3:モモカサに降る雨は、夜をなお暗くするから

 モモカサに降る雨は、夜がふけるにつれて強まる。

 眠ろうとする者を引き留めでもするように、痛ましい喧噪をつれだって。


「ちくしょう! 俺たちじゃ手に負えん!」


 二人が駆け付けたとき、そこは凄惨が拡大する途上にあった。

 自然崩落しかかったアパートメントの残骸が、崩れ落ちる中で誤汚化ミューテーション

 身の丈が三メートルを超す大猿が、牙を剥きだし、爪を唸らせていた。

 囲む衛生局の同僚らも、警察消防らも取り巻くだけで手を出せない。

 それを良いことに、近隣のアパートメントを手にかけたようで、火の手まで上がっている。


「ユウヤ! どうにかしてくれ!」

「誤汚化くらいどうにかしろよ! 筆を新調したばかりなんだろ!」

「住人が呑まれたんだよ! それも複数!」

「……あ?」


 雨を蹴った足が、力抜けて止まってしまう。

 すぐ後ろに続いた後輩が、追い越しざまに驚きの声をあげる。


「そんな! 域層レイア―の混合事案は聞いてますけど、複数人ですか!」

「さっき処理した上層部は、域層自体は無事だった! だから誤汚化を処置できれば、住人は問題なく吐き出された!」


 けれど、目前の暴れ猿は『アパートメントであり、複数の住人』でもあるのだ。

 アパートメントとしての状態を取り戻すだけでは『人を飲み込んだアパートメント』にしかならない。


「だから先輩なんですね!」

「ああ! お前、昔に似たようなことをしただろ!」

「ええ! この私の目の前で、ですね!」

「頼む!」


 口々に、期待を投げぶつけてくる。

 けれど、なんだか『曖昧』だ。

 降りしきる、叩きつける、止まない雨音のせいであろうか。


      ※


 頬をくすぐるように伝う雨雫を指で拭って、介入装を担ぎ直す。

 仕事へ向き合う覚悟を背負って。

 けれど、どこか力がないようで。


「先輩?」

「おう。ああ、おう。わかっている」


 言葉も、あやふやだ。

 どうしたのか、とカナは疑問する。

 前髪から雫を落としながら様子をうかがえば、彼は前へ。


「フロアごとに切り分けていく」

「え?」

「急にアパートメントに戻る可能性もあるから、気をつけろよ」


 声に緊張を帯びさせ、溜まる雨を蹴りだし、前へ。


      ※


 筆を一振りし、幾重になった『域層レイア―』を切り裂く。

 大猿が雄叫びをあげ、重い音をたてて左の肘から先が落ちる。


 アパートメントを、小さく『裁断カット』する作業だ。

 域層への介入には変わらないが、域層を『描く』ための塗師と、域層を『裁つ』ための裁師は、その性格を大きく違える。

 無論、免状も別であり、


「さぼらず、こっちの免状も取っときゃ良かった!」


 無免で行使したとなれば、始末書コースだ。

 本来の用途ではない筆で以て、域層に『隙間』を描くことで切り離しているから、切断面は酷く不格好。

 であるが、今はこうするしかない。


 だから、苦い顔で筆を振るい、眼前の問題を『分解』していく。


     ※


 カナは、同僚とともに落ちて濡れる右腕に取りつく。

 塗師ペインターとして仕事をするために。


 ユウヤが唱えた作戦は、迂遠なものであった。

 彼がアパートメントを階層ごとに切り離し、その後に他のメンバーで誤汚化と取り込まれた人々の分離を行うというもの。

 複数人を同時に分離させるには危険が大きい、との第一人者の言い分だ。

 確かに、時間さえかければ自分にだって分離作業は可能だ。研修でも、試験の実技でも、モルモットを使用した実技をこなしている。

 けれども。


「くそ! 一息に、全部塗り替えちまえばいいのに!」

「ですけど先輩は、それだと取り込まれた人にリスクがあるって……」

「方便だよ! 複数人は無理なら、切り離したとこから分離させればいいんだ!」


 やはり、と若輩の彼女は、雨に濡れる口元を閉める。

 なにせ、自分は実際にやってのけた現場を目撃しているのだ。

 筆入れから秒とかからず、分離と塗り上げをやってのける神業を。

 どうして、という思いがありながら、けれど、たしなめることなどできない。


「どうあろうが、あいつじゃなきゃ対処できねぇからな! なにも言えねえよ!」


 理由があるのだ。

 技術的なものか、それ以外なのか。

 そうでなければ迂遠な手段をとるわけもなく、


 けれど、詮索は後。

 遠回りでもロードマップを作ったのだから、そこに力を添えなければ。

 意気込んで猿の腕へ取りつくと、愛用の介入装を塗り付ける。


「二階だ! 崩落時にほとんど残っていた部分だから、質量がでかい! 気をつけろ!」

「わかりま……え?」


 警句は、けれど意を遂げられず。

 猿の腕は衝撃のためか『アパートメントの二階』へ、姿を取り戻す。

 同時に崩壊が始まり、

 

「あ」


 カナは、建材と家具の雪崩に吞み込まれてしまった。


      ※


 大猿の拳が宙を掻いて、雨を飛沫に散らす。

 咄嗟、筆を振って空間の第四層に『緩衝材』を描く。

 それでも大質量の殴打は吞み込み切れず、ユウヤの肩口を打ち据えた。


「っ!」


 制服が裂け、血を散らして体は弾かれる。

 相手の質量に、肩口の域層が全て破り捨てられたのだ。

 が、筆先をアスファルトに立てて回り、どうにか姿勢を取り戻す。


「これで終わりだ、バカ野郎!」


 勢いを筆に移し、殴りつけるように描画。

 すでに右腕、左足を切り離していた大猿は、雄叫びを高く高くあげて、首が落ちる。

 ついで、左腕が落ちて、胴体も地に伏せた。


 二階、三階、一階エントランス、吹き抜けホールと、てんでバラバラに解体しきった。これ以上の細断は、交じり合った市民への影響を考えると危険だ。


「ふう……あとは頼むぞ」


 息をついて、腰を落とす。

 あとは、駆けつけていたメンツで、被害者を助け出せばいい。

 自分がやるまでもない、簡単な作業だ。

 これ以上の超過勤務は勘弁だ、と黒々とした熱を吐けば、


「ユウヤ! おい! そっちだ!」

「!」


 警告と、圧力のある気配を察する。

 反射で振り返ると、


「うそ、だろ」


 小柄な猿が。

 牙と敵意を剝き出しに飛びかかってきていた。

 切り離したものの、再誤汚化してしまったのだろう。

 脅威だ。

 小さくなったとはいえ、ワンフロアの質量を持っているのだから。

 それだけでなく、猿の背に見覚えのある制服が呑み込まれたようにはためいている。


「カナ」


 後輩が、巻き込まれてしまった。

 一級の塗師ペインターはその絶技を振るう切っ先を、絶望に洗うよう垂れ下げてしまう。


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