注文して自販機に走らせた。

 今は一人。


 目頭をおさえて、背を丸める。

 であるが、涙だけは許さない。


「あいつはもう『泣くこともできない』んだからよ」


 握る拳に力がこもって、けれど逃がす先を見つけられず、震える。

 こんな姿を彼女には見せられない。

 決して『察する』ことさえ、許されない。


「『塗り潰す』ことと『塗り替える』ことに、どれだけの違いがあるんだよ」


 どちらも基層記述子ジーン・コンテクストに至るのならば『無かったこと』になることと違わないのではないか。

 目に見えて失われるか、一見そうとは見えないだけか。

 後者のほうが、より罪深いのではないか。

 咄嗟だったとはいえ。

 手癖だとはいえ。

 自分は『許されない』ことをしたのではないか。


「先輩! 微糖とブラック、どっちがいいです⁉」

「甘さなあ……お前の好きな方でいいよ」

「じゃあ、私は微糖貰いますね! ごちそうさまです!」


 口元に笑みを、手の平に余裕を。

 この随一の卓越した塗師ペインターは、自らに義務を課す。

 秘するのだ、と。

 隠すのだ、と。

 それでなければ、彼女は俺を『許す』と言うだろう。

 けれども、


「もう『誰一人も』俺を許すことなんてできないからよ」


 残るは、塗り替えられた『彼女』だけ。

 だから『被害者』はもう『どこにもいなくて』。


「許す? 先輩、何がです?」

「ああ……この雨がさ、勘弁してくれってな」

「確かに、気が滅入りますねえ……先輩はこれから始末書だってのに!」


 明るい声に、汚れた笑いをこぼして、空を見上げる。

 モモカサに降る雨が、全て流し去ってしまうことを祈りながら。

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多重域層都市は、降る雨に沈んで ごろん @go_long

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